第22話
「……イアン神父って、その。いわゆるオネエなのですか?」
イアンとソフィアが教会を出て行ってからヨーゼルとエルザは再びマリーのいる部屋へと向かっていた。その道中、最初に口を開いたのはヨーゼルだった。
別れ際のイアンの口調がそれまでの彼とはあまりに違っていたので初めこちらを驚かせるためにやったのかと思っていたが、演技にしてはおそろしく自然だったためにヨーゼルは「もしかして」と思ったのだ。
「そうだよ。驚いた?」
「驚きましたよ。しかし、どうして最初は……」
「最初に会ったときは、よーくんはソフィ―さんたちにとって部外者みたいなものだから外向きの対応をしてたんだと思うよ」
「そういうことですか」
素であるオネエ口調を使ったというのは『これから君はこちらの身内だ』と暗に伝えているということらしい。
「(結局のところ、口調や仕草が違うだけだ)」
熊のような外見から想像もできない中身だったが、口調や仕草が違うだけでイアンという人間の本質は変わりはしない。最初にイアンに感じた『実直そうな人』という印象が、現時点でのヨーゼルのイアンに対する評価だった。
「それで、先ほどの話ですが……入籍します?」
少し間を置きながらヨーゼルはエルザへと聞く。エルザは目を伏せる。
「……ほんとはよーくんよりも強くなってからがよかったんだけどね。よーくんはどう?」
「あの約束をした時点でいずれは結婚するつもりでしたよ」
「そっか」
エルザが一度振り返る。
「じゃあ結婚しよう」
「……先生が目を覚ましたらこのことも話さなければいけませんね」
「そうだね」
そんなやり取りをしながらヨーゼルは先ほどのソフィアの言葉を思い出していた。
『未練を断ち切れ』
ソフィアが何気なさそうにつぶやいた言葉がヨーゼルの頭の中で反芻される。
本当ならば今すぐにでもこの街を離れるべきだ。アインザッケスでいつ事件が起きるか分からないし、このままトリステンに居続ければこの町に危害が及ぶ可能性もある。
だが、ヨーゼルは眠るマリーを置いてこの街を離れたくはなかった。最後に兄のことを聞き出す必要がある、といかにも自分の行動に正当化させる理屈を自分に言い聞かせたが。
本当のところはマリーのそばにいたかっただけだ。マリーが目を覚まして笑顔で言葉を交わしてしまったら未練が強まってしまうかもしれない。
「(そう思ってしまうのは仕方がないことだ)」
結局のところ、ヨーゼルの心の中でこの街を離れることは確定している。結果が決まっているならばそれに至る過程はなんだろうと関係がない。
ヨーゼルとエルザはマリーが眠る部屋の前までやって来た。中にはマリーを見ておくためにクラウスがいるはずだ。
ヨーゼルが扉をノックする。
「お入りください」
ヨーゼルとエルザは扉を開けて中に入る。そこで、二人はベットの上で体を起こした赤い髪の女性と目が合った。ベットのそばで控えるクラウスが何か口を開く前に二人は彼女を呼んだ。
「先生!?」「師範!?」
ヨーゼルとエルザが驚いた表情のまま、マリーのところに急いでかつける。それに対して、起きたばかりということもあってかマリーのリアクションは薄い。
「クラウス神父から聞いていたがまさか本当に帰って来ていたとは。よく戻って来たな、エルザ」
「はい、ただいま戻りました……って、そんなことはいいんです! 師範、体はもう大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だからそう耳元で騒ぐんじゃない。まったく、お前は2年経っても変わらんな」
やれやれ、と呆れた様子で対応するマリーだったが言葉とは反対に口角は上がっている。これがマリーなりの照れ隠しであることをヨーゼルは知っていた。
「ですが、本当に心配しましたよ。クラウス先生から命の別状はないと聞いていましたが」
ほっと胸をなでおろすヨーゼルを見たマリーはバツが悪そうに「心配をかけた」と頭を下げる。三人の様子を傍から見ていたクラウスは目を細めて笑顔を浮かべて、ヨーゼルへと話しかける。
「ヨーゼル。マリー殿がお目覚めになったので、私はこの場を後にいたします。目が覚めてから体の具合を確認していますが、やはり命に別状は無く健康体そのものです」
「……そうですか。ありがとうございます」
健康体そのもの、ということはやはり気を失ったのは体の不調が原因ではないということを表している。無論、X線を使った検査ではないため診断が難しい病気の可能性もあるが、その可能性は無いとヨーゼルは半ば確信していた。
