第百三十四話 浄命の焔
アリアを倒し、過剰に発揮された火の力によって全身が破損しながらも、私とふぇに子は何とか覇者の塔最上階である頂上へと降り立つ。
魔窟の基本原則。先に進むにつれて一つの階層当たりの広さは狭まっていくというそれに従い、最上階は半径十メートル程の広さとなっていた。
その中心から程離れた位置に私達は存在していた。
アリアが最後の力で最上階へと乗せた飛行船の乗船部が、そんな私達から、黒龍が佇む階層の中心を挟んでちょうど反対側、その外縁部から少し離れた場所に見える。
ミトラ、無事だと良いが。
「――此度の、勇者達ですね」
乗船部へ向かおうとしたその時だった。
最上階中央に座す、今まで出会った龍の中では最も小柄なその黒い龍が、落ち着いた男性の声で私達に声を掛けて来た。
その声色同様に、見た者に深い思慮を想起させる瞳をこちらへと向けながら、彼は四脚歩行型のその身体を、前脚を揃え、後ろ脚を畳んだ状態で座っていた。
彼の身体は、その殆どが夜の闇を思わせる黒色をしており、鱗には高貴な印象を与える光沢がある。
確かに、その名前が一つの国の権威を司るのも無理はないと思わせるだけの威厳があった。
だが、間近で観察する事が出来て初めて分かった。
その表面には、まるで経年劣化した石像の如き細かな罅割れが至る所に走っており、身体から感じる魔力の波動もまた、今までに出会って来た龍とは比べ物にならない程に小さかった。
そしてその身体の一切、指一本ですら動かす気配が微塵も感じられない。
覇者の塔管理者、黒龍。
彼は、その代償としてこの場から動くことが出来ないでいるのだった。
「アダムさん、貴方はどうやらシャールやグラガナンから伝え聞いた通り、嘗ての勇者達同様に心優しく、そして非常に強いお方のようですね。今回のかの者の手引き、良くぞ退けて下さいました」
「おお……イケボ」
ふぇに子、ステイ。
気が抜けた私達はグレイプニルの効果で一体と化していたそれが解け、それぞれが元の状態へと戻ってしまった。
私は全身が滅茶苦茶に破損していて無事な箇所が全く存在しないし、ふぇに子は元のクソ雑魚スタイルだ。
炎の塊となって実体の無い状態だったふぇに子の代わりにこちらがダメージを引き受けていた分、彼女には目立った負傷は見られ無い。ただ、高価そうな服や装飾品は殆どが駄目になっている様だった。
「これ、借金増える流れですよね……」
流石に経費で落としてもらいたいところだ。
すっかり気が緩んでいた私達だったが、それも離れた位置の乗船部から一人の男の子が降り立つと気を引き締めざるを得なくなった。
「ミトラ君!」
第四皇子、ミトラ・ネドクリフ・バトランド。
今回の事件の発端となったとも言える人物であり、その身柄には今後、強力な制約が課されるだろう。
だが今は無事を喜ぶのが先だった。
「一体何がどうなって……あっ!!」
ふらふらとよろめきながらも頂上に降り立ったミトラは周りを見回すと、自分が今いる場所の中心に存在する黒龍に気付いた様子だった。
瞬間、その子供らしい笑顔を満開にして黒龍の傍へと駆け寄って行く。
「ミトラくーん! ちょっと、怪我とかはないですかー!?」
ふぇに子の声掛けを無視してミトラは走る。そして彼は黒龍の足元に辿り着くと、その姿を見上げた。
「黒龍様! お会いできて光栄です! 僕は貴方にどうしても聞きたい事が有ってやってきました!」
ミトラは完全にこちらが見えていないかのように振る舞っている。
ふぇに子は仕方なく彼に駆け寄ろうとして――。
「待て、ふぇに子」
私の手によって、それは阻まれた。
「あの、こうやって皆の為に頑張って……」
輝かんばかりの笑みを浮かべたミトラの口が、その言葉の続きを紡ぎ出す。
「利用されて朽ちる気分はどうだ? ジルギリス=エクターラ?」
ミトラの顔は笑っていた。
それは本当に愉快そうな、子供の笑みのままだった。
しかし、それが本当の笑みで無い事を、この場ではふぇに子以外の全員が理解していた。
