学園もの
飛ぶ斬撃。気合や魔力の放出。さらにそれを用いた術。
これらは当たり前のように飛び交っている。子供の遊びから戦場、狩りにまで、威力は違えど、扱っているものは同類である。ここまで広まっているとむしろ、使えない人の方がおかしい目で見られる世の中だ。
確かに城柵や堀で囲われた村や町の外には魑魅魍魎が跋扈しているし、それらを倒すのも、純粋な拳や剣よりも、気合を固めて投げつける等、先ほど述べたものを利用するのが常識だ。
しかし、物心ついて初めてそれを見た時から私の中には疑問がある。
何故、彼らは普通に殴ったり切りつけたりしないのだろうか。
勿論、何度も周りに聞いた。私の周囲の人は優しくて、ちゃんと答えてくれたのだが、その答えというのはいつも、やれ遠くからのが安全だからだの、やれ普通に殴るより気合をぶつけた方が強いだの……そこからさらに、どうしてと聞いたらみんなは決まって、実際にそうなんだから、と言った。
だがおかしい。そもそも気合や魔力とは一体何なのだ。体のうちに流れる力というのであれば、何故外に出そうとするのだ。そんなものを外に出したら、自然と減っていくにきまっているだろうに。非効率的ではないか。気合を用いた身体強化なんかもあったが、一度見せてもらった際に気づいてしまった。これは同類だと。一見すると体の内側を強化していて、外に出しているようではないが、気という流れを無理矢理に定義して、扱いやすい形に組み上げて使っているという点で、気合や魔力なんかと一緒であった。この内を満たす不可解な力を自分たちで勝手に定義して、まさか分かったつもりなのだろうか。
一時は、こんな疑問を持つこと自体が間違っているのではと考えることもあったが、今でははっきりと、間違っていないと言える。私自身が証明している最中だからだ。奇っ怪な術に頼らない方が強いという。
幼い私は感じるままに修練を積んだ。今のような、よく分からん力を外に出す意味なんてないことの証明、なんていう誇りある大望は抱いていなかった。ただ、あの当時の自分は、得体の知れない力を外に出すのは恐ろしい、そんな気持ちに突き動かされていたのだと、成長してから気づいた。未熟であったと恥じる気持ちもあるが、感覚的にそのことを理解していたなんて流石私だと、誇らしくもある。
先ほど証明だと言ったがしかし、今までの私は己を鍛え上げ、まずは自分の内で証明しようと努めていた。事実、私自身の内での証明はほぼ終わっている。あと数年もすれば、自ずと理解する領域に踏み込むだろうという目処は立っている。けれど、果たしてそれでいいのかと、内なる私は語りかけてきたのだ。自分だけしか知らないということは、私の生きている間はいいとしても、もし私が旅立つ時が来たら、未来の私が持っている答えも、ともに消えてしまうのではないかと。
だから私は思い立ったのだ。伝えなくてはならないと。
幸いにして、今年度十三歳になる私は明日から、村にある初等部ではない、より大きな学び舎に行くこととなるのだ。私の同志を探すのにうってつけの場であろう。
長らく感じていなかった興奮に身体が鼓動を打つ。
いけないいけない、みんなを起こしてしまう。逸る心臓を締め上げて落ち着かせた私は、そっとベッドに潜った。
パッと思いついたネタ。