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鹿



「えーと、怒ってる?」

「何が?」


帰り道、オズオズと尋ねる万里に疾風は敢えてそう聞き返した。


「大地の真似して少年団入ったの……」

「別に怒ってない」

「ホント?」

「ああ」

「ホントのホント?」


これ以上無駄な遣り取りを続けたくなくて、疾風はコクリと頷いた。

随分懐かれてしまったな……と言うのが正直な感想だ。







ある時学校の帰り道、転校生が俯いて佇んでいるのを見掛けた。具合が悪いのかと思って声を掛けると―――返事をしない。人違いでは無いと思うが、名前を間違えた可能性もある。疾風は溜息を吐いてその場を離れた。きっと彼女は放って置いて欲しいのだろう、そう受け取ったからだ。


そうして家路に戻った途端、跨線橋から五十メートルほどしか離れていない山の斜面にエゾ鹿を見つけた。春になると新芽を求めて民家の間近まで降りて来るのはよくある事だ。だけどこれほど近くで見掛けたのは初めてだった。思わずさっきの遣り取りを忘れて―――走って戻り下を向いたままの転校生に声を掛けた。




「おい、見ろあれ!」

「え……」




弾かれたように顔を上げ、疾風が指し示す方向に顔を向ける彼女は目の前の物を捉えかね、おもむろに瞬きを繰り返した。焦れた疾風は声を上げる。


「鹿だ!」

「鹿……うわぁあ」


万里は口をポカンと開けた間の抜けた表情で「うわぁうわぁ」と繰り返す。そこで疾風は気が付いた。彼女が野生のエゾ鹿を目にしたのは初めての事なのだと。

そう言えば先生が、彼女は札幌から来たのだと言っていた。札幌と言えば疾風の頭に浮かぶのは桑園の競馬場だ。いつかはあの舞台にジョッキーとして立ちたい。だけど先ずは―――八月の予選だ。


ふと母鹿の足元に保護色の小振りな存在を見つけて、疾風は囁いた。きっと彼女は喜ぶだろう、そう思ったのだ。


「子供もいるぞ」

「本当だ!……かわいい……」


万里は思わず、と言ったようにギュッと両手を胸の前で握りしめた。




「あっ……行っちゃう……っ」




名残惜し気に呟く横顔を、つい無遠慮にジロジロと眺めてしまった。


随分と色が白い。あまり日に当たって無いからだろうか?

彼女は背がヒョロリと高い。疾風は同い年の男子に比べても小柄な方なので、話をするときは見上げる形になってしまう。高学年……若しくは中学生に見間違えられるくらい大人びた顔立ちをしている。そして手足が長くて細くて―――頭が小さい。


そう、彼女が教壇の前で挨拶した時感じた違和感の正体に―――疾風は気が付いたのだ。


スラリとした彼女の体型は―――まるでサラブレットのよう……いや、違う。


鹿だ。何となくそう思った。


日高地方はサラブレット王国と言われるくらいの馬産地で、この時期車を飛ばせば何処でも草を食みノンビリと寛ぐ繁殖牝馬や足元に絡みつく春に生まれたばかりの当歳馬とねっこを目にする事が出来る。けれども偶に―――馬かと思ってよくよく見ると、エゾ鹿が何食わぬ顔で草を食んでいる事がある。実際、それが理由でハンターが間違って馬を撃ってしまった事があるらしい……高額な値段で取引される馬の賠償額を考えると恐ろしい間違いをしたものだと思うが。


