パンドラの箱 引きこもりの部屋
———ゆかり視点———
「ゆかり、この曲だけ急に上手くなったわね。新しい先生でも見つけた?」
私のピアノの先生、あやのさんが、少し訝しげに眉をひそめながら訊いてくる。
“この曲”とは、いつもゆうくんの家で弾いている曲のことだ。
「近所の引きこもり美少年のところで毎日弾いてるんですよ。」
「え、なにその急に羨ましい話。その少年に聴かせるために猛練習してるってこと?」
「いや全然。その子がダメなところを指摘してくれるんで、そこを直すと良くなるみたいです。」
「え、ちょっと待って、全然意味がわからない。」
私はゆうくんが音に色を感じること、色の濁りや濃淡、質感で良し悪しが分かることを話す。
「音に色や形を感じる…?しかもそれで音の良し悪しが分かる…?そんなの、音楽やるために生まれてきたような才能じゃない。」
「やっぱり先生もそう思いますよね。そこでお願いがあって…」
「なによ?」
「ゆうくんに会ってあげて欲しいんです。”ピアノの先生は怖い人ばかりではないんだ”ってことを教えてあげたいんです。初めて会ったピアノの先生がゆうくんの才能に嫉妬して、それがピアノを弾くトラウマになっているみたいなんですよね。」
「なるほど、わかった。将来の優秀な生徒の卵かもしれないし、今度一緒に家まで行こうかな。」
これでゆうくんがピアノを弾くのに一歩前進できるかも。
私はその時、そんな無邪気なことを考えていたんだと思う。
私はまだ知らなかったんだ。
煌めくような才能は、その輝きが強ければ強いほど、周囲のことごとくを焼き尽くしながら大きくなっていくことを。
私はまだ気づいていなかったんだ。
この小さな一歩が、あの小さな部屋に閉じ込められていた太陽を、解き放つ一歩だということに。