「では、また何かあったら申し付けてください」
そう言ったクラウスは部屋をあとにした。三人だけになった空間で、マリーとエルザの会話が続く。
「エルザ、いきなり連絡もなしにどうしたんだ?」
「いやあ、ちょっと師範とよーくんの顔を見たくなりまして」
「そうか。どれ体調がよくなったらお前がどれほど強くなったのか見てみたいものだ」
「ということは、私と手合わせとしてくれるんですか!?」
「もちろん。ヨーゼルもエルザがどれだけ強くなったか興味があるはずだ」
「そうですね……」
ヨーゼルの気の抜けた返事を皮切りに、部屋の中の声は消えて静寂に包まれる。
話したいことはたくさんあるが言い出せない。三人が揃ってそんな状態なので、沈黙が続くのは当然のことだ。
何故そうなってしまうのかというと、三人ともに口を開こうとしたときに頭によぎる何かがあるからだ。ヨーゼルは自分の過去とこの街を離れることを、エルザはヨーゼルを街の外に連れ出すことを、そしてマリーはヨーゼルの兄にまつわる話を、しなければならない。
その沈黙を破ったのはヨーゼルだった。まずは自分から話し始めなければとヨーゼルは感じたのだ。
「先生、お話しがあります」
「……あぁ」
兄バレンのことについて聞かれるだろうと思ったマリーは「遂にその時が来たか」と覚悟を決める。だが、ヨーゼルの口から語られたのは思いもよらない話だった。
「先生、俺はこの街を出ます」
★★★
どういうことだ。
そんな風に叫んだマリーを宥めたヨーゼルは、次第に落ち着きを取り戻したマリーにこれまでにあったことをエルザを交えてすべて話した。
ヨーゼル自身が掴んでいた過去のこと。ヒビキたちがヨーゼルを目的に襲撃を行ったこと。現在、エルザはヒビキたちを追う組織に所属しており、ヨーゼルもこの街から危険を遠ざけ自身も身を守るための手段として同じ組織に所属することになったこと。
そして、ヨーゼルの元に届いた手紙によってギドキア解放戦線と呼ばれる組織とヨーゼルの間に関連性があるかもしれないこと。
そして、改めてこの街を出ることを話した。ヨーゼルがこれから所属することになる組織がセリス聖教会の一部署であることや悪魔という存在については話さなかった。≪悪魔祓い機関≫が公表されていない組織であることも理由の一つだが、一番大きな理由はこの組織の存在を知ることでマリーが狙われる可能性があるからだ。
ヨーゼルとエルザがすべてを話し終わるまで、マリーが口を挟むことはなかった。それがヨーゼルの話をじっくりと聞こうとしていたからなのか、それとも驚きのあまり言葉を発することができなかったからなのかヨーゼルには分からない。
だが、1つだけ。ヨーゼルが話せば話すほどマリーの表情が険しくなっていったことだけは確かだ。
そして、すべてを聞いたマリーの一言が彼女の心情を鮮明に表していた。
「……認めん」
★★★
いま、マリーの手にはヨーゼルの元に届いた手紙と写真が握られていた。その手紙に視線を落としながらマリーは「認めん」と短く言葉を発したのだ。
「ヨーゼル、お前の話は理解した。だが、この街を出ていくことを私は認めるわけにはいかない」
この街を出る。そう言ったヨーゼルに対するマリーの返答は誤解のしようがないほどにきっぱりとしたものだ。ベットから足を下ろして腕を組むその姿からも否定の意思がはっきりと表れていた。
「……先生。いま読んでいただいた手紙だけではなく、多くの事実が俺の過去には何かがあると示している。実際、俺と接触するためにヒビキのような脅威がこの街へとやってきました。明日には解放戦線のようなテロリストがここに来る可能性だってある。俺がここにいてもいいことなど一つもないのです」
「仮にそうだとして、お前だけが命を張らなければならない理由がどこにある。≪悪狼≫やお前が相手したヒビキのような連中、そしてテロリストの対処をするべきなのはお前ではなく憲兵や国軍なんだぞ。そもそも、国軍がそういった連中の相手をするのは彼ら以外では対処ができないからだ。本来、私たちのような一般人が出ていく場面ではない……こんなことを説明せねばならない人間ではないはずだ。エルザ、私はお前の母親ではないしお前は立派な大人だ。だから、お前の行動に口出しするべきでないことは分かっているが、そのような怪しげな組織にお前が身を置いているというのは気に食わん。お前に武術を教えたのは自らの身を守れるようにするためで危険な場所へ飛び込ませるためではない。早くその組織とやらから抜けるべきだ」