彼女は放牧場に迷い込んだ鹿に見えた。


勝手に入り込んで来るくせに、捕まえようとすればピョンピョンと跳ねて山の中へ消えて行ってしまう……そんな気がした。


それが証拠に―――あんなに具合悪そうにしていたのに、もうケロリとしている。

大きな瞳をキラキラさせて疾風の顔を覗き込んで来るから不覚にもドキリとした。




「ねえ、一緒に帰ってもい?」

「あ?うん、別にいーけど」




ソワソワしながら、疾風は視線を泳がせた。

胸の動悸が何故か止まらない。素っ気なくそう返したものの、隣を歩く彼女に早鐘を打つ心臓の鼓動が伝わってしまうのではないかとヒヤヒヤしていた。


その日から何故か万里は疾風と一緒に帰るのが当たり前のように隣を歩くようになった。


すっかり隣を歩く存在にも慣れて、今では落ち着かず視線を彷徨わせるなんてカッコ悪い真似をせずに済むようになった。けれども不意に―――跨線橋から見えるキラキラ輝く海の波頭を指さして振り向く笑顔を目にした時、性懲りもなくドキリと胸が疼く。この胸の疼きにどんな名前が付くのだろうか。


そこで疾風は思考を止める。

考えてはいけないような予感がしたからだ。


疾風には今、やらなければ行けない事がたくさんある。

自分でもよく把握できない感情について、アレコレ思案している時間などないのだ。







** ** **







サラブレッドよりはるかに小さい体躯のポニーでも、世話をするのは一苦労だ。

ゴムブラシで汚れを浮き立たせ、柔らかい毛ブラシで毛並みを整える。これが意外と力がいる。かといって力を入れ過ぎると―――苛ついて噛みつくアクションを起こす事もあるから、厄介なのだ。


「わわわっ……ヨツバちゃんっ!やめてっ」


ギャーギャー騒ぎながら世話をする万里の後ろで疾風はフーッと息を吐く。


「この子噛むんだけどっ……!」


中腰のまま涙目で振り向く万里を、疾風は冷たく見下ろした。


「『うまや七分に乗り三分』―――はじめに言っただろ、気を付けろって。」


静かにそう言い放つ疾風を、キョトンと見上げる万里に彼は噛んで含めるように言い直した。


「馬と信頼関係を築いて初めて馬乗りは一人前、そのためには馬の世話をちゃんとしなきゃならない。乗るのは三割、世話は七割って意味だ」


トツトツと語る疾風を黙って見ていた万里は、ぐんと背筋を伸ばしてから大きく頷いた。


「なるほどね……!」

「手、止まってる!」

「うわっはい!って、大地もやってよ~!一人じゃ絶対終わらない!」


万里と同級生だと知ったインストラクターにまんまとセットにされてしまった疾風は、ブツブツ文句を言いつつなかなか諦めようとしない彼女に根気よく付き合っていた。


だが割り切れない気持ちも残っている。


馬に興味があるようには見えなかった。―――本当に『疾風の真似をして少年団に入った』のなら安易過ぎると彼は思う。それならイメージと違い泥臭い作業が多いこの珍しい『習い事』に、早々に見切りを付けるだろう、と疾風は考えていた。だから自分が手を出したい所をジリジリしながら万里に預けてみたりしているのだ。勿論作業は一通りやって見せ、色々と指導した上での事だったが。


「疾風、代わってやれ」

「はい」


焦れている様子に気が付いたインストラクターの男性に声を掛けられホッとする。


自分を指導する彼等もこういう気持ちを抱えているのだろうか、とふと考えた。しかし、手を出さずに初心者の作業を見守るのは―――かなりのストレスだ。世話を受けているヨツバの苛立ちが目に見えるだけ、余計に。

何度もやって見せて、根気よく教えたのになかなか万里の手際は改善されないように見える―――いや、少しづつ慣れてはいるのだが、小さな頃から馬が好きで世話をするのも苦にならないくらい惚れ込んでいる疾風にしてみれば、その歩みはかなり遅々として見える。

普段他人の言動や行動に気持ちも態度も荒立てる事の無い疾風は温厚そうに見えるが、それは自分にとってその騒動一つ一つが大して重要な事柄では無いからだ。馬の事となると本気な分、かなり心が狭くなってしまう―――ただ、馬達はそう言った心の機微に敏い。苛々を表に出さないように、自分を押し込めて足手まといの面倒を見るのは、疾風にとってかなりの重荷になりつつある。




