5
閉ざされていた扉をノックすると「どうぞ」という聞き慣れた声に入室を許可された。
「失礼します」とこの段に来てなお落ち着いている慎さんと共に、社長室へと入る。
父は家で見るよりも少し厳しいような顔つきで、「やあ」と私たちを迎えてくれた。
「お久しぶりです」
「君の活躍は耳にしているよ。仕事は順調なようだね」
「おかげさまで、何とかやっています。――今日はお忙しい中、無理を言って時間を作っていただきすみません」
「堅苦しいことは言いっこなしだ」
そこまでは友好的に話していた二人だけれど、父はちらりとこちらを見たので、それだけで竦みそうになる。
「百合野」
「すみません」
何かを言われる前に、頭を下げた。
「育てていただいたせめてもの恩返しに私にも出来ることがあるならと思っていたけれど、やっぱり、出来ません」
声が、震える。
「お父さんが渋っていたお話を押し通したのは私なのに、今さらそれをやめて欲しいなんて、虫がよすぎると自分でも分かっています。でも」
顔を上げて、まっすぐ見る。
「慎さんが、好きなんです。――お話、白紙にしてください」
進められていた結婚話を撤回したら、どこまで影響が及ぶだろう。有利に運ぶはずのものもきっとそうはいかなくなる。
私が良かれと思ってしたことは、むしろマイナスにしかなっていない。その上、自分は幸せになろうとしている。
父に失望されるのが、何より辛い。それでも私は、慎さんの手を選んだ。このまま縁を切られることも覚悟して、父の答えを待つ。
時間にしたらいくらでもなかったかもしれない。ひどく長く思えた空白ののち、父は。
「あの話なら、もうとっくに白紙に戻してあるよ」
「――え?」
にわかには信じがたい言葉だった。
「娘を差し出さなくてはならないような会社なぞ、こっちから願い下げだよ。当り前じゃないか。私だけの意見ではないよ、役員一同、みんなそう思っている」
何でもなさそうに言う父だけれど。
「でも、『分かった、先方にも進めてもらうように話を通しておく』って、」
「そうでも言っておかないと、お前はいつまでも諦めずに、下手をしたら勝手に話を進めてしまいそうだったからね。でもまさか雪下君に白紙に戻した筈の結婚話を知られるとは思っていなくて、悪い事をした」
「いえ」
歯切れ悪い慎さんのその返事に、父が思わずと言った様子で吹きだす。
「百合野にも聞かせてやりたかったよ、雪下君からの電話。彼、『政略結婚ってどういうことなんですか! 彼女が幸せになるのならそれでいいと思っていましたけど、そうでないなら俺がもらいます!』ってすごい剣幕だったよ。なあ?」
え、と慎さんを見上げると、ほんのり赤い顔をして、「その節は済みませんでした」と小さな声で頭を下げた。
「それを聞いて、話をなしにして本当によかったと実感したよ」と暢気に離す父だけど。
「でも、それじゃ会社は……」
「大丈夫、外資のファンドがついてくれてね、彼らに立て直ししてもらえることになった。私は会社を去ることになるけれど、昔一緒に働いていた奴が興した会社を手伝ってくれと声を掛けられている。今までより給料は下がるだろうが、私一人食べていくなら何とかなる、だから」
父が、笑う。それだけで万事うまくいくような気になる、見慣れた笑顔。
「安心して、好きな男のところへ嫁ぎなさい。お前が雪下君のことをずっと好きなのは宣言されなくても分かっていたよ」
「!」
見抜かれていた。私の気持ちなど、とうに。
「雪下君、この子は君を好きなくせに私と会社を思って本気で嫁に行く気でいたような子だ。献身的と言えば聞こえがいいが、君の気持ちに気付こうとはしなかった、鈍感な子だ」
「――はい」
「それがまた君を傷つける日がいつか来るかもしれない。それでも、託してもいいかい?」
「もちろん、今日はそれをお願いしに来ましたから」
慎さんが、力強く父にそう返事をした。
「この子には今までたくさん辛い思いをさせてきた。会社が傾いて、この子の母親が家を出てからは、我慢の連続だ。にもかかわらず、私はこの子からそれについて詰られたり泣き言を聞かされた事がない。料理や洗濯など、したこともなかった家事を、私と二人でたくさん失敗しながら、笑って、日々奮闘してくれたよ。いつだったかな、最初に暮らしていた家を手放して、今の家に越してからの事だ。妻に出て行かれて日が浅い上に家政婦さんを雇う余裕もなくて、私が初めて自分で炊いたご飯は、水を入れないで焦がしてしまってね。――その時はさすがに情けなくて、涙が出そうだった。仕事では大勢の人を束ねていても、妻一人引き止める事も出来ずに、会社の経営に行き詰るや否や彼女に去られて、あげくこのざまだとね。でも、高校生の百合野が言ってくれたよ。『よかった、お父さんも失敗するのね。ホッとしちゃった』と。そう笑ってくれたから、私は救われたんだ」
父は、時折言葉に詰まりながら嵐のようなこの数年を穏やかに、笑みを浮かべながら話した。
「湯水のように何でも買い与えることの出来た頃とはまるで違う日々で、君と君の作った服が、百合野を支えてくれていたよ。この頑固な娘はね、いくら私が言っても『貯金があるのだからお小遣いは必要ありません』と突っぱねて、一八になってからはこつこつと溜めたアルバイト代で君の服を買い求めていたんだ。どうだい、びっくりするだろう」
「お父さん!」
