第一章 『雨の街』
「達城圭人と、その世界の住人たち(旧題)」
一章、――雨の街
01
傘伝てに返る雨粒の感触は重く、そして緩慢なリズムで、俺のダウナーな気分には、それが妙にちょうどよかった。
「……、……」
今日の雨音は、なんだかいつもよりも低い音に聞こえる。薄壁一枚を経て聞く話声のように、それはぼやけた輪郭をしていた。
今まさに、雨天の最中。
灰色をした街を歩きながら俺は、しかし自分がどこかのリラックスできる部屋で寝転がっているような感覚に陥る。
当然、大きな雨粒が足元で破裂するたびに、確実に俺の靴は水分を吸って重くなるし、傘から滴る雫が不意に肩に落ちるのが心地いいわけなどはない。
しかしそれさえも、俺が強いて思い出そうとしなければ、いつの間にかその不快感が、俺の意識の外に消えていく。
率直に言えば、
俺は今、相当呆けていたのだった。
ふいに湧いて出る考え事のトピックスが、いつのまにやら全くの支離滅裂となっていて。遂には何を考えていたのかさえ曖昧な自分に、改めて気づくような、そんな有様。
それは五月の某日、午後一時半ばのこと。
ここしばらく俺は、この街の晴天を仰いでいないなどと、不意に思い出した。
待ち合わせ場所は、とあるチェーンの喫茶店であった。
その軒先で俺は上着を軽く払い、備え置きの傘立てに傘を放る。
自動ドアをくぐると、雨音は遮り一つ分遠くなって、立ち代わりコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
「……、……」
俺を呼び出した人物は、店内を一望するだけで見つけられた。
向こうも、俺に気付いたらしい。彼女は俺に、軽く手を挙げた。
奥に伸びる長方形の店内は、右手が道路に面しての一面ガラス張りである。その最奥のテーブルとソファの席に彼女はいた。
店内照明が、実に奥ゆかしい光量である。昼間この店は、その光源を大きくガラス張りからの採光に依存していて、そんなこの店の今日の照明は、雨の街のコンクリート色を照り返す水色がかった灰色である。それが、彼女の髪によく映えた。
白い上着と、恐らくその下はワンピースの類であろう、そして彼女のキャンパスのような色の髪が、この店の最奥にあっても、ここから見るだけでも目が眩むほどに、今日の曇天を照り返していた。
彼女、――キティ・オルド・マルティネスのその挨拶に、俺も同様に手を挙げて返し、店頭でアイスコーヒーと適当な甘味を注文。用意されたモノを頂いて、ようやく俺は彼女と合流した。
「今日のおやつは、なんだか涼しげだね」
「そうか?」
挨拶もなく言う彼女に、俺はそのように答える。
曰くおやつの内訳は、ドーム状にチーズムースを盛ったタルトと、俺の好みで氷を半分に減らしてもらったアイスコーヒーである。砂糖とミルクは、使う予定が無いため遠慮してきた。
「……、……」
他方彼女の手元には、見ただけでビターそうな、ツヤのあるチョコレートケーキと、それからホットコーヒーがある。卓上端には更に、手元のモノと同様のコーヒーカップが三つ、空のまま置いてあった。
「いつから暇してたんだ……」
呆れて言うと、「もうすぐ二時間になるなあ」などと具体的な数字が返ってきた。
「……灰色の青春送ってんな」
その真ん中にはいま、君がいるんだけどね。と彼女は適当に言う。俺的には女子と二人でティータイムなので全く灰色ではないんだけれど。
「それで、今日はなんだ。アテもなく散歩でもしてんの?」
とりあえずで、俺は彼女に問う。
この天気で散歩はまずなかろうが。
「いやあ。人、待ってんだよね」
「へえ?」
そこに俺は、ちょっとした違和感を覚えた。
「学校に、お前待たせられるような奴がいる気がしないな」
「そらそうだね」
俺たちはこの街の高校の同級生であった。留学生として彼女がこの街に来てから、そういえばもうすぐ一年になる頃か。
――と、思考が明後日の方を向き始めると、それに立ち代わり会話の方は留守になる。遠くから食器の擦れる音が聞こえるだけの時間の中で、……俺が先を促したと解釈したわけではなかろうが、ふと彼女は、言葉の先を滔々とこぼし始めた。
「まあ、そうなんだよね。学校の関係じゃない。お仕事関係」