「まだ続けるのか?」




そんな風に聞いてしまったのは、そんな苛立ちの所為だった。


「うーん……」


並んで跨線橋を歩く帰り道、疾風が前を向いたまま尋ねると万里は微かに唸った。そして暫く沈黙を維持した後、特に重みの無い声音でこう答えたのだ。


「そうだね、止めるよ。―――私には無理みたい」


素っ気ない返事に、何故かカチンと来てしまった。


「根性無し」


そう言い放って口を噤んだら―――彼女は次の週から少年団に来なくなってしまった。そして学校からの帰り道も……疾風に近寄って来る事は無くなったのだった。







** ** **







万里は帰り道、跨線橋とは逆の方向にある塾に通うようになったらしい。札幌にいた頃習っていたピアノを再開したようだ。―――直接習い事に行かない曜日もあるようだが、これまでのように疾風がランドセルを持って席を立つのを見計らって駆け寄って来る事は無くなってしまった。


塾やピアノの事は、狭い教室で女子達と話している内容を耳にして知った。今までなら余すところなく万里から報告されていたような事柄を、人づてに聞くのは変な気分だった。


ペチャクチャひっきりなしに話す万里の相手をするのは、疾風にとっては少し面倒な仕事だった。他人の行動や判断に一々口を出すのはどうかと思ったが、話し終ると時には判定を待つ被告のような表情で、時には教師に行いを褒められるのを期待する生徒のような顔をして疾風の言葉を待つ万里に根負けするように、自分の考えを述べる事になるのだ。


女子同士のいざこざなんて「勝手にやってろ」と思うし、男子の揶揄いも無視すれば良いと思う。特に男子の子供っぽい行動の理由のほとんどが―――万里のスラリとしたスタイルや大きな目、すっかりクラスに馴染みつつも何処か漂う都会育ちの洗練された雰囲気が気になってしょうがない、と言う所にあるのだと思い当たるだけに、万里が気にしてもどうしようも無い事だと思っている。


万里が用事以外で男子に自分から話しかける所を疾風は見たことが無い。彼女が世間話をしたり冗談を仕掛けたりする相手は決まって女子だった。―――疾風以外を除いては。

万里にチョッカイを掛けていた男子の一人に以前そう指摘された事がある。そう言えばそうかもしれない、とその時疾風は初めて認識したのだった。

と、言ってもクラスの中で彼女と話をすることはほとんど無い。だいたい万里が話しかけて来るのは―――海に臨む跨線橋を歩く通学路の帰り道の短い時間だった。


それが無くなって本来なら清々する所なのに、何となくモヤモヤしてしまう。




夏場、気温が高くなればなるほど、朝方住宅街を覆う霧が濃くなる。


『雲の中ってこんな風なのかな?』


いつか万里が濃霧に包まれる窓の外を見ながら、疾風に呟いた事がある。

疾風にとっては生まれた頃から当り前の光景だ―――そんな風に例えられる万里の想像力に感心した事がある。外から来た人間には、自分に見えている風景とは違う物が見えるらしい。




「ばいばい!」




振り向くと、教室の入口で女子達の塊に手を振る万里が目に入った。今日は塾の日なのだろう、そのままクルリと方向転換をして廊下を駆けて行ってしまう。




疾風の頭の中に、あの日突然目の前に現れて―――ピョンピョン飛び跳ね山肌を伝い消えて行った鹿が浮かんだ。




万里も突然現れた。そうしてその細い手足と大きな瞳で一瞬だけ疾風の目を惹き付けて―――山の向こうへ消えて行くのだろう。


『転校生』とはそう言うものだ。転勤族の多いこの町に入れ替わり立ち替わり現れる彼等は……一、二年滞在して仲良くなったと思ったら笑顔で手を振って次の土地へ逃げて行く。そこに感情の残滓だけ残して―――綺麗さっぱりと忘れて次の土地で新しい友達を作るのだろう。


それを寂しく思うのは野暮と言う物だ。疾風はそんな風に心の中のモヤモヤにカタを付ける事にしたのだった。



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