「久しいですね。随分意地悪な質問をしに来たものです」
呆れたように、そして当然の様にジルギリスと呼ばれた黒龍は言葉を返した。
「すまんなジルギリス。やはり君は他の礼儀知らずと違って、あの酷い名前を呼んだりはしないのだな」
「ええ。君は確かにそれだけの事をしました。でも、古い友人でもある。これは私からのせめてもの友愛です」
親し気に、それでいて本来のミトラでは行えるはずも無い会話を行うその様子に、私に押し留められていたふぇに子が静かに声を発した。
「アダムさん……これは……どういう事なんですか」
「…………ズヌバ」
私の呟きに、その意識を廃龍に乗っ取られた少年が素早く反応した。
「口を慎め、アダム。今はお前らと話をするつもりは無い。……それでどうだ、ジルギリス? こんな役目は終わらせて、私にその魔窟核を譲る気は無いか?」
その乱暴な申し出に、ジルギリス=エクターラは静かにその瞳を閉じた。
「残念だけど断らせて頂きますよ。これは、如月との約束なのです」
「キサラギ! 勇者キサラギか! ああ、私が倒された後の君との旅の様子! 絵物語になっていたぞ! この身体の持ち主も随分と好んでいた!」
ズヌバは何が楽しいのか大笑いを始めた。そして暫く笑い続けた後、不気味なほどにその調子を戻してこう言った。
「君は私に感謝すべきだな。あの小僧が恋慕していた女、確か……そう、『コヨミ』だ。あの女が私と相打ちになったからこそ、君は愛するキサラギを手に入れることが出来たとも言える」
その言葉を聞いたジルギリスは、閉じていた目をゆっくりと開いた。
「楽しい旅だったようじゃないか。だがもう充分だろう。何を約束したかは知らんが、本来の仕事に加えてこれ程の規模の魔窟の運営など……君は後、千年も経たずに死ぬぞ?」
「千年あれば充分です。彼と旅をし、そして死別れた事でつくづく実感しましたが、私達は永く生き過ぎる。そして永い寿命の身体に対して、心は――随分脆い。正しく君が証明した様にね」
じっとねめつけるような視線をミトラの身体で喋るズヌバに向けたジルギリスは、それだけ言うと再びその目を閉じてしまった。
「そうか……交渉決裂だな。君とは穏便に済ませたかったのだが仕方が無い。皇帝とやらになって、管理権を奪うしかないな」
ズヌバはそれだけ言うと、下の階へ向かう階段へと歩を進める。
「ちょ、ちょっと待って下さい! ズヌバってどういう事ですか!? ミトラ君はどうなったんですか!?」
私の静止を振り切り、ふぇに子がズヌバの前に立ち塞がる。私も、半壊した体を引き摺りながらその後を追った。
「ミトラ君! ミトラ君!」
「五月蠅い羽虫だ。そこを退け」
ミトラの身体のまま、冷酷にそう告げるズヌバの肩を揺さぶりながら、ふぇに子は元の身体の持ち主の名前を叫び続けていた。
「ズヌバ、貴様を何処にも行かせはしない」
私はふぇに子を押しのけて後ろから手を伸ばすと、ミトラの頭を鷲掴みにした。
「アダムさん!?」
「ほお。殺す気か? なら教えてやろう。ミトラという身体の持ち主の意識はまだ生きている。邪血の力が随分弱められてしまってな。意識を乗っ取るのが限界だった。まあ、寧ろ意識を乗っ取れたのが僥倖よな。この身体の持ち主は、随分と脆弱な心だったぞ」
私に頭を掴まれたままでズヌバは話し続ける。
「可哀想にな。私には手に取る様にこの小僧の意識が読める。親に愛されず、必要とされず、己が無力であると思い知らされ、努力しても自分の力で何も成し遂げられず、物語に逃げ、そして代替品の僅かな愛に縋る」
蔑みを含んだ口調で、ズヌバはミトラの心の内へと土足で踏み込み続ける。
「私が代わってやった方が良い人生だ」
「言いたい事はそれだけか」
私の、彼の頭部を握る手に力が籠る。
それでもズヌバの顔は、そのニヤついた笑みからほんの少しも変わる事がなかった。
「そんなことありません!!」
ふぇに子が、私とズヌバの間に入り込み声を荒げる。