「――じゃあ、きな臭いヤツだ?」
「まさにそうだね」
前の長丁場でしっかり嫌われちゃった系の関係先、と彼女は独り言ちる。
それは弱音というよりも愚痴に近い語調で、わざとらしく彼女は唇を尖らせて見せた。
「嫌われちゃったというか、遊びすぎちゃったって言うかね。……全く、こんな分かりやすい嫌がらせされるとは思わなかった」
彼女が、俺の手元からアイスコーヒー用のストローを取り、その紙包装を脱がせ、中身のストローを俺のグラスに突き刺して、そして言う。
「――まあそもそも、吸血鬼と聖職者なんで、ハナッから敵同士なんだけどさあ?」
目的は紙包装の方だったらしい。彼女はそれを指先で弄び、しかしそれもにすぐに飽きて、俺の方へと突っ返してきた。
――その話を聞いたのは、彼女と俺が初めて話をした日であった。
その日が、彼女の登校初日だったように記憶している。
確かそれは、今日とは違ってよく晴れた昼下がりの六月の、学校の屋上での出来事であったはずだ。
曰く、自分は吸血鬼である、と。
少しばかり話しただけの俺に、彼女はそう切り出した。
正気を疑ったのは言うまでもない。しかしながら相手は異性。しかも異国の風貌を持つ美少女だ。そこで俺がなんとなく、話に付き合ってみてもいいかなあと思ったのが、彼女との関係の最初の一歩であった。
……そして、
今日に至るまでに、どうやらそれが本当のことであるらしいと知り、いつだったか、俺は彼女に問うてみたことがある。
つまり、魔法とか、吸血鬼とか、神造の聖剣とか異世界の存在とか神様の実在とか、そんなに簡単にバラしていいものなのか、と。
しかし応じる彼女の回答は、実にシンプルなものであって、
――問題ないよ。なにせそういうのを窘める「大人の組織」は、
魔法の世界は、もう一通り壊滅しちゃったからね、と。
誰しも一度は魔法を夢見ることがあろう。
あくる日の彼女曰く、喜べ人間、魔法は存在する。しかし残念、その運営はもうとっくにつつがなく破綻しましたとさ、めでたしめでたし、と。
その突飛に過ぎる『裏世界の顛末』に対しては、以来未だに、その事実との距離感を図り損ねている俺がいる、などというのはまた別のお話だ。
今は難しいことを考えるよりも先に、彼女の言葉に身をゆだねようと思う。
「――その、壊滅した大人の組織の残りカスが、今日来る連中なんだけどね」
「……残りカスとか言うのか」
「じゃあ出涸らし?」
「お前、いや、……日本語堪能すぎるだろ」
コーヒー紅茶社会に染まった日本ではついぞ聞かなくなったワードだと思う。出涸らし。
「いいんだよ。もうとっくに伽藍洞の『歴史と権威』に未だこだわってるような連中だし、何より遅刻してきてるし、アレはもう出涸らしの残りカスのごみ箱の底の萎びたバナナの皮みたいなもんだ」
「いや、バナナの皮は一仕事ちゃんと終えた後じゃねえか」
バナナの皮がなかったらおいしいところが痛み放題で輸入もままならんでしょうがと、彼女を窘める。
「そっか、黒い点々なかったらちゃんと甘いかもわかんないしねえ」
バナナの皮は不適切な表現だった、と彼女は素直に反省したようであった。
素直なことは良いことだ。と俺は椅子に深く背を預けそうになって――、
「……いや違う、違ったわバナナの皮なんて普通に生ごみだ。そうじゃなくてさあ? 普通に全然キナ臭いんじゃねえのその連中って?」
よくよく考えればそれは、案外聞き捨てならないのかもしれなかったと、俺は思い直す。
「出涸らしか残りカス」と聞けば大した脅威ではないようだが、しかし「壊滅した大組織の残党」と聞けば、平和な日本国民的にはテロだとか、少数を生かしたゲリラ戦だとか、そういう血生臭く且つ頭に血が上った感じのイメージしか湧かない。
のだが、彼女は、
「……それはまあ、大丈夫よ。アレはねえ、今ある人員で既存の業務を回していこうっていう集まりだから」
というかまだ名前が残ってるようなのは全部そうだ、とは彼女の弁。
一般市民の俺にはイメージがつきづらいが、魔法使いという職種は派閥同士の利権争いとは縁遠い在り方であるのだという。
その縁遠くイメージしづらい箇所に関しては聞き流して、俺は好奇心だけで続きを促す。
「なんだその、今ある業務ってのは?」
