第百二十八話 今
ふぇに子と共に落下した私は、鎖を掴むその摩擦で何とか減速こそ出来ていたが、当然の様に着地は困難を極めた。
空中での動作補助が何も出来ない事もあり、落下地点は覇者の塔の外壁になる見込みだった。
「ふぇに子、しがみ付いて歯を食いしばれ!」
「いー!!」
ふぇに子を支える腕を外し、私は空いた手で拳銃を握る。
飛行船に突入する前に、既に銃弾は装填済みだ。
人が居るため、真下方向には撃てない。
同時にそれは落下地点の変更も難しい事を示していた。
私は着予想地点である塔の外壁に向かって銃弾を発射する。
風撃を受けた外壁に亀裂が走ると共に、私達の落下速度が僅かに落ちた。
だが、軟着陸が可能になる速度には程遠い。
私はふぇに子を抱えたまま、塔の外壁を粉砕しながら内部に突入することになった。
壁の向こうは魔物の配置された玄室だったようで、私はその住人を轢き飛ばしながら更に壁をもう一枚破壊した。
そして通路に出て反対側の壁にぶち当たり、そこに大きな罅が入ったところでようやく勢いが止まったのだった。
「ふぇに子、無事か?」
「来々世に行くかと思いました」
良し、無事だな。
私はふぇに子を床に降ろすと自分の状態を確認した。
グレイプニルを引き出したせいで胸の装甲には穴が開いており、そこから私の核が露出しかけていた。
また落下の衝撃で身体のあちこちの装甲板に破損が発生している。
私はそれらを修復していった。
そして胸の装甲を直しているその時だ。
その様子を、床にへたり込むふぇに子が見つめていることに気付いた。
彼女はじっと、私の胸の傷が塞がっていく様子を眺めている。
そして、自分の胸に手を添えて、悔し気に下唇を噛んだ。
「アダムさん……わたし、わたしダメでした」
ぽつりと口から出た言葉を皮切りに、ふぇに子は滔々と飛行船での出来事を語り始めた。
第四皇子は、ただ龍に会いたいだけの子供であった事。
アリアはそんな彼の願いを、恐らくは自らの願いと絡め、歪んだ形で叶えさせようとしている事。
皇帝を目指さず、皇子ではない只の人間として、共に努力を重ねて塔を登ろうと伝えた事。
でもそれは、ふぇに子の望みであって向こうにはそれを呑むつもりは無かった事。
望まれたのは、結局『自分』ではなく、自分の持つ『心臓』である事。
それらをふぇに子は拙い語り口ながらも私に話して聞かせてくれた。
「わたし、何のために生まれ変わったのでしょう? 今度こそ何かが出来る、何かをしないといけないと思っていました。でもそれは、わたしの自惚れだったのでしょうか? もしかしたら、前の人生で無駄にした心臓を、今度はわたしがそれを必要とする人に渡すべきなのでしょうか?」
ふぇに子は言葉を紡ぎながら、その声はどんどん震えていった。
塔の床に、それを焼く炎の粒が落ちていく。
「何故わたしが生まれ変わったのでしょうか? もっと辛い思いをして、もっと世の中の為になる人がいたはずなんです。……アダムさんみたいな、誰かの為に力を貸してくれるような人が、本当はわたしの代わりに生まれ変わるべきだったんです」
絞り出すような溜息がふぇに子の口から漏れ出る。
それきり彼女は喋るのをやめ、その顔を両手で覆ってしまった。
震える背中だけが、その感情を私に伝えてくる。
バカみたいなことを言って、実際バカで、明るく振る舞っても気づけばその心の火が落ちている。
ふぇに子はずっと、先ほどのような思いを抱えていたんだろう。
ふぇに子はずっと『自分』だった。
私やゼラは、生まれてすぐに魔物として戦って、その意識と記憶は人間の物でも、本能が魔物としての生き方と身体を肯定してくれていた。
ゴーレムでもあり、スライムでもある、前世を引き摺った元人間。
それが私達だった。
「ふぇに子」
私はそっと彼女の肩に手を置いた。
「――君は強い。前にも言ったな。これはお世辞じゃない」
嗚咽で震えるその背中は、未だその動きを止める気配はなかった。
「君は、前世の記憶を殆ど全て持っていると言っていたな。それは私や、もう一人の転生者であるスライムのゼラにも無い、君だけの特徴だ」
ゼラと会って分かったが、私は本当に覚えている前世での記憶が少ない。
彼女は一目見てサーレインが自分の妹の生まれ変わりである事に気付いたが、私など、悲鳴を聞いて記憶が刺激された程度で、結局直に会っても長らく思い出す事は無かった。
娘に対する執着が、笑わせる。
「何故、私は忘れていて、君達は覚えているのか。ずっと疑問だった。だが、その答えは見つかったよ」
年齢ではない。性別でもない。ましてや、何か特別な意図がある訳でもない。