「さっきから聞いていれば何を勝手な!! お前が! お前が台無しにした!! ミトラ君は愛されていました! アリアさんがいました! まだ子供でした! 助けを求めるのは当然です! 私だって、彼を助けようと思えました! きっと、もっと、これから出会う沢山の人の中で、そう思ってくれる人と出会えたはずです!」
ふぇに子の目から、炎の涙が溢れ返る。ふぇに子はそれを袖口で拭ったが、炎はまるで霞の様に消え、それが服を燃やすことはなかった。
「愛か。それは認める。素晴らしい感情だよ。だから利用させてもらった。お前達をよこした神と同じだ。神共は勇者を『愛』で縛る。己で勝手に解釈させた義務で動かす。そうだろう? 私に怒る前に、お前たちに戦いを強いる神にこそ怒りをぶつけたらどうだ?」
ふっと、周囲の温度が下がった気がした。
私はそれで凍えたりはしない。だが、目の前のズヌバは、その身体の本来の持ち主による生理現象によってその身体を身震いさせた。
「分かりました」
ふぇに子を中心に、高所故の冷たい大気が渦を巻き始める。
それは彼女の胸の亀裂の奥、彼女自身の心臓たる、不死鳥の核へと吸い込まれていった。
ごうごうと、風が吸い込まれていく。
いや、これは風ではない。
熱だ。
ほんの僅かな大気の熱。
人が触れれば『冷たい』と感じる熱。
だがしかし、それは相対的なものでしかない。
温度というものは確かにそこに存在する。
それが、彼女の意思に呼応して集結しつつあった。
ズヌバの歯がガチガチと音を鳴らしていた。
それは決して恐怖からではないだろう。
底冷えのする、熱を奪われた環境の所為なのだろう。
火の無い不死鳥であるふぇに子を恐れる道理は、意識のみである廃龍であっても、寧ろだからこそ恐れる理由がない。
だがそれもやがて、恐怖からのそれに変貌するだろう。
何故ならば――。
「お前の命は、穢れている」
目の前の不死鳥が発火する。
灰が灰で無くなり、命の炎が芽吹き始める。
それは彼女自身の意思の表れであり、舐める様に一帯に広がった炎は、しかし何物も燃やすことはなかった。
「あ、熱い! なんだこの炎は!? 不死鳥!? 違う! これは……! 熱い熱い熱い熱いぃーーーーー!!」
その炎は、唯一ミトラの身体だけに着火し、しかしその身体には火傷などを負わせることはない。
火が付いたのは、その身体に潜む穢れた命、それだけなのだから。
私に頭を鷲掴みにされ、その手を外そうと幼い皇子の身体で必死の抵抗を試みるズヌバだったが、それが叶わないことは明らかだった。
暴れるミトラの両肩を、ふぇに子が正面から両腕で掴む。
鉄板に肉を押し付けた時の様な、じゅうじゅうとした音が鳴り響く。しかしやはりミトラの身体には一切の損傷はなかった。
「熱い! 熱い! 嫌だ! 燃える! 私が燃える!! 何故だ! 何故私ばかりが死なねばならない!! どうして!! こんな事が!!」
その言葉に何も返さず、ふぇに子は大きく息を吸い始めた。そして限界まで吸い終わったそれは、物事の道理として次の動きへ移る。
「やめッ――!!」
白銀の火花を伴う不死鳥の吐息が、その言葉尻と共に、それを紡ごうとした意識諸共焼き飛ばす。
その長い長い放射の後に残ったのは、ただただ眠っているかのような穏やかな顔のミトラ皇子と、炎を出し切って灰色に戻ったふぇに子だけだった。
「『どうして』か……」
意識を失ったミトラを抱きかかえる私と、それを心配そうに覗き込んでいたふぇに子の元に、黒龍の静かな声が届く。
「君だって認めていただろうに――」
黒龍は身じろぎもせず、しかしその視線だけを空へ向けた。
空は、アリアを送った私達によって雲が払われ、その蒼穹を露にしていた。
「――愛だよ。己以外の命を尊ぶ、連綿と続く命の連鎖の中で、一番必要な心。君にはそれが、欠けていた」
陽光を受けて黒く煌く、傷だらけの龍は、それだけ言ったきり深く目を閉じると、後は何も語る事はしなかった。
次回、エピローグ。