マリーの表情は険しいままだが、口調は相手を諭すような穏やかさがあった。エルザはマリーの言葉にたじろぐ様子を見せるがヨーゼルは微動だにしなかった。
ヨーゼルには引けない理由があるのだ。ヨーゼルは下を向き、ポツリとつぶやくように話し始める。
「……先生もかつてギドキアで義勇軍として戦っていたことがあると聞きました」
マリーが驚いた表情をした。
何故それを、と。声こそ出さなかったが口の動きだけでマリーがそう言っているのが分かる。
「先生がどのような理由でギドキアで戦っていたのかは俺にはわかりません。ですが、命を落としかねない危険な場所であったことは分かります」
ヨーゼルが視線を上げる。その視線はまっすぐとマリーへ向いていた。
「俺にも危険を冒してまで、やらなければならないことがあります。俺はこの街を危険に晒したくはない。先生を危険に晒したくはない。だから、俺は行きます」
ヨーゼルはマリーが何を言おうと街を出るつもりだった。それが最善であることを理解していたからだ。精一杯の意思を見せたヨーゼルにそれでもなお何かを言おうとするマリーを制する勢いでエルザが頭を下げる。
「師範に教えてもらった武術をこのような形で使うことをお許しください。私は、この身に着けた力でよーくんを最後まで守ります。だから、どうか私たちの旅立ちを認めてください」
頭を下げたエルザにならってヨーゼルも頭を下げた。その二人の様子にマリーがため息をついて口を開いた。
「……街を出るだけならば、私に義理を通す必要などないだろうに。律儀な奴だ」
呆れたような口調で優しい声音。それはエルザがよく知るマリーの声だ。二年前から変わらない強くて優しい、我儘を言う子供の頭をやれやれと撫でる母のような声。
先ほどまでの問い詰めるような鋭さを持った声とはまるで雰囲気が違う。だが、エルザは油断ができなかった。
「律儀な奴ら」ではなく「律儀な奴」とマリーは口にした。このことが意味することはつまり、いまの優しい声音はエルザにのみ向けられていたということだ。
エルザが頭を下げたまま視線を上に動かす。マリーは依然として厳しい目でヨーゼルを見つめていた。
「ヨーゼル、エルザ。二人とも顔を上げなさい」
マリーの声に従い二人は顔を上げた。一瞬だけエルザの方に向いたマリーの視線はすぐにヨーゼルの両目へと注がれる。
マリーが口を開く。
「ヨーゼル、最後に一つお前に聞きたいことがある」
「(あ、これはまずいかも……)」
マリーの次のセリフがなんであるのか、エルザは分かってしまった。何故ならば、自分も同じことをヨーゼルに聞きたいと思っていたからだ。
「ヨーゼル、お前───」
「(師範、聞かないで。取り返しがつかなくなる)」
だが、エルザはそのことをヨーゼルには聞かなかった。タイミングが無かったわけではない。ただ、答えが分かっていたからだ。
ヨーゼルの答えが分かっていたから先ほどエルザはマリーに対して「旅の許し」を取り付けようとしたのだ。マリーから何の許しもなくこの街を出てしまえば、ヨーゼルはこの街の人間たちと縁を切るという確信がエルザにはあった。それだけは避けたかった。
この街とのつながりを無くしたヨーゼルはきっと自分自身を物のように扱うだろうと思ったから。
「───いや、いい」
マリーのセリフが続く瞬間を耐えるために、エルザは目をキュッと瞑りヨーゼルの手を掴んでいた。だが、エルザの予想と反してマリーが口から吐き出したのは、どうでもいいという意味を含んだ言葉。
そして、燃えるように熱い吐息だった。
「分かったぞ。お前が何を考えているのか、私には分かった」
マリーは腰を下ろしているベットから立ち上がる。マリーは自分の中に沸騰した熱があることを理解した。病み上がりだからではない。この熱はままならない現実に嫌気が差した自身の怒りから生まれていることを、マリーは理解している。
マリーはヨーゼルの顔を見据える。白磁のような白い肌に涼し気な優しい瞳、そして神秘的な白く美しい髪。神がいるのであればこのような姿をしているだろう、と。そう思わせる雰囲気がヨーゼルに漂っている。
だが、
「(ヨーゼルはそんな美しさを持った人間ではなかった)」
