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05
料理を覚えたのは、一人暮らしを始めてからしばらく立った頃、去年の夏の暮れあたりのことだっただろうか。
きっかけの半分は、外食に財布の限界を感じたことであった。
そして、残りのもう半分は、――なんとなく。という表現が俺にとってはしっくりくる。
特に目的もなく始めたのだ。何かがしたい、それが俺にフィードバックするものであればなお良い、なんて思って。
そして今日までに、ある程度の要領は覚えてきたつもりでいた。コレは、数少ない、習慣化に成功した自分探しの一つである。
「……、……」
キッチンにて。
静かになった部屋に、紫煙が浮かぶ。摺りガラス越しの居間では、テレビの光がモザイク調にチラいている。耳をすますと、バラエティー番組のものらしいガヤの声が聞こえてきた。
それは、いつも通りの音量であった。俺は普段からテレビをBGM代わりに使っていて、音があまり大きいと意識が散って気になってしまうのだ。
「……。」
煙草をくわえたまま、居間に向かう。
摺りガラスの戸を引くと、蛍光灯の強い明りがまず目立った。
――まだ、人の気配が残っているように感じた。俺以外の痕跡は勿論だが、匂いや熱も、俺一人で過ごす居間とは違って感じる。……匂いは、まあ間違いなく違った。いい匂いがした。俺ってばすごくキモいかもしれない。
などと思い、そして、思い出す。そういえば今朝は、一服した後に換気するのを忘れていた気がする。――というか忘れていたって言うと居間のテーブルに据え置きの灰皿を片しておくのも忘れていた。やはり、俺の非行はキティにはバレてそうだ。
閑話休題。窓を開ける。
俺が角部屋を選んだ理由には、まず初めに換気のしやすさが上がる。なんとなく、俺は、濁った空気というものが嫌いだった。
――今日の夜は冷えるような気がしていたが、鍋の前にいたからだろうか、舞い込む風に冷たさは感じない。
春の風だと、俺は思う。ぬるくも冷たくもない、ただ、空気が前から後ろへ移動するだけ、みたいな、ささやかな風だ。その奥に感じる匂いは、具体的には言えないけれど、しかし明確に、夜の時間のソレであった。
景色を眺める。
代り映えは無い。
向かいのアパートの頭越しに見える空は、未だ曇天模様。
音の少ない日和にあって、遠慮がちな音量のテレビの声もすぐに意識の外に消える。半ば呆けた俺の耳の奥で、先ほどの小さな喧騒の残滓が、――彼女らの話し声がリフレインする。
それが心地よくて、俺はすこし上機嫌になって、窓枠にもたれて紫煙を吐いた。
二人が帰ってきたのは、それから十分程度立った頃だった。
「場所分かった?」
「ばっちり」
居間越しの俺に、そんな応答とレジ袋が擦れる音が返った。
「メインの準備は出来てるよ。あとは盛り付けたら完成」
「何が出るかな? 何が出るかな??」
「そんな懐かしいのよく知ってんね……」
二人が居間に戻ってから、俺は椅子から腰を上げる。
すると、帰ってきたデイジーは開口一番。
「――あら、灰皿なくなってる」
「……(やめてくださいという俺の視線)」
それを察したキティが、
「……別に、わかってるんだよ?」
「………………………………だよなあ」
煙草に匂いに気付かないのは本人だけだという。それでなくてもキティなら、察しの良さだけで俺の過去さえ言い当てそうな気がするし。
観念して俺は、棚の上に隠していた灰皿をテーブルに戻す。
「私は吸わないけどね。別に、酒の席じゃあ気にしないよ」
「それじゃ、気が向いたら遠慮しないわね」
「……こっち換気扇あるから、こっちで吸うよ」
キッチンに戻り、改めて準備したものを確認する。人数分のどんぶりには解凍したばかりの冷凍麺があけられていて、火を消したコンロの上の鍋は、蓋を外すと濃い湯気を吐き出した。
「もってくぞー?」
用意が済んだと伝えると、二人分の返事が返る。
そこで、俺が持って行ったのは、
「うどんじゃん……」
うどんである。塩スープがベースの肉うどん。ひき肉をスパイスで炒めたのと、スープに浮かべたポーチドエッグもどきが俺のこだわり。
「ラーメンじゃないし……!」
ぶー垂れるのはデイジーであった。
俺はとりあえず器を並べて、椅子は埋まっていたのでカーペットに直に腰を下ろす。
「ラーメン常備してなくてな。……それに、買ってきたって、出来合いのスープじゃつまらないだろ?」
「ジャパニーズカップラーメンおいしいって聞いてたわ!」
ラーメンとカップラーメンは俺的に別の食べ物なのでダメです。
「食ってみなよ、似たようなもんかもしれないぜ?」
「それは私的にもどうかなだよ……」
うどんとラーメンって、スープと麺の料理だって以外の全てが違いませんか? と半目になるキティが、まずは一口。
「……うまいやないかい」
「よく知ってるよなホントに……」
なんなんだこいつら、テレビバラエティで日本語を学んだ口なのか?
