表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/15

1/2

02


 キティと別れての帰路。俺は、ちょっとした寄り道に駆られていた。

 通りを二、三突っ切った裏手にあたるそこは、ちょうどこの街の裏側と呼ぶべき場所にあたるだろうか、閑散が板についたとある広場だ。

「……、……」

 道すがらのコンビニで見繕ったコーヒー缶が、レジ袋の中で揺れる。

ポケットに手を入れたまま袋を下げて歩くと、それが頻繁に俺の足を叩く。

 その感触が、やたらと俺の意識に障った。

喫茶店に向かうまでの夢遊感が嘘のようだ。俺の思考は、彼女と別れてしばらく、一転して妙に雑念が目立っていた。

「……。」

 忘れていたはずの雨の冷たさが思い出される。

 傘を伝い持ち手まで降りてきた雨粒が、手の甲を辿って袖に落ちる。

 雨が強くなってきた。

 向こうが見えない。



 屋根のある休憩所を見つけて、俺はその中に逃げ込んだ。

 傘を払うと、足元のコンクリートが斑に濡れる。ぺしゃりと気の抜けた音。二度三度払った程度では水気が切れず、俺は面倒になって、傘をベンチの裏に立てかける。

 そして、ベンチに座る。

座ると途端に、今日の寒さが身に染みた。

 そういえば、この街の春は、今年はやたらと短かったように思う。暦的に見れば、まだ終わってはいないのだろうか。しかし俺には、もう一度この街に春日和が訪れるというイメージが湧かない。

「……、……」

 コーヒーを開ける。どうやら、ホットを選んで正解だったらしい。指先に返るじっとりとした感触に、俺は今更、自分が思っていた以上に冷え切っていたことに気付いた。

 遅れて、芳ばしい香りがささやかに広がった。それは、雨で舞い上がる土の匂いに近い匂いだ。混ざり合って、それは、少しずつ外気に粗熱を削がれていって、次第に匂いが薄くなって、そして消えた。

 缶の中身を一口すすると、なんだか抽象的な味に感じられた。寒さで鼻が調子を落としているのか、後味に残る砂糖の甘味ばかりが印象に残る。

 缶をベンチに置く。

 無機質な音を、それは立てる。

 俺は、ベンチに背中を全て預けて、雨にむかって両足を放り出した。

「……、……。」

 ――元来、俺にとって、雨の日とはこういうものであったはずだ。

 妙に気が削がれて、四肢から力が抜けだして、気分が落ち込んで、いずれは眠くなっていく。

 それは、俺にとってのリラックスであった。

 キティに振られた途端にそれを思い出すのでは、流石に男らしくないような気がするけれど、それでも俺は、この不快感が好きだった。

 こういう時にする考え事が、一番体力を使わなくていい。

「……。」

 最初に思い出したのは、あの巌のような男のことであった。

 あの両肩に乗せた哀愁が、俺の、あの男への第一印象を形作ったように思う。

 それは決して、自信なさげな風体につながるわけではない。アレはアレで完成形だと、そう思わせるような表情。

 苦労が板についたとでもいうべきだろうか。

 あの男と、キティは、どんな仕事を共にしてきたのであろうか。

 魔法の飛び交う過日の活劇に、曰くすでに終わってしまったらしい世界に対して、

 もう無いのだから憧れを捨てろというのは、――そもそも魔法のない世界に育った人間であるからして、土台、無理な相談であった。



「――もしもし、お兄さん」

 それは、半ば意識を手放しつつあった俺の、すぐ近くから投げかけられた。

「お兄さん、起きてますか」

「あ、ええ。……はい?」

 ベンチからずり落ちる寸前の腰を持ち上げ、姿勢を正す。

「すみません、起こしてしまいまして」

 女性の声であった。そちらに振り返る。

「……、……」

 それは、一目に異国の出だとわかる少女であった。覗き込むような形でこちらを伺う姿から、まず俺は、その碧色の瞳と金糸のような髪に目がいった。

「あの……?」

「わたくし、役所のものでして、……実はこの辺り、避難勧告が出されているんです」

「?」

 視線を振って、辺りを見回す。

 雨の音が、先ほどよりも更に強くなっていることに気付いた。

 確かにこれなら、或いはアクシデントの一つでも起きるかもしれない。そんな雨に、いつの間にやらなっていたようだ。

「ああ、はい。ええと」

「自宅待機でも構いませんが、とにかく移動を」

「えっと、……はい」

 いまだ夢見心地な身体に活を入れて、俺は軽く伸びをする。

思い出したように腰が痛みだし、遅れて身体の芯が酷く冷えてしまった自分に気づいた。

「ありがとうございます、すみません」

 どうにも呂律が回らない口調で、俺は彼女にそう返す。

「お気をつけて」

 傘と、手荷物を集める。それから思い出して、俺のすぐ手元に置いてあったコーヒーを飲み下す。それは思っていたよりも冷えた口当たりを返してきて、俺は、自分が案外長い時間呆けていたらしいことを思い知る。