今まで慎さんに恋心以外で内緒にしていたことを暴露されてしまって、慌ててしまう。
父の会社の状態を神田さんから聞いていた慎さんも、さすがにこれには目が真ん丸になっている。それだけで、私は上手いことこの人の前で『大友さんのお嬢さん』のままでいたのだと分かった。
「はい、――びっくり、しました。その、お二人の暮らしぶりがそんなに変わっていたとは気づきませんでしたし。でも」
いたずらっぽい顔で、笑う。
「すごく嬉しいです。気立てがよくて、俺の服を好きでいてくれてるだけじゃなくて、百合野ちゃんは色々自分で出来る、自立した女性だって分かって」
それを聞いて、視界がにわかに滲みだす。
「どうか誤解しないで欲しい。雪下君にこの事を黙っていたのはね、『父親の会社が傾いているなんて知られたら恥ずかしい』からではなく、この子なりに私の名誉を守ってくれていたからだよ。あとは、負けず嫌いだから君に変に気を遣われたくなかったのだろうね。おっとりして見えるけど、案外そういう気質なんだよ」
「分かります」
それを聞いてホッとした途端、ますます涙が溢れてくる。
慎さんが世の中のこと、特に興味のないものには疎いのをいいことに、欺いていたようなものなのだ、私のしていたことは。
なのに慎さんは父の言葉をまっすぐに受け止めて信じてくれた。それだけではない。
泣き止まない私の手を握り、そっと髪を撫でてくれた。なんども、なんども。
小さな子供に施すようなその儀式は、波立っていた私の心を落ち着かせるのにとても効果があった。
涙がいつまた溢れるともしれない私に、慎さんはゆっくり話しかけた。
「いつも用意してきてくれるおいしいあのお弁当は、お手伝いさんに助けてもらっているか、お料理教室に通った成果かと思ってたよ」
「学校の家庭科の実習と、あとは実地で覚えたんです」
「そうか。――もしかして、アトリエ通いに車の送迎はなかった?」
「車で送り迎えしてもらっていたのは前の家にいた中学生の頃までです。今は地下鉄の乗り換えだって、慎さんより上手にできると思います」
大友家の娘が一人で電車に乗って出歩くだなんて、おばあ様が生きていたら目を剥いて叱られていたに違いない。
でも車の送迎や、他人の手を借りなければ管理が行き届かないほど大きな家など、私にはもとより必要のないものだった。ずっとそれが当たり前だった母には我慢ならなかったかもしれないけれど。
「君が、俺のところに通ってくれるのは、お嬢様のボランティア精神かも、なんて少しだけ疑ってた――ごめん」
「もう違うって分かってもらえたのなら、それでいいです」
うん、とかすかに動かされた慎さんの頭。さらさらと流れるまっすぐな髪。
望んでいないなんて、嘘だった。
私はもうずっと、この人が欲しかった。
自分でも分からなかった透明なバリアが取り除かれてから分かること。
『慎さんが誰かを好きになるまで』でも、『私が誰かのところへ嫁ぐまで』でもなく、私はずっとあなたを好きでいたい。あなたの隣で、生きていきたい。
二〇年しか生きていないのに早まって、と思われてもいい。私は、慎さんの服と、慎さんへの思いを纏ってずっと生きてきたのだから、むしろ遅いくらいだ。
慎さんが、好き。それだけじゃない。
大事にしたい。大事にされた分も、それ以上も。
もう、どうやっても追いつけない一五年を悩んだりはしないから。
「親バカで恐縮だが、これからは幸せだけを与えてやってほしい。――百合野を頼みます」
「はい」
慎さんが、深く頭を下げた。
「百合野」
「は、はい!」
父は、私に声を掛けたあと黙り込み、そして。
「――よく似合っている。幸せに、なりなさい」
「はい……!」
そう返事をしながら、またも溢れる涙が堪えきれない。まったく、今日は泣いてばかりだ。ドレスを汚したくなくて左右の手で懸命に拭っていたら。
「これで拭いて」と、慎さんがシャツの胸元に私を抱え込んだ。
「!」
父の前だというのに、なんてことを……!
驚きのあまり涙が引いて、かわりに顔が熱くなる。離れようとしてもそれは叶わず、父をちらりと見れば案の定苦い顔をしていた。
「――雪下君、私はさっき君に百合野を託した、と確かに言ったけれど、まだ全面的にそうした訳ではないのだよ……?」
「ええ、でもごしごしと擦って肌を痛めてしまうよりはいいかと思いまして」
「分かっているとは思うが、この子は私の娘だ。まだ君の妻ではないという事を忘れないで欲しいね」
「いずれそうなるのですから、いっそ予行演習だと思われてはいかがでしょうか」
「今さらだけど君、うちの娘にいつから懸想していたんだね? 返答次第では許さないよ」
ばちばちと、父と慎さんの間に火花が散ったように見えた。その一種即発の雰囲気を察し、なんとか慎さんから逃れ、「二人ともいいかげんにして下さい!」と叫ぶと、そのあまりの剣幕に「どうされましたか!」と秘書の人が社長室に飛び込んできて、とりあえずこの日は停戦と相成った。
いつか。
こんなことも、振り返ればいい思い出だねと笑いあえるだろうか。父と。そして、慎さんと。
臆病だったふたりがようやく手を取り合うまでにした、たくさんの遠回りも。
自分の気持ちしか見えていなかった私が試みた結婚騒動も。
今はまだ親ばかな父と意外なほどに情熱家だった慎さんの二人が顔を合わせるたびに巻き起こす諍いには頭が痛いけれど、いつか。