「…………………………………………。」
続いてデイジーも一口。
「……うまいじゃん」
「お粗末様です」
なんか本当に料理褒められるのに弱いなあ、なんて思いつつ俺も一口。
牛脂で炒めたひき肉がベースのスープは、透明度のある焦げ茶色で、一口目から肉汁とスパイスのパンチが舌の根を叩く。味わっていくうち後味に香る生姜の風味が、濃い味のしつこさを爽やかに流す。
これもまた、会心の出来であった。
「これが出汁って奴ね、鰹節の匂いがするわ……」
「水出しでな、置いといたのを温めるだけだ」
あと昆布と、調理酒も少し入ってる。と俺は付け足した。
「趣味あんじゃん、喫茶店じゃ遠慮してたの?」
「いや、……人に披露する予定がなかったからさ」
「ふーん?」
不思議そうな表情を、キティはした。
「それより、もう煙草もバレたしさ。付き合うよ、ソレ」
言って、俺が指したのはレジ袋だ。その透けた中身には、白の缶にシンプルな黒丸のラベルが見えた。
「お、いいね!」
「聞いてよケート、こいつったらハイネケンがいいって聞かなかったのよ?」
ハイネケン。その飲みやすさがウリの外国産瓶ビールである。
「嫌いなんだ?」
「いや、散々飲んできてるのよ、これでも私ら外国産だし」
確かに、話していると時々二人が外国人だって忘れそうになる。なんて思っている間にも彼女らは、「せっかく珍しいところに来たんだから。見てよこれ、完全に地名書いてるじゃない」だとか、「結構君ミーハーだよな……」とか言い合っていた。
「グラス、もっと大きいの取ってくるよ」
言って、俺は立ち上がる。
「日本酒じゃないけど、ダシで飲むってのもありだろ?」
「じゃあ注ぐのは任しといてよ、ミスターレジェンドタモリ直伝の、おいしいビールの注ぎ方知ってるよ!」
キティ、単純にバラエティ好きなんだなあと、どうでもいいことに俺は気付いた。
そして。
「ケートってえ、女の子みたいなぁ、なまえぇ(笑)」
とデイジー。
「ケートちゅわ~ん(爆笑)」
悪乗りした方がキティの声。
「……………………………………………………………………………………。」
卓上の酒瓶は、既にダースを超えていた。他方時刻は九時半過ぎ、つまりここについて一時間しか経ってない。完全のバカの飲み方である。
「――られがおんあかぁ」
「なんて?」
「なんて?」
「「「(抱腹絶倒)」」」
ちなみに俺もやばい。付き合って同じペースで飲んじゃったぜ!
ちなみに卓上に上げたグラスには、いつの間にやら黄金色ではなくもっとブラウン色の濃い飲み物がたっぷりと注がれていた。なんとなく喉の奥が火傷したみたいな感じだったりジャックダニエルとかいう酒が二本目に突入していたりしたけど多分これはビールであった。
「おつまみないねえ、なんかないのー?」
言ったキティは座椅子からのそりと動き出す。立ち上がるのをめんどくさがってか四足歩行のまま、彼女は部屋を徘徊し始めた。
「タンスの中におつまみはねえよ……」
というかそういうところ物色しないでほしい。パンツを放り投げるのをやめろ。
「自炊してんでしょ? なんかあれよ」
なんかあれよってか……。デイジーは酒にあてられ、先ほどから普段に輪をかけて適当な物言いであった。
「――なんかあれよーう」
「うわあこっちくんなっ」
椅子に座っていたデイジーがこちらになだれ落ちてくる。甘酸っぱい系のイベントかと思ったけど肘鉄を鎖骨付近に食らったので違った。視界が一瞬ホワイトアウトするくらい痛かった。
「っていうかコンビニの戦利品が面白いくらいアルコール百パーセントだったんだけどあれはなんなんだよ」
呆れて言う。というのも彼女らのレジ袋、掘れども掘れども出てくるのは全部酒だったのである。
「いや、君。……アルコール百パーセントって表現は大味すぎるね」
「アルコール自体広い定義なわけだし、アンタちょっとざっくりしすぎたわね」
以上が酒飲みの主張であった。本当にどうでもいい。酒を肴に酒でも飲んでればいいと思う。
……飲んでればいいと思うとか思ってたら、キティが続けて、
「――ねえねえタンスにゴンゴンしかなかったよお?」
「そりゃお前が物色してるのがタンスだったからな?」
「ベットの下とか?」
「どう考えても食料保存するスペースじゃねえだろやめろ!」