 雨の澱の向こうは、やはりよくは見通せない。辺りが先ほどよりも暗いようであることはわかるが、果たして今は何時であるのか。

 俺は彼女に首肯を返し、そしていつのまにか水気の切れていた傘を、雨に向かって広げた。



 喫茶店にて。

 吸血鬼の少女は言う。

「おい坊主。――イレギュラーの追加みたいだよ」

「なに?」

 相席の男の反応は待たず、彼女はコーヒーカップの残りを一気に飲み干した。



 水気の切れた傘を、雨に向かって広げる。

 その先で、

 ――唐突に、獣の声を俺は聞いた。

「あ?」

「――だあクッソ、またか!」

 それは先ほどの異国の風貌の少女の声であった。しかしそのトーンには明確な違いがある。

面食らって俺は、どうしようもなく彼女の方を振り返った。

「さっさと逃げてください! 殺しますよ!?」

 なんてシュールな文句だ、などと思った俺は次いで目を見開く。そこに握られていたのは、

――拳銃であった。

「な、え?」

 破裂音が響く。

雨音さえつんざく威勢のいい音であった。

それが発砲音であったことを、俺は穴の開いた傘に知った。

「聞こえたよな逃げろってば! いいな、わかったな逃げろよ!? お前見つけたら殺すからな!」

 そういって彼女は雨の向こうに消える。

「あ、の……?」

 呟く声は、雨足の強さにはじき返された。

 雨の音が、発砲音の残響をようやく覆って、静寂が返る。

「    」

 思考が追い付かない。

 これは一体どういう状況なのか。

 獣の声が二度三度と響く。それもまた破裂音に近いような、それでいて発砲音とは違う、心臓を破るような轟音であった。

 何が起きている?

 何が起きた?

 俺の思考はいまだ緩慢であって、半覚醒の靄が一向に払えない。

 逃げろ、とはアレからか。俺は思い至る。あの女は自衛隊か何かか。いやむしろアレは、キティの関係者なんじゃないのか……!?

「    」

 街中に降って湧いた獣の声。当たり前のように現れた凶器。全く以っての異常事態。

 逃げるべきだ。確実に逃げるべきであった。

 しかし、

――どこへ?

「……………………。」

 雨の勢いが、加速度的に強まっていく。

 雨の向こうが見通せない。

 俺は、その向こうの景色の四方八方に、獣の影を幻視する。

 さっきの声は、どこから聞こえた? 俺はどっちに向かって逃げるべきだ?

