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仮縫いからふた月がたち、あんなに寒かった日々もどこかへ行ってしまった。
お弁当を手にアトリエを訪れるたびドレスは少しずつ仕上がっており、そしてとうとう完成を告げられた。
試着をして、問題がなければ引き取って、お支払いを済ませて――それで本当の本当に、おしまい。
アトリエを出てしまえば、もう慎さんと私の人生が交差することもなくなる。
もとより叶うはずのない恋だけれど、喪うものの大きさに足がすくむ。
ずっと。
ずっと、あなたのことだけが好きでした。
いつか、時間がかかるかもしれないけれど、きっと旦那様になる人のことも好きになる日が来る。それでも、
私はきっと一生、慎さんのことが誰よりも好き。
忘れられる日なんて来ない。永遠に。
「わぁ……」
今日が最後だと心がギリギリ痛んでいても、慎さんのドレスを見ればその緻密さと華やかさにいっときは痛みを忘れてしまう。
引っかけたり汚してしまわぬよう、そっと身に纏う。細かな修正がなされたそれは、皺が寄ることもなく、ぴったりと私の身体に馴染んだ。
「シーチングも素敵でしたけど、やっぱりこれの方が何倍も素敵。――ありがとうございます、無理をなさったでしょう?」
この三か月、慎さんは展示会で受注した服の製作をおろそかにすることも作業を外注に出すこともせず、そのペースとクオリティを落とさないまま私のドレスも作ってくれていた。――おそらくは休みの日と、寝る時間を削って。
いつも疲れた顔をして、『もう少しペースを落として作っても大丈夫ですよ』と言っても聞き入れてはくれなかった。
「きれいだよ、百合野ちゃん――本当に、綺麗だ」
ドレス姿の私と向かい合う形で立っていた慎さんが、そう言ってくれるのが嬉しくも切ない。
「今日からはゆっくり休んで、また素敵なお洋服をたくさん作ってくださいね。楽しみにしてますから」
そう口にしながら、首から下げていたボールチェーンを外す。鈍く光る、アトリエの鍵。
この数年、ずっと私の傍で片思いを見つめてくれていたその鍵さえ、とうとう手放す時が来てしまった。
手のひらに受けて、そのまま慎さんに差し出す。
「慎さんの優しさに甘えて、長らく所有してしまいました。――お返ししますね」
差し出した鍵をゆっくりと近付いた慎さんの手が受け取り、そして。
私の手ごと、包んだ。
「慎さん?」
「――だめだ」
「え」
「これは君にあげたものだ。君が持っていて」
「でも」
「来て」
「え」
用意していた白いハイヒール――実際に履いた時の高さでドレスを作ってあるので今日持ってきてあった――とウェディングドレス、ヴェールまで纏ったままで手を引かれた。
「し、慎さん?! 外へ出るのなら、これ、脱がないと」
「いいから」
いつになく強引な慎さんと共にアトリエを出る。そのまま行こうとする慎さんをなんとか止めて、結局は返せないままでいる鍵を使う。カチリと音がしてドアが閉まったのを確認すると、慎さんはまた私の手を取る。私は片手で四苦八苦しながら、ドレスの裾を汚してしまわぬようにたくし上げつつ慣れないヒールで歩いた。
ビルを出る手前で「ここで待ってて。車を回してくる」と言うが早く、慎さんはステーションワゴンをビルの前につける。そして運転席から出て来て、ドアマンのように助手席のドアを開けてくれた。
「ありがとう、ございます」
車の足元には綺麗な状態のビニールシートが敷かれている。――何というか、用意が周到だと思ってしまうのは、気のせいなのだろうか。
「君はお礼なんて言ってる場合なのかな」
「え?」
「俺に拉致されたとは思わない?」
そう話す慎さんは、別段いつもと変わりないように見える。運転だって、極めて穏やかだ――慎さんの運転する車に乗せてもらうのはこれが初めてだとぼんやり思った。
「危機感が足りないよ。結婚を控えた女性が、結婚相手じゃない男に唆されて車に乗って暢気にお礼なんて言っちゃだめだ。いくら俺がおじさんで、君の恋愛対象じゃないとしてもね」
「でも……、慎さんはそんな人じゃ……」
「百合野ちゃんは、俺の何を知ってるの」
その強い口調に、思わず口をつぐんでしまった。
「俺が今までどんな思いで君を見てたかなんて、知ったらきっと幻滅するよ」
どくんと、ドレスの下で心臓が熱くなる。
「どういうことですか……」
声が震える。ありえないことが起きているという状況だけ、辛うじて理解出来ているけれど。
慎さんは私の声の震えを、別の意味に捕えたらしい。
「怖い? ごめんね。でも、離してやれない」
「慎さん」
「どうせ君は俺のことなんてこうやって簡単に車に乗るくらい意識していやしないんだし、この際洗いざらい話すよ。俺はね、」
キッと音を立てて車が止まる。赤信号と前の車のブレーキランプの赤がやけに鮮やかだ。
「俺は、――ずっと君が好きだった」
「!」
「おかしいだろう、一五も離れているのにね。君に嫌われたくなくて、ずっと隠してた。いつか大人になった君が綺麗に他の男のところへ羽ばたいていくのを邪魔せずに見届けようと、ちゃんと覚悟していたつもりだったけど、ちっともだめだった。それでも、君の記憶に『優しい慎さん』として残りたかったから、足掻いたりしないで本当に諦めるつもりでいたんだ。でも」