「魔法世界の運営。言い換えれば政治と警察だね」
どちらにせよ現状の組織規模ではどうあったって回りきらない大事業だ、と彼女は冷やかすような調子で捕捉する。
「今回は警察、……いや、自衛隊の方だね。ほら、雨が強いから、指揮系統がなくてヒマな実働隊は、土砂崩れの見回りするくらいしかないわけよ」
そんなもんかね、と俺は口内でぼやく。それっきり、彼女の仕事についての話題は尽きてしまったようだった。
「そんなわけで私も、まあ昔の縁だからって呼び出されたんだけどさ。アポ入れの連絡以来音沙汰なくてね」
一応、殊勝にも待ち合わせに顔を出してみたら、そのままなんとなく諦めるタイミングを逃してしばらく、ここで待ちぼうけて二時間になるとのこと。
「癪だったからね、誰か巻き込んでやろうと思って」
「それは改めて俺が癪になってくるけどな」
「本当はそれくらい奢ってあげるつもりだったんだよ、いやマジで」
彼女は俺の手元を指す。ストローを指したまま手を付けずにいたアイスコーヒーのグラスは、気付けば汗をかき始めていた。
彼女の方も、湯気が立たなくなって久しいだろうコーヒーカップを指でいじるだけで、話始めて以来、敢えて飲もうとはしないままであった。
「貧乏なはずはないんだけどね、しかしこういう時は、飲み物を節約しようとしちゃう癖があるね」
「わかんないでもないな」
フォークを手に取り、俺はチーズケーキのドームを崩す。
真っ白のてっぺんに散らしてあったピスタチオのかけらを巻き込みつつ、一口分をフォークでさらって口に運ぶ。
放っておいたうちにすっかりと常温に戻ったそれは、……そのおかげでチーズが風味を取り戻したのだろう、マスカルポーネのコクが酸味に勝って、コーヒーをそそる味であった。
「……、……」
ゆえに、コーヒーを一口。
よく冷えた口当たりからは、香りや旨味、甘みよりも先に、まずキレのいい苦みが舌を滑る。
今日のチョイスはアタリだと、俺は思考の隅で思った。
「そっちと悩んだんだ。最初はコーヒーだけのつもりだったし」
と、キティ。
それから、かちゃりと歯切れのいい音が立つ。
俺の様子を見てか、彼女も遂にカップに口をつけたらしい。
弛緩しきった様子で、彼女は背もたれに体重を預けながらカップを鼻先に近づけて、しかし口には付けず、香りを楽しむような恰好のままで言葉を続ける。
「こんなことなら、本の一つでも持ってくるんだった」
或いは君に頼んでおくべきだったよ、と。
「持ってこれても漫画くらいだよ、俺は」
「私も、お堅いようなのは好きじゃないよ。言ってなかったっけ?」
……なんとなく、お堅いようなのが好きそうなイメージだったのだが。
「漫画だってそんなにはないけどな。気の迷いで買ったようなのがいくつかだけだ」
どれにしたって面白くはあったのだが、しかし翌日には続きを求める熱を忘れているというのが俺の常であった。
「無趣味な男はモテないんだってよ?」
「俺は顔がいいから」
「キモいね?」
「すごい率直に言うね……っ!」
普通の思春期世代が聞いたら後を引くレベルの暴言であった。ちなみに俺はもう慣れてるので大丈夫なのである。マジで。本当に。
「学生ってのは金がないのが世の常なんだよ。それに趣味には金がかかるってのもさ」
趣味のメジャーどころで言えば、例えばギター一つにしたって、聞いた話だとギター一本買えば終わりというわけでもないらしいし。
「それはモノによるでしょ。何始めたって趣味だって言い張れたらそれは趣味じゃん」
「そら乱暴な言い回しじゃねえかね? ……いや、言い張るって、何を始めるつもりなんだよ」
「お米一合に米粒って何個入ってるんだろうって数えるのが趣味なのはどうか」
「どうかと思うよ? お前が暇してた二時間くらいなら余裕でつぶれるんだろうけどな……」
誰にだって趣味を選ぶ権利くらいあると思うんです。
「やっぱり、金がかからないやつにしたって、それはそれで大変じゃないかね。絵とかなら紙とペンがあればいい気がするけど、よくよく考えたら紙とペンよりまず絵心がないといけないわけじゃん」
「君にないのは活力だね……」
「否定しないけどな、そんな干物タイプからしたらやっぱり、干物にでも出来る趣味を探すのは当然だろ」
「日光浴とかね」