 影の落ちた狭いスペースの中から、薄暗い雨の最中へ視線を飛ばす。耳を澄ます。

 しかし今は、けたたましい土砂降りの音の向こうには、何も聞こえない。



 雨の降る街で、二人は傘もささずに早足で移動する。

その片方はキティ・オルド・マルティネスである。そしてもう片方は例の、巌のような印象の男であった。

「やっぱアテになんないなあお前んとこの『予言』はさあ!」

「極東のこの範囲まで絞りこめたんだから十分だろう! いや、それよりもまず状況だ、確認できるか!?」

 互いに軽口じみた会話を飛ばしながらも、並行して男は電話口に怒鳴る。その返答に男は、

「避難を急がせろ! キティ、アクシデントだ!」

「判るよ、それでどうするつもりだ隊長殿!」

「ここじゃ戦えん、一度散らす!」

「散らすって、霧散現象のことか!? やり方わかってんの!?」

「相手は獣だ、敢えて逃がすのと基本は変わらん!」

 霧散現象。彼らが目撃した『獲物』の体状変化のことである。一度接敵した際に彼らは、『獲物』が影も残さず霧散したことで、その逃亡を許していた。

「情報が足りないなあ畜生! おい坊主、どうせお前がいてもいなくても現場の保持はできるんだろ!? 今のうちに情報をよこせ!」

 その挑発めいた物言いに、男は冷静な言葉を返す。

「そっちは任せた、あと二〇〇秒で着く。――いいか? ヤツは四足型の魔獣だ。仮名『アメフラシ』、とりあえず一〇メートル体高の野生獣のイメージでいい!」

「アメフラシってナリじゃねえな!?」

「雨を降らすんだ。この雨もそう、ヤツの能力だ。現状の調査では人体に影響はないが、それ以外は分かっていない」

「街一つ覆える雨と、それから霧散現象。その二つがわかってる能力ってことでいいな!?」

「そうだ。先ほどの通りあの個体には、知性が予想される」

 男は一度言葉を切る。

「以上がヤツの、わかっている特徴だ。それをとりあえず逃がすのがこの作戦の目標、質問は!?」

「逃がす選択肢を選ぶ根拠について! 次どこに出るかもわかんないんじゃないの!?」

「問題ない、現出予兆の魔力波状が判明している。戦闘に影響は無いため仔細は後で共有する! 他には!?」

「ないよ畜生! 信頼したぞクソ坊主! 今度こそ繁華街のど真ん中に現れたなんてことになったらテメエで全部責任とれよ!」



 行く先を失って、きっとまだ殆ど時間が経っていなかっただろう。俺は、

 雨の奥に、今度こそ獣の影を見た。

「――――。」

 それは、捕食者の形をしていた。

 前腕が長く、後足が短い。その貌は肉食獣の輪郭をしていて、角のようなものが見える頭部が最も高く、そこから臀部に向けて低くなるシルエットの先には、細い尻尾のようなものの影が見えた。

 それが向き直る身じろぎだけで、重機が跳ねるような重低音が辺りに響く。その視線の先には、――俺がいた。

 意図せず、唾を飲みこむ。

 湿度に満ちた空間で、額から一筋滴った汗が、やたらと冷たい。

 爛々と輝き、光の尾を引く二つの黄色い目が、

 ――雨の澱を隔てて、俺の視線と交差する。



「隊長!」

 叫んだのは長身の青年であった。その奥からも何人かの反応が返る。そのいずれもが、修道服を動きやすくアレンジしたような白の衣に身を包み、それぞれがばらばらに斧や刀剣といった時代錯誤の、しかしどこか統一的な意匠を感じる武具を携えていた。

「状況は!?」

「アメフラシの誘導に手間取り、避難が完了しておりません! 避難対象は一名、二時方向の休憩スペースです!」

「手間取る? アレが離れないということか!?」

「むしろ近づこうとしている模様です!」

 やり取りを聞いていた、そこでキティが口を挟む。

「魔力散布に違和感はない。私が言うんだから間違いはないよな? ってことで話を進めるけど、あの『場所』ではなく、その『対象』を狙っているのかもしれない」

「助力感謝いたしますキティ殿!」

 そう言って長身の男は礼をとる。

「後でいいよ、それより避難対象だ。一般人か?」

「間違いありません!」

「なら引き剥がすよりも守ってやるべきかもしれないな、アレの目的が分からないけれど、或いはその対象者に何かあるのかもしれないね」

「お前はまた一般人を巻き込むつもりか吸血鬼!」

「記憶消去でもすればいいさ、その対象だって、こんな訳の分からない体験忘れてしまいたいだろ――」

「包囲が破られました!」

 その言葉に男とキティは視線を振る。

「なんだ、どうした!?」

「誘導失敗! 避難対象が捕捉されました!」



 獣と、視線が交錯した。

 俺は、

 いつの間にか、その手に剣を握っていた。



「なんだよジャイアントキリング、そんなもんかよテメエの手塩は!?」

「私も向かう! 吸血鬼、援護を頼む!」

 そう言って二人は走り出す。巌の男が右方向に、キティが左方向に、最小角度の弧を描いて対象を挟み撃ちにする楕円形の軌道だ。それに付随したのは、二人それぞれに修道服が一人ずつ、キティの方には先ほどの、長剣を持った長身の青年がついた。

「脅威度再定義! 練度B-の包囲を突破されました!」

「判ってるよありがとう! とにかく足止めだ、魔法を使う!」

「伝達! キティ氏の魔法が飛びます、総員備え! ――リアクション! 隊長より、対象保護を請け負うとのことです!」

「了解、頼もしいじゃない……!」

 そう言って言葉を切る。思考をすべて魔法詠唱に費やす。その間も足は止めない、彼我の距離は二十メートルを切った。キティは脳内でスペルを紡ぐ。――イメージするのは雷の槍。小手調べなど必要ない。その練度は躊躇いなく、真性の竜種を貫いた最高強度で……!