ヨーゼルがいま纏う美しさは、生命では持ちえないものであった。未来という名の生命が持つ可能性。それを一つに収束することで生み出される、晩期の輝き。
18歳という無限の可能性を持った生命が、その余りある可能性を死という結末に集約することでようやく生まれる美しさ。ヨーゼルが纏う美しさは、そういう類のものだ。
「ヨーゼル、お前死ぬ気だな?」
マリーは震える声でヨーゼルに問うた。
「先生、違います。俺はどんなことがあっても、前に進むと決めたのです」
「自分が死ぬということが分かっていも前に進むつもりなんだろう!!! 死への恐怖も生への執着も、すべてを振り切って前に進む。そんなの、認められるか!?」
マリーはヨーゼルの襟を掴んで目にもとまらぬ速さでベットへと叩きつけた。その上、マリーはヨーゼルが動けないように技をかけて押さえつける。
そのままヨーゼルを殴りつけそうな勢いなのを、エルザが止めに入ろうとする。
「師範、止めてください!!!」
「口を出すな!!! こいつ自身が死んでも仕方ないと考えることぐらいお前にも分かったはずだ!!!」
殺気すら感じるマリーの剣幕にエルザは気圧されかけるが、エルザは腹筋に力を入れて耐え抜いた。
「分かっています。それでも、私はよーくんの傍にいると決めたんです。最後まで一緒に」
「ハッ、死人と心中でもする気か。いまのこいつと一緒にこの街を出て行けば、お前まで死ぬことになる」
「そんなことにならないように、俺は───ぐッ」
「死人に口なし。死にぞこないであるお前が私に意見をするな」
ヨーゼルの言葉をマリーは気道をふさぐことで打ち切った。マリーはすぐにヨーゼルの気道を空けて呼吸ができるようにしてやった。
「───俺はエルザを守り、この街を守り、あなたのことを守って見せる。そのために俺は何が何でもこの街を出ていきます」
「まだ言うのか……もういい。分かった。それでもこの街を出て行くつもりなら、お前の前で死んでやる。なんならここで首を掻っ切ることになっても私は構わん」
「先生、冗談でもそんなことを言うのは……」
「お前、私が冗談でこんなことを言っていると思っているのか?」
マリーはヨーゼルの手足を押さえつけて、鼻先が触れるほどに顔が近づく。
「先生、勝負をしましょう」
突然、ヨーゼルが言った。抑え込むマリーの力が少し緩む。
「勝負だと?」
「もう一度だけ、俺と先生で試合をしましょう。俺が勝ったならば、俺はこの街を出ていく。そして、先生が勝てば俺はこの街に残る」
ヨーゼルとマリーの手合わせは優に1000を超える。だが、ヨーゼルがマリーから一本を取ったことは一度もない。
マリーの口元が真一文字に結ばれる。
「面白いことを言うじゃないか。お前はこれまでに一度たりとて私に勝ったことが無いというのに」
「だからこそ、ですよ。ここで俺が先生に勝つことができれば、それは圧倒的実力差による勝敗という運命を覆す何かが、俺にあるということの証明になる」
マリーとヨーゼルの視線が交差する。ヨーゼルの目が「絶対に勝つ」と言っているのがマリーには分かった。師匠として、その想いに心が躍った。母親としてその決意を許すわけにはいかなかった。
「……いいだろう。一週間やる。その間に鈍った体を元に戻せ」
「先生も病み上がりでしょう? 三日で十分です」
「……吐いた唾を飲み込むことはできんぞ?」
「言われずとも」
「決まりだな」
マリーがヨーゼルの上から降りる。そのままベットの上からも降りて、扉の方へ向かっていく。
「師範、どこへ行くつもりです?」
「病人でもないのにいつまでも教会の部屋を占領するわけにもいかない。クラウス神父に礼を言って宿に戻る」
エルザの問いに振り返ることなくマリーは答えた。その行動がマリーにとって二人が敵だと言っているように思えてしまい、エルザはやりきれない気持ちになる。
「先生」
扉に手をかけたマリーが、ヨーゼルの呼びかけに反応して止まる。
「三日後にまた会いましょう」
その言葉はある種決別の証だった。三日後の戦いは、互いが万全の準備を期して行う決闘。そこに家族の情を持ち込まない。そんなヨーゼルの決意をマリーは理解する。
「……おう」
マリーは短く返事をして、部屋の外へと出ていった。残されたのはエルザとヨーゼルの二人だけ。
「(どうしてこうなっちゃうんだろう)」
二人のやり取りを見ていたエルザは、自分が思い描いていた未来が手元から離れていくのを感じていた。