「それは干物にでも出来る趣味じゃなくて干物が出来る趣味だな……」
「そしたら温泉巡りだ」
「ダシが出ちゃうぜ」
お互いにカラカラ笑う。
「しかし、……そういうお前は? 趣味何かあんのん?」
「お酒?」
「共感できねえや……」
ちなみに吸血鬼な彼女は余裕で二十を超えているらしいとのことであった。
「そういえば言ってなかったけど、私のこの偽名もお酒から取ってるんだよ」
「お前が偽名なことから聞いてなかったけどお前偽名なんだっ……!?」
果てさてつまり彼女、キティ・オルド・マルティネスではないらしい。
この人色々と裏事情ペラペラ言うけど、そういうことこそをあんまり大声で言っちゃいけないと思う。
「その国で最初に飲んだカクテルをもじって作るんだ。この名前は、そこの通りの裏の、創作系カクテルのバーなんだけど」
そう言って彼女は明後日の方を指さす。
が、そもそも俺にはバーの場所分布なんてわからないので全くぴんと来ない。
「相談して作ってもらったヤツがね、おいしくって」
日本のカクテルは自由度が高くっていいんだ。珍しいのが飲めたよ。と彼女は続ける。そして俺は全く分からない。
「今度連れて行ってあげよう」
「じゃああと三年待ってもらえるかな?」
けちけちすんない、と彼女はぬるいコーヒーをすする。
「今日日さあ、いないって聞いたよー? クソマジメに二十歳まで酒飲まない種族」
「種族て……、誰から聞いたのか知らないけどな、そら多分大学生とか、治外法権連中の話だよ」
「高校は高校で、治外法権な気がするけどねえ?」
「ありゃ二重に法律があるだけなんだよ」
高校生の身分でもわかるのである。高校が、狭い世界だということくらいは。
「はあ、難儀だねえ。……いやでも、日本の故事成語にさ?」
「故事成語?」
「バレなきゃ犯罪じゃないって――」
「比較的最近の奴だそれ」
あらそうなの。彼女は澄ましてコーヒーを一口。
「でもその通りだよ?」
「やめろってっ!」
そういうこと考えるやつのためにお天道様が見てるって言葉があるんだと思う。
「まあ、気が向いたらよろしくね。付き合ってくれー」
「気長に待っててくれよ」
「あとー、私の趣味っていうとだ」
そういえば、そんな話をしていたのであった。
「おいしいものを食べることとか?」
「おお、ぐっと判りやすい」
「判りやすいかって言ったらー、でも、お酒絡みなんだけどさ……?」
「あー、いや。でもさ、メシならわかるよ?」
酒に合わせるか炭水化物に合わせるかで多少は味付けの違いもあるだろうが、それでも料理の巧拙の判断には差は出ないような気がする。誰が食べたっておいしいものはおいしいのではなかろうか?
「極端なところ言うとさ、この国で見繕うとー、……あん肝とかさ?」
「あー……」
珍味系は、確かに縁遠い。
キティが一息つくようにケーキに手を付けるのを見て、俺も何となくアイスコーヒーに口をつけた。
そろそろ、氷が音を立てそうな量になってきただろうか。
「とか言っても好きなのはスパイスばすばす系のー、って……」
ふと彼女は、俺の後頭部の向こうに視線を投げかける。
風の動きと、それから遅れて店員の声が、新たな来客を告げていた。
「――申し訳ない。外してもらっていいかな、タツキ」
その殆ど残ってるチーズケーキは、今度どこかで借りを返すからさ。と、彼女は俺の名を呼んだ。……スパイスばすばす系なる謎ワードについては、また次の機会に聞くほかないようである。
「ああ、うん。……あの人?」
「そうだね、ごめん。今日はありがとね」
彼女の言葉がリズムを上げたことに気付く。俺は遅ればせに振り向いて、来客、視線の先のその男を見た。
それは、巌のような男であった。
「……、……」
品のいい黄土色のコートが、まず目立つ。その下に着ているのはスーツだろうか、どちらもシンプルな印象ながら、遠目にも繊細な仕立てがわかる。そして、それらを押し広げるのが彼の巨体である。シャツとスーツとコートを押し上げるその肢体は、しかし、それが良く収斂されたものであるように見える。
――ただし、彼の印象を最も形作るのは、その、彼が纏う雰囲気であった。