具体的に理由があるわけじゃないけどやめてください。
「あ! なんかある!」
「わあやめろ!」
こちらにケツを向けて隙間に腕を差し入れるキティを、俺は強引に引きずり戻した。
「うわあ抱き着かれてしまったあ!」
「テメエのそのでろんでろんな体たらく考えてからモノ言えよ!?」
「勝負っ!」
「「(びっくり)」」
唐突に大きな声を出したのはデイジーである。見れば、その手にはいつの間にやらトランプが。
「何それ、どうしたの?」
「うちの隊にはね、トランプを武器にして戦う奴がいるのよ……!」
「そんなわかりやすいインテリ系メガネマジでいねえよな!?」
ソイツってば勝率を百分率で出しちゃったりするのだろうか。……っていうかマジだとしたらこんな場所で凶器広げるのやめてほしい。血の染みついたトランプで大富豪とかした日にはお金ってやっぱり血生臭いんだってなっちゃう。
「じゃあわたしさ、アルピニストやりたい!」
「なんだそりゃ」
提案するキティ、困惑する俺。みれば、デイジーも知らない風であった。
「しゃーないなあ、ルール説明ね?」
「うん」
「くぁwせdrftgyふじこlp;@(いたってクソまじめな本人の顔)」
「………………わかったそれはやめておこうか!」
多分あれアイツはちゃんと日本語話せてる気でいるやつである。いい気にさせておいてあげよう。
「じゃあ何するんだあ」
ずずいと寄ってくるキティ。四つん這いのままでちょっとエッチな景色ではある。
「……王道だと、神経衰弱とか?」
「私のこと見たらもうしっかり神経が衰弱してるってわかるだろ!?」
「じゃあそんな危ねえ劇薬がぶ飲みすんのやめろよ!」
提案した俺も、まともにカード配列覚えていられる気はしていなかったが。
「じゃあ、ダウトとか懐かしくないか?」
「私自分に嘘だけはつかないって決めてるの」
口を挟むのはデイジーであった。
「なら、大富豪?」
「手札を弱い順から並べ替えるあの時間が不毛すぎて嫌いだなあ……」
「……ぶ、豚のしっぽ?」
「その差別的な名称があまりにも気に食わないわ」
「…………………………、ババ抜き、とか?」
「もっと奇をてらってほしい!」
「私ジョーカーも差別しないって決めてるから」
「うるせえようるせえよバッカじゃねえの!?」
ひょっとして実はこいつらもうトランプ飽きてんじゃねえの?
「って言うかね、酒の席はコレって決まってるでしょ?」
「「?」」
挑発的な物言いをしたのはデイジーであった。
彼女は、そんな視線を一身に受けて、そして、
「――ポーカー」
短く、そう続けた。
結果的に言うと、クッソつまらなかった。
というのもあのゲーム、レイズやステイがシステムの肝である。当然ながらそれには、ベットに使うべき掛け金が必要になってくる。しかし……
「日本じゃ賭博は違法なんでしょう?」
それはデイジーの主張であった。なんでいきなりクソマジメになったのか全く分からない。わからないまま、そして始まる合法ポーカー。形骸化するレイズ&ステイ。飽きる俺。辞め時を探り始める俺。もう素直に飽きたって言っちゃう俺。しかし……、
「――私が負けたところで終わるってのは無しじゃん……」
と、その時キティがふてくされた。
そしてその言葉に、俺とデイジーは間違って乗ってしまった。――気付くべきだったのだ。キティが、負けて終わりじゃしまりが悪いと言ったように、俺たちだって自分が負けて終わりなのは癪に感じるであろうという当然の帰結を。
しかし無情にも、その交渉の席では二回連続で負けた奴が負け犬、というルールが結ばれることとなり。そして、
……それから一時間半、既に全員がツーペアに吐き気を催すほどに飽きたポーカーゲームは、結局、キティの負けで幕を下ろした。
ペナルティが無くては、流石につまらない。デイジーの事後交渉なその提案に、しかしキティは快く了承し、そしておつまみ追加の使い走りを買って出た。俺は一応、女子の一人歩きだからと同行を名乗り出たのだが、キティに「――勝者の責務を全うし給え」とか全く意味不明なことを言われたのでここに残ることにした。
そして、彼女がコンビニへ向かっている間。
俺とデイジーはキッチンにて、いわゆるタバコミュニケーションと洒落込んでいた。
「……、……」
「……、……」