「――ッ!」

 詠唱完了まであと〇・五秒、キティの手のひらの上に、莫大な熱量が収斂する!



 勝利を、

イメージ出来たわけではなかった、脳裏に翻るのは、あくまで野生への恐怖だけであった。

 しかしそれでも俺は、剣を握り、

 ――彼我の距離、目算十メートル。

 その隔絶を、駆け抜ける。



「伝達! 避難対象がアメフラシに接近!」

「避難対象が!? 逆じゃなくてか!?」

「――聖剣! 聖剣反応です!」

「はあ!?」



 この足が逸ることに理由はない。強いて言うなら、理屈ではなく感情を根拠に足が逸ったのだろう。

 役人を名乗った彼女の身を案じた訳でも、

その両眼で見下す「野生風情」に腹が立ったわけでもない。

 そんなことは、確実にない。しかし、

 ……雨の最中に身を投じる。

 雨の一粒一粒が、俺の肩を、身体を、頬を叩く。

 その温度に、俺は自覚する。先ほどまではあんなにも冷え切っていた身体が、今はこんなにも熱いことを。

 そしてようやく、――成程と、俺は気付いた。

 誰かの身を案じて、この身は逸らない。ナニかからの嘲笑にこの身が焦がされはしない。しかし、走り出すことに理由がないなんてことは無いはずだ。

 ならば俺は、自覚症状なんてなかったけれど、それでも未だに、こんなにも、一目散に走りだして抱きしめに行きたくなるほどに、

 ファンタジーに、あこがれを抱いていたのだ。



 キティが、詠唱を停止する。

 中止ではなく停止。ビデオ再生を一時停止するように、キティは詠唱反芻を「停止」した。

 そして、浮いた分の思考をすべて、状況の察知に費やす。あの休憩所とアメフラシとの距離は、確実に休憩所内部の避難対象が魔獣を視認出来るだけの距離に近付いていたはずだ。

 なら、アレを見ればわかることだ。一時の気の迷いでケンカを売っていい相手ではないと。

 なぜ、避難対象は走り出した? 聖剣反応とはなんだ? そんな、魔法世界の最奥でしか確認できないようなフレーズを、なぜここで聞く!?

 キティは分析する。

 雨の奥に見える景色を。

 その奥に見える二つの影を。


 一つは魔獣。虎などという例えは愛嬌が過ぎる。アレは間違いなく、もっと絶対的な捕食者のシルエットだ。その姿には、暴力の二文字が良く似合った。

 もう一つは人の影。……それはよく見れば、どこか見知った形をしているように見えた。

 それが、人の影が、――聖剣を投じる。

その動きは遠目には槍投げに近い。二歩分の助走の全てを、蹴りだした三歩目の勢いに乗せて、彼はその右手を振りぬいた。

 流星一条。雨を掻き切って。

剣が、魔獣の頭部を貫く。

 ――音もなく、爆発が起きた。

「    」

 それは決して比喩ではない。

 音が無かった。ただ、その無音の空間で、――遥か高みの雨雲が破裂した。

 破裂したような挙動をもって、途端に雨雲が引いたのだ。


「……、……。」

 差し渡る日差しは、

気づけば、黄昏色をかすかに帯びていた。

 その、たおやかな象牙色の日差しが、この街を、広場を照らす。

 キティは、「彼」と目が合った。その人物はずぶ濡れで、息が上がったような様子である。

 キラキラと、黄金色に、彼の髪から光の雫が零れ落ちる。

 広場に降りる黄金色を、彼が一身に浴びている。

 ならば、さて。

彼から見れば、自分は日差しを背にしたような格好になるだろうか。キティはふと、自分がどんな表情で彼を見ているだろうか、などと思った。

 そんな彼の視線は、キティと、それから続いてキティの後方に向けられた。

 それで、彼女もつられて振り返る。

そして気付く。

 なるほどこの広場は、案外高い場所に据えられていたらしい。

――象牙色に染まる街の様子を、ここからはたった一目で、遥か地平の彼方まで見渡すことができた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