その姿はまるで巌のようであって、つまりは驚くほどに威圧感がないものであった。背丈は二メートルに届くだろうか、その存在感は明確であり、その肉体の練度だって明解であるにもかかわらず、彼には威圧感の類がまるで見て取れないのであった。
哀愁が漂う、とでも言おうか。その背のささやかな前傾が、妙に意識に残った。
「――――、」
ここからでは聞き取れないが、どうやら彼は店員と、待ち合わせ相手の確認をとっているらしい。向こうからキティが見えないということはないだろう。恐らくは「あの席をいただきたい」といった相談だろうか。
「ハハ。アイツ、勉強不足だなあ」
「あ、ああ。……そうだな」
この店は系列の喫茶店だ。レストランのように給仕に待ち合わせを伝える必要などは無い。カウンターの店員が、妙になれない様子の所作で男に応対しているのが見えた。
俺はそれに気を取り戻して、手早く荷物を集めて彼女に一言断った。
「マジで奢れよ? あのチーズケーキ一口しか食ってねえから」
「判ってるよ。――じゃあ」
それだけ言って席を立つ。特に急いだ歩調ではなく、それから店員と話す男と入れ違うまではたっぷり三十秒。
「……、……」
――あれは、きっと、
敢えて俺から視線を切っていたのだろう。
結局、俺が投げるばかりの視線が男のそれと交差することはなく、そのまま軒先に出て、傘立てから傘を拾い、それを広げて、
未だ雨が降る街に、俺は再び立ち戻った。
「……、……」
先ほどよりか、幾分と雨音が強まっていた。
大きくて緩慢だった雨粒は、今はもっと鋭く激しく傘を叩く。俺は店を出て、もう少し歩いてようやく気付く。いつの間にか雨は、ここまで酷くなっていたらしい。
「…………。」
――俺が知らない世界と、俺は今しがた、行違ってきた。
その事実が、妙に、心にしこりを残す。
このまま直帰して、この感情をそのまま家に持ち帰るというのが、俺には、少しばかり気が乗らなかった。
「こんなに待たせられるとは思わなかったよ?」
キティが言うと、その男は努めて平静な口調で答えた。
「アレが現れた。それの対応だ」
「――は?」
その声は低く、押し殺したものであって。ゆえに狭くはない店内で、その殺気を受け取ったのは男だけであった。
「なんで呼ばなかった?」
「そう殺気立つなよサノ〇ビッチ、間違えて仕事をしそうになるぞ」
「聞こえてこねえな図に乗ってんなよ殺すぞ糞餓鬼が」
あまりにも流暢なスラングに男は巌の威厳を崩しそうになる。
が、
「……お前は、この作戦においてはただの魔力タンクだ。――口を、挟むな」
そう言って、男が静かに席に座る。選んだのはアイスコーヒーであったようだ。
――当然だが、先ほどの少年とは違い、男のそれは氷が減っていたりはしなかった。
「……、……」
「なんだ、吸血鬼」
「何でもないよ、わかったさ隊長殿。貫禄が出たようでうれしいさ」
それで、と彼女は先を促す。
「ああ、イレギュラーの反応だ。しかもアレは『霧散』した」
「霧散?」
「ああ。俺たちを補足してすぐに、俺たちの包囲を突破さえせずに、アレはただ消えた」
「それは――」
思索は数瞬。彼女は最も妥当な答えを口に出す。
「アイツには、知性か目的があるってことか」
人間の群れに飛びつかないとすれば、そこには獣の本能以上の判断論理があるべきだ。
キティはそう続け、対する男は、
「そのどちらであっても、アレの脅威はAに到達するとみるべきだろう」
「はあ、……Aねえ」
それを聞いた彼女は、
なぜか、打って変わって投げやりな調子でコーヒーカップをふらふらと回す。
「んなしょっぱい性能じゃあCが妥当だろうに」
「現場測定は、都度に再定義されるものだ」
まじめな話だ、キティは皮肉っぽく返し、
「それじゃ、やっぱり持ってきたんだろう?」
「ああ、支給されたのは天の……」
「――使うなよ?」
その言葉には、不思議な質量があった。
どこか弛緩した空気感が一瞬で凍結して、男は明確に、その言葉で以って思考をかき消されて、次に継ぐはずだった台詞を見失った。
「……わかっている。最後の手段だ」
「……、……。」
鼻から、深く、キティは息を吐く。
「この街もさあ……」
その独り言じみた口調に、男は言葉を返さない。
それでもよかったのだろう。彼女はたっぷり数拍置いて、続く言葉を呟いた。
「ツイてないよなあ、……ホント」