ピアノと、音と、あなただけの世界
————あやの(ピアノの先生)視点----------
私は戦慄していた。
作曲者も知らなければ、楽譜も読めず、楽器を弾けるわけでもない。
それでも、人差し指だけで弾くピアノには鮮烈な感情が宿り、ゆかりのピアノに口を出せば、みるみるうちに音が良くなっていく。
ゆかり曰く”音が見えている”らしい。
正直なところ、半信半疑だったけれど、こんなことが出来るのなら、本当かなんてどうでも良い。
『この子がちゃんと習ったときに、どこまでいけるか見てみたい』
そう笑顔で語ったゆかりの気持ちがよく分かる。
この子がどこまでいけるのか、どこまで行ってしまうのか。
私もそれをみたくなっていたんだ。
「私と一緒に弾いてみようよ」
ゆうくんの左に座っていたゆかりをどかして、そこに座る。
そんなにビクついてイスのギリギリまで離れなくても….
「でも僕、ピアノ弾けないよ…?」
「ドだけでいいよ。私が合わせる。」
「そう…?」
すぐに人差し指で鍵盤を叩き始める。
非常に無機質な音だ。
「自由にやっていいんだよ?」
「うーん…わかった。」
ゆうくんの音に、やっと感情が乗り始めた。
『あなたはだあれ?なんでここにいるの?』
ゆうくんの出す音に、即座に合わせてゆく。
『あなたと友だちになりたいの。一緒にあそぼ?』
私の返事に、音に一気に感情が溢れ出す。
強い喜び、
輝くときめき、
少しの寂しさ、
愛されたい気持ち、
淡い期待。
ドだけじゃ足りなくなったみたい。
私のピアノに合わせて、いろいろな音を重ねてくる。
両手の人差し指しか使えなくて、もどかしいんだね。
すごく微笑ましくて、ちょっと笑う。
今弾いている音だけじゃない。
次に私が弾く音も分かっているみたいに合わせてくる。
『ゆうくんは友だちが欲しかったんだね。』
私もピアノで応えていく。
私はあなたの味方で、
仲良くなりたいと思ってて、
あなたのことをすごいと思ってる。
ふと、右でピアノを弾くゆうくんと目が合う。
カチッ----------
二人の出す音が、ピアノが繋がり合う感覚。
いつの間にか、私はもう合わせてはいなかった。
ゆうくんが合わせているわけでもないと思う。
自然と、二人で溶け合ってピアノを弾いている。
この世界には、今、ピアノとゆうくんと私だけ。
その他にはなにもない。
目はたしかに鍵盤を見ている。
指はたしかに鍵盤を弾いている。
それでも私は見ていないし、弾いてもいない。
見ているのも弾いているのも、私じゃなくてゆうくんだ。
私という道具を操って、ゆうくんが音で遊んでるんだ。
あぁ、この曲に終わりがあってよかった。
もし終わりがない曲だったら、このまま永久にゆうくんの道具としてピアノを弾いていたかもしれないから。
最後の一音を弾いたとき、一気に世界が戻ってきた。
この小さな部屋で、私はずっとピアノを弾いていた。
ただそれだけなはずなのに、ずっと遠くにある外国の街から、今やっと家に帰ってきたみたいな感覚だった。
私が言うべきことは決まっていた。
「ねぇ、ゆうくん。ピアノ習ってみない?」