すっかりクールダウンした頭の髄に、換気扇の唸り声がよく響く。
時刻は、気付けばもう十二時の手前まで差し迫っていたようだった。
「そういえば、思い出したんだけど」
「うん?」
デイジーが不意に言う。指さしたのは玄関の隅の方だ。
「アレが聖剣?」
「……そういえばそうだった」
指さした方をより具体的に言うなら、玄関の隅にある傘立ての、そこに突っ込まれた幾つかのうちの一本であった。
思えば、聖剣の再現出が目下の目的とはキティの言か。それからこっち空腹からの泥酔という極限状態続きですっかりと忘れていた。
「アレは俺の誇りだから」
「それはもーいいわよ」
ジョークにしても食傷だと、彼女は紫煙を吐いた。
「――アイツは言わないけどね」
唐突な切り口で、デイジーは続ける。
俺は、その親しみのこもった言い方に、キティを思い浮かべて聞いていた。
「きっと、アンタもそれなりに苦労するわよ」
あの剣を振り下ろして、怪物の首を落とすのだけはアンタにしか出来ないから、と続ける。
「……恨むなら、自分の運の無さを恨んでよね」
――私たちじゃなくて、キティでも隊長でもなくて、と。
煮え切らないような口調で、彼女はそういった。
「……、……」
――それは、一目にその内包した権限の強さがわかる一振りであった。
遠目には刀に近いシルエットである。或いは、小刀というべきだろうか。暗所に溶け出すような刀身の色は、手に取った俺だからこそ、その見え方が光の塩梅ではなく、元来の刀身の色であることを知っている。
刀というよりは、それは、細長く収斂した出刃包丁のような感覚であった。反りは無く、切っ先までの刀身の幅は変わらない。柄は武骨で装飾の一つさえなく、それでいて、これが完成形だと思わせるような静謐とした存在感がある。
装飾気のないその黒鋼色が、だからこそ人の手が届かない普遍性を、――生まれた時からこうあって、世界が終わる時までこうであるのだという不可侵の絶対性を思わせるのだ。
「……恨みたくはないなあ」
「…………そう」
あの剣でなら、なんにだって負けはしない。そう確信できるほどの存在感を、俺は感じて、
だからこそ怖いのだと、俺は思った。
そのころ、街は平日の夜更けの最中であった。
或いは宴のために人が集まるような場所ならいざ知らず、ここには、喧騒を厭うような、強い静寂が支配していた。
そんな風景の、少し外れ。
喧騒はなくとも街灯は等間隔にあって、ゆえにここからでは分厚い静けさの上に、夜空が見えない。
明かりが散布的だからだろうか、昼間よりも今の方が、むしろ光が鬱陶しいほどだ。
「……、……」
この辺りで夜道を歩くのは、少女――キティ一人であった。その歩みは、……千鳥足を差し引いても、迷いがちな進路を選ぶ。目的のコンビニは、先ほど通り過ぎたばかりであった。
――その理由は単純で、たぶん、少し歩きたかったからだろう。彼女はそう分析した。
なぜ少し歩きたかったのかと言えば、それは、あまり考えたくないトピックスだ。
「……、……」
視界の端に、街灯の切れ目を見つける。
そこは、見れば大きな駐車場であるようであった。その空間の中央にあるパチンコ店は、どうやら今日の営業を終えているようで、更にその向こうにあるのは国道の類か。広い道路の上をまだらに行きかう車のライトが、かすかに見える。
そして、
それ以外には明かりはない。
広大な駐車場の内側は、その隅々までに宵闇が行き届いていた。キティは、その胎内に這入りこむ。
歩道から、その暗闇の最中へと踏み出す一歩目に、――横目に見えていた街灯が後方に逸れる。
歩くごとに逸れて、流れて、やがて見失って。
気付けば彼女は、宵闇の中央まで歩いていた。
「――――。」
ふと、彼女が。
見上げるその先にイメージした光景は、思考を置き去りにするような満点の月と星空であって、
――その実見えたのは、夜色を纏った分厚い曇り空だけであった。
「……、……」
注視すれば、その雲の輪郭くらいは見えるだろうか。
彼女は思う。面白みのない空模様だ、と。
こんな時には、とある友人の若い逃避を見習いたくなる、と。
思いながら彼女は紫煙の代わりに、夜を見上げてため息を吐き出した。
「……つまんないハナシだ」
――今、日付が変わった。
とある友人の大役まで、これで、あと二日になった。