第七十一話 山抱龍グラガナン=ガシャ
そしてついに私達は、グラガナン=ガシャが住むといういう山頂付近まで到達した。
だが、目の前に広がる光景は既に尋常でない何事かが起こっている事を如実に示していた。
「なんだこの鎖は……」
目指す目的地である岩山に向かって、まるで蜘蛛の巣の様にその透明な鎖は張り巡らされていた。
周囲の風景に溶け込むように色を変化させながら、木々や地面にめり込むようにそれは存在していた。
「厄介な……。こいつが相手では遠目では確認出来ん訳じゃ」
私の肩に乗るシャール=シャラシャリーアはこの鎖について知っている様だった。
そして、それはヤノメも同様だった。
「この鎖は……! これはもしや大戦後の混乱期にカルハザールから失われたはずの『失われし理の鎖』……!」
私の知っている名前が出てきたという事は、そういう事なのだろう。
鎖に触れようとした私をシャール=シャラシャリーアが止めた。
「止せ。何が起こるか分からんぞ。こいつは起動中、理屈を超えて触れた物体を縛る。今はグラガナンを縫い留めている様じゃがな」
そう言って彼女は私の肩から降りると、小さな体で上手く鎖を避けながら岩山の根元へと近づいた。
私達は苦労しながらも、その後を追う。
先を行くシャール=シャラシャリーアに私はこの得体の知れない鎖について質問をした。
「こいつは失われし理の鎖。ズヌバの動きを封じるために作られた遺物の一つで、作成するための原料も、製法も、余にさえ全く不明の一品じゃ。その為後世には複製品すら作られておらんかった」
「つまりこいつは音に聞く原本?」
真剣な眼差しの守護龍が振り向いて頷く。
「でなければ、グラガナンを縛ることは出来ん」
その視線はカルハザールの二人を捉えていた。敵意は無いが、心を見透かそうとする眼差しだった。
「誓って、我々には心当たりが全くございません。そもそもこの鎖は大戦の後、カルハザールから失われておりました。もし持っていたとしてもここは禁足地。私共は入山すら行っておりません」
その言葉を信じるかどうかは別として、二人の驚きは本物のようだった。
しかしながら、明らかな害意を持って仕掛けられているこの鎖の出所について、最も怪しいのはやはり元々鎖を保管していたらしきカルハザールだろう。
龍の秘薬の件もあり、その印象は悪くなる一方だ。
逆にそれが、私には彼らの身の潔白の証明であるようにも思えた。
結局の所、物証など何処にも無い。全ては心象一つだ。
だからこそ私は彼らを信じる事にした。
「シャール=シャラシャリーア。グラガナン=ガシャは大丈夫なのか?」
「無論。これは身動きなどを強烈に縛るのみで、命に何ら影響は及ばさん。人間ならば、まあ、動けない状況で放置されれば餓死などするのかも知れんが」
そして私達は鎖が幾重にも巻き付く岩山の根元までたどり着いたのだった。
岩山の周囲には不自然な程草木が無く、露出した土が辺りに広がっていた。
そして岩山に向かって伸びる様にごつごつとした地形が一条だけ存在している。
そこから岩清水が横に並んだ状態で噴出しており、ここに来るまでに辿って来た河の源流がこの地点である事を示していた。
シャール=シャラシャリーアは岩山の周囲の露出した地面に向かって手を翳した。
すると、王都で見かけた結晶体が岩山を取り囲むように伸びていく。
まるで生き物の様に成長する結晶体達が一メートルほどの高さに到達すると、それらが一斉に硝子が割れるような音を出して崩壊した。
「グラガナン! グラガナン=ガシャよ! 聞こえとるか!」
結晶を生み出したシャール=シャラシャリーアが岩山に向かって叫ぶ。
瞬間、何もいないはずの周囲に濃密な気配が立ち上った。
守護龍以外の全員が、咄嗟に臨戦態勢を取るが、気配はそんな私達を意に介さずに増大していく。
やがて地面が一度ぐらりと揺れると、岩山の根元に積まれるように存在していた巨大な岩石の一つが、ぎょろりと目を見開いた。
猛烈な地響きと共に、鎖に縛られた岩山が動く。
埋もれていたそれがゆっくりと地面から浮かび上がると、私達は只の岩山だと思っていたそれが、鼻先に生える角であったことに気付けた。
この時、上空から霊峰を見ることが出来ていたならば、岩山を中心に螺旋を描くようにして身もだえする、一対の腕を持つ巨大な蛇の様な龍の全容を理解することが出来ていただろう。
だがそれが出来ない私達は、ただ目の前の巨大な存在に圧倒されるばかりだった。