「それは単に、私が忘れたかったからだ。逃げたのさ。妻に死なれ、娘の病気に骨髄の一つも使えず死なせ、妻の死に際の約束も守れなかった。意味も無いのに働いて働いて、その癖自分だけ無駄に長く生きて、最期には――何も意味が無かった人生に気付いて、死ぬのが怖くなった男だ」
そうだ。
私こそ、何の意味も無い男だった。
ふぇに子は私を、誰かの力になれる人間だといった。
だがそれは無意識に、私がそうしなくては堪らなかったからだろう。
自分の命など、他の誰かのためにあって当然で、飢える事も疲れる事もない身体で止まることなく働き続けることが出来る。
嬉しかったはずだ。頑張れたはずだ。
人の為、娘の生まれ変わりの為と言ってきたが、本質的にそれは全て自分の為だった。
「それでも妻の顔も名前も思い出せない。きっと、合わせる顔がないとでも思っているんだな。私は何か、神に選ばれた特別な使命とやらを言い訳にして、全ては只、逃げているだけだ。ずっと帳尻合わせをしているんだ」
私の言葉をじっと聞いていたふぇに子の嗚咽が引き始める。
「それは、わたしだって同じで――」
「違う。君は、私とは違って前世を受け止めている。自分の弱さを、認めている」
そして、自分なりにずっと頑張って来たじゃないか。
それを私は無駄などと思わない。絶対に。
炎の熱の軌跡が残る顔を上げ、ふぇに子は私を見た。
「心臓が無駄になったなどど、言わないでくれ。そうで無くするために、今、君はまだ生きているんだろう? 私やゼラの様に、後悔の先の『今この時』を生きているんだろう?」
説教が出来るほど、自分でそれが出来ているわけでは無い。
それはずっとそうだった。
それでも、私は彼女に後悔をしたままでいて欲しく無かった。
「何のために生まれ変わったのかと聞いたな。ふぇに子、それは君が一番良く分かっているはずだ。その傷を塞ぐためだ。自分を――認めてやれる、自分になるんだ」
それは、私自身に言い聞かせるも同然の台詞だった。
全く、グレース達の言う通りだった。
人に教える事で見えてくるものも有る。
それは例えば、鏡には映らない自分の姿、とかだ。
私とふぇに子の視線が交差する。彼女の瞳には、見間違えではない種火がちらついていた。
そして彼女の口が開かれようとして、不意に、塔の外から大きな振動音が鳴り響いた。
私は急いで自分達が入って来た壁の大穴から外の様子を伺う。
音の原因は、やはり飛行船だった。
その機関部から強烈な異音が鳴り響いている。
そして飛行船は、マールメアが予想していた限界高度を超えて、ゆっくりと上昇しているようだった。
私の脳裏に彼女の言葉が思い返される。
――魔導触媒。
「秘薬か……!? 誰が使った?」
ふぇに子の話から察するに、アリアが持っていた秘薬の濃度は相当な物だろう。
パーマネトラの二の舞だけはごめんだった。
だが追いかけるにしても既に相当な距離を離されている。
皆のアシストを入れても追いかける術が思い浮かばない。
「アダムさん……」
床から立ち上がったふぇに子が不安そうに私の名前を呼んだ。
いや、方法は――ある。
「ふぇに子」
私の呼びかけに、彼女はびくりとその身体を反応させた。
その表情には、明らかな怯えが見て取れる。
無理もない。
彼女は人間過ぎる。
精一杯の勇気は、先ほど使い切ってしまっただろう。
命を懸けて戦うなぞ、平和な日本に暮らしていた十九の少女に出来る事では無い。
そう考えた時、私の頭にはライラの顔が浮かんでいた。
ああ、やはり。
ライラは、ライラなのだな。
「君は一旦下に降りて――」
私がふぇに子に避難をさせようとしたその時だった。
「アダムさん……!」
ふぇに子が私の言葉を遮る。
強い目で私を見つめる彼女の身体がじわりと白熱し、その熱を高めていく。
「今のわたしは、まだ自分を許せません。この熱も、きっとまた冷めて行きます。この胸の傷が、わたしの心が、わたしの心臓の鼓動を認めてくれない限り、これは続くでしょう」
そう言って、彼女は私の左手を掴んだ。
螺鈿の光沢を放つ鎖が巻かれた左腕を、しっかりと掴んだ。
「だけど……! だけど、『今』! 今! やらなきゃいけない事が有るんです!」
ちりちりと、不死鳥の小さな炎が彼女の周りで舞う。
「だから今! もう一度力を貸してください! 弱いわたしには、アダムさんの助けが要るんです!」
そう言って彼女は飛行船を見上げた。
きっとその瞳は、そこに居るはずの助けるべき誰かを想っているのだろう。
やはり、彼女は私なんかよりもずっと強い。
人間のまま、人間の心のまま、飛ぶと決めたのだ。
「ああ、ふぇに子。こちらこそ、お願いする」
私達は互いに頷く。
今この時だけの裏技だ。
グレイプニルが、理外の鎖がふぇに子の胸に伸びる。
それが彼女の身体に溶け込むようにその先端を埋めると、それはまるで縫い糸の様に彼女の胸の傷を縫合して行く。
さあ! 一緒に、塔を昇ろう!