ハンドブレーキを下ろし、再び車が走り出す。
「神田が教えてくれたよ」
「! なに、を」
「俺の知らなかった全部。大友さん――君のお父さんの会社の状況も、それを知った君が政略結婚の駒になることを厭わなかったことも。俺はね百合野ちゃん、君が幸せになるなら喜んで身を引く。でも、恋愛結婚でもなくお見合いでもなく政略結婚だというなら話は別だ」
「別?」
「君のお父さんの所へ行って、話を付ける。だめならだめで君をこのまま攫って行く」
「! そんなことしたら、慎さんに迷惑をかけてしまいます!」
「どうして? どのみち俺は、君が他の奴と結婚すれば、不幸な男になるっていうのに」
「だって……私そんなつもりじゃ……慎さんに、振り向いてもらえないと思ってたから、」
「――百合野ちゃん、それって」
「だから私、……どうせだめならせめて会社の役に立とうと思って……」
「ばかだな」
ぼろぼろと涙を流す私に、慎さんはハンカチを渡してくれる。慎さんの匂いに、涙は止まるどころかますます溢れてしまった。
「ごめん、今初めて君の涙を見られて嬉しい。ずっと、笑ってくれてた君が好きだけど、そういう弱いところは、見せてもらえなかったからね」
「……私も、今日は見たことのない慎さんばかりです」
「情けない俺は知らなくていいんだよ」
「でも見たい。見せてください」
私が潤んだ目のままお願いすると、慎さんは一瞬怯んで、それからふわりと笑った。
「俺が君のお願いを断れないって知ってて涙目でダメ押しされたら、こっちに拒否権なんかないよね。そのかわり、俺の傍を二度と離れないで」
「はい」
私が泣き笑いで返事をすると、慎さんも同じような顔をして私の頬を撫でた。
涙が引くにつれて、だんだんに冷静さを取り戻してきた。すると、気になることがひとつ。
「――慎さん、あの、父に会うのは、また今度にしませんか? 私もこの格好だし……」とドレスをつまんで見せる。
互いの思いを知って、心の伴わない結婚をする気はもう消え失せた。
そのことを父に伝えたら、どうなるかはまだ分からない。でも。
叱責されても詰られても、責を負うのは私一人でいい。乗り気でない父に私がお話を進めてくれと頼んだのだから。
いくらそう言っても、「だめ。それは百合野ちゃんのお願いでもきけない」とすげなく断られてしまった。
「怒られるなら二人で。そうだろ?」
「でも、それならなおさらこの格好じゃない方が」
「他の日で仕切り直して、なんてしてる時間が惜しい。ただ見守るしかないと思っていたのがそうじゃないって知ったんだ、俺はこれ以上色々待てやしないよ」
「でも、ドレスが汚れちゃいそう」
ここまではなんとか汚さずに来られたけれど、車を父の会社の地下駐車場に入れて降りる段になって、そこがウェディングドレスで歩くような場所ではないことを思い出した。
シートベルトは外したものの、当然ながらきれいに清掃されたり、じゅうたんが敷かれている訳ではないそこへ降り立つことを躊躇していると。
「百合野ちゃん」
助手席のドアを開いて、慎さんが私に向かって両手を広げた。それでも、出られないでいたけれど。
「こっちは一一年待ったんだ。そろそろ観念して」
そう言って私の腰を掬い上げ、抱え上げたまま慎さんが歩き出した。
「し、しんさんっ!」
「君がドレスを汚したくないって言ったんだろ。それとも、降りて自分で歩く?」
お箸より重いものを持てなさそうな風情のくせ、私を持ち上げた状態で慎さんはすたすたと歩く。ロール状に巻かれた、切る前の布を日々扱っているのだから当然か。
――赤くなった顔を、きっと隠せていない。肩口をきゅっと掴んで、そこに顔を押し当てていたら、慎さんの笑う気配がして、ますます顔を上げられない。
だから、エレベーターに乗り込んだのも、一階で降りたのも、気付かずに。
「大友社長とお約束をしております、雪下と申します」
慎さんが、私を抱えた状態で受付で取次ぎをお願いしている時に、ようやくハッとしても遅い。私が騒ぐ前に、「そうそう、社長のお嬢様もお連れしたとお伝えください」と何事もないように伝えて、『ウェディングドレスの女を抱えた男が社長に取り次ぎを求めている』『抱えられた女(ウェディングドレス着用)は社長令嬢』という驚きを隠さない受付の女性が社長である父へと内線を繋ぎ、その後も『社長は『雪下君を上にご案内して』って言った』と目を白黒させている間に、「では」とやっぱり何事もないかのようにさっさと再びエレベーターに乗ってしまった。――あの場で誰より落ち着いていたのはこの人に違いない。
緩やかに上昇を始めた箱の中で、私はようやく下ろされた。
「もう、慎さんたら!」と抗議しても「だって百合野ちゃんを離したら、その途端に逃げ出しそうだったからね」と信用がない。
「――逃げやしませんよ」
「俺から逃げようとしていたくせに」
それを言われると、反論のしようがない。
徐々に最上階へと近付くエレベーター。黙りこんだ私に、慎さんは「怖いかい?」とこちらを見ないまま聞いてきた。
「――怖くないと云ったら、嘘になります。でも」
慎さんがいるから、大丈夫。そう答えたら「俺もだよ」と教えてくれた。
エレベーターが目的階への到着を告げた。
一瞬で怯みそうになった私の手を、「行くよ」と慎さんが握る。
「――はい」
だからもう、怖くない。
16/02/22 一部修正しました。