岩清水を首元から溢れさせるそれは、鎖によってその身体を縛られているためか自由に動くことが出来ないようで、だが、それでも私達の遥か上空から睥睨するようにその鎌首をもたげさせた。
「久しぶりだな、シャール。情けない姿ですまん。そして他の者、身共がグラガナン=ガシャだ」
余りにも巨大なその姿に比べれば随分小さな声が頭に響いた。
その低い男性の声が、頭に直接流れるそれだと気づくのにほんの少し時間を要したが、彼の姿を受け止める事に頭を割いていた私達には無理からぬことだったろう。
山抱龍グラガナン=ガシャ。
正しく、山を抱く龍という訳だ。
大よそが岩石で構成されたその身体には生きた木々や草花が生えており、また身体の側面からはここに来るまでに見た河の水源たる水が迸っていた。
その身体自体が一つの山そのものに近く、それでいてその全てがグラガナン=ガシャという龍を構成する要素でもあった。
「シャールは好かんくなった。グラガナンよ、出来ればフルネームで頼む」
「相変わらず、若いのに勝手な奴だな。シャール。だが、礼を言おう。素よりここから動くつもりも無いのだが、今の状況は少しだけ不便でな。良くぞ来てくれた」
グラガナン=ガシャがまるで笑うかの様に岩石の瞼目を細める。
シャール=シャラシャリーアがここに来ることになった経緯を説明する中、カルハザールの二人は地に膝を付け、畏まっていた。
「そうか、そこの者共、身共はお主たちを歓迎する。寧ろ、遥か昔の口約束を未だに守ってくれている事に驚いている程だ」
余りにもあんまりな発言だが、考えてみればそれも当然なのかもしれなかった。
龍は人の政に口出しなどしない。
禁足地と定めたのはあくまでも人の側であって、グラガナン=ガシャが強制力を持って制定したわけでは無いのだろう。
「大戦の折、身共の身体を踏み付けにし、あまつさえ削り取ろうとする狼藉者に腹を立てて叱りつけたのが始まりよ。あの時は年甲斐もなく大声を出してしまったのでな。反省している」
結局、同じことをしないと約束さえしてくれるならば、山を通ることを禁止したりはしないし、そもそも禁止に出来る権力も無いというのがグラガナン=ガシャの言い分だった。
だがこれは、忘年会の無礼講を信じるのかという話に近い。
カルハザール側は慎重な対応を求められるだろう。
それよりも、現状気になっている事があった。
「グラガナンよ。どうしてこのような有様になっておる? 何故グレイプニルがお主を縛っておるのじゃ?」
「シャールよ。これについてはお主がこんなにも早く来てくれるとは思っていなかった。改めて礼を言おう。これの所為で身共はこの地の魔力を正すことで精一杯になっていたのだからな。先ほどの様にお前の協力が有れば、これを外すことも出来よう」
音もなく、色の無い鎖を揺らしながら龍は答える。
「うむ、ではまずこれの対処からじゃな。そうしたら話を聞かせてもらおうぞ」
そう言ってシャール=シャラシャリーアはグラガナン=ガシャの頭部に触れようと近づく。
「それはお待ちください」
瞬間、それを制止する声が響いた。
全員が声の方角を注視する。
「お主……やはりこうなっておったか」
声の主は、カルハザールの会議参加者、その中の一人である男性の文官だった。
全部で四人やって来たうちの三人目とも言うべきその人物は、山歩きには全く適さない格好のまま、能面の様な表情で森の中に佇んでいた。
「何故彼方がここに居るのです!? 大聖堂に残っていたはずでしょう!」
「んだ! 返答によっては、手荒に行かせてもらうべ!」
ヤノメが叫び、ダイクンが自分の得物である大斧を構えた。
男はその表情を変えない。
そして男からは、強烈に苦い匂いがした。
化けの皮が剥がれたようだ。
「あれは貴方達のお仲間で合っていますよね? 名前はなんです?」
私はヤノメとダイクンに向かって質問をする。
「んだべ。あの男は……」
「はい、そうですが、あの男は……」
私の質問に答えようとして、二人の目が驚愕に見開き、互いに顔を見合わせた。
二人は前半を肯定し、そして後半の質問には答えることが出来ないでいた。
「私は、私。私です」
能面の様な顔をした男は、答えになっていない答えを返す。
「ズヌバらしい仕打ちじゃな。名前を食われておる。アダム、あれはまだ人間じゃが、最早どうにもならん。しかし余達には手が出せん。すまん」
私は彼女に謝罪は必要ない旨を伝えると、複合剣を構えた。
つまるところ、あれは敵だ。
ズヌバの手下Aだ。
そういうものでしかない。
そういうものでしかなくなってしまった。