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四日間の会期で行われた展示会は、大盛況に終わった。
私も、ワンピースや小物数点を注文した。
「しばらく忙しくなるな」と会場から連れ帰ってきた花たちがあちこちに飾られたアトリエで嬉しそうに呟く慎さんに、あの夜見た表情は微塵も浮かんではいない。
いつも通りのふりをして、お弁当を渡してお茶をして、――それだけ。
いいじゃない。傍にいられるのだから。
宥める私がいる一方で、それだけではいやな私が不満をくすぶらせている。
あの時、慎さんがあんな思わせぶりなことを言わなければ、こんな思いをしないで済んだのに。忘れるなんて、無理だ。なかったことになんてしたくはない。
でも、それを足掛かりにして攻め入るほどの気勢はなく、結局はこうして慎さんに心の内で八つ当たりをするだけしか出来ない自分が歯がゆい。
帰宅ラッシュで混雑した電車に揺られ、スーパーで買い物をし、家までの道を急ぐ。
冷たい門扉を軋ませて、玄関までの短い距離を歩き、鍵を開けた。
「――ただいま帰りました」
そう口にしても、お帰りと出迎えてくれる人はもういない。ここ数日の様子と携帯に届いたメールから推測するに、父は今日も会社で寝泊まりするらしい。
エアコンをつけて、冷え切った部屋を暖める。
何もかも、昔とは違う。そして人は過去には戻れないのだ。
幼い頃、私は本当にお姫様のように育てられた。今でも写真を見れば、その様子がうかがえる。
広い邸宅に住み、欲しい服を作ってもらい、両親に連れられて色々な場所も訪れた。海外や、有名人のパーティー、貸し切りにされた遊園地。幻みたいな、あの日々。
わがままなお嬢様に育たなかったのは、父と母がきちんと私を躾けてくれたから。おかげで、こうしてなんとかやっていけている。
写真立てを引き寄せ、埃を払った。少し褪せてしまった写真の中で、『悪いことは一つも起こらない』と思っていた私が笑っている。
悪いことは起こらないのではなく、周りの人が必死に排除していたのだと今になって分かる。
「――強くならなくちゃ」
悪いことは、もう起きてしまった。でも、これ以上起こりませんよう。
もしまた起きたとしてもただおろおろと泣くだけではなく、自分自身で立ち向かって行けますよう。
大学の講義とバイトの間を縫って、慎さんのアトリエを訪れる。今日は、注文していたブラウスが出来上がったので、その引き渡しの日でもある。
一昨日訪れた時に『ブラウス、そろそろ仕上がるよ』と告げられてからずっと心が弾んでいた。足取りまで軽い。
アトリエまでもう少しのところで携帯にメールが届いた音がした。カバンの中から取り出して、――立ち止まる。
どん、と急ぐ人にぶつかられ、謝ってからのろのろと脇へ寄った。
浮かれていた心が一瞬で鎮まり、楽しみの代わりに静かな悲しみが満ちる。
父からのメールは、この恋を終わせる時が来たと明確に示してあった。
何度か意識をして、深い呼吸を繰り返した。そして呼び出した番号は、見慣れた一〇桁の慎さんのアトリエのもの。はい、とアトリエの名を告げるその人の声に縋りたくなる。
顔を上げて、明るい声を出した。
「慎さん? 百合野です。ごめんなさい、急用が出来て今日はそちらへ行かれなくなりました。――はい、ではまたご連絡しますね」
こちらは大丈夫だからまたいつでもと気遣ってくれた慎さんは、父の会社でここ何年も業績悪化が続いている事を知らない。
でも、仕入れている布のメーカー、即ち父の会社の社名が変わればさすがに分かるだろう。その頃には、私の嫁ぐ相手も決まっているだろうか。
父がおじい様から会社を継いでからというものの、不運にも数多くの危機が訪れ、その火消しをするたびに会社の規模は少しずつ縮小していった。そんな中、人員の削減よりまず自身の給与をカットした父に、それまでのような暮らしぶりは望めないと分かった母は『私ではお役に立てそうにもありませんので』と早々に実家へと戻って行った。
『あの会社はもう泥船よ。あなたも早くこちらへ身を寄せた方がいいわ』
呼び出されて訪れた母の実家のティールームで、一〇数年寄り添った父への未練を見せずに優雅な仕草で紅茶に口を付けた母に、『家へ戻って来て欲しい』と懇願するつもりだった私は、それが子供じみた夢だったと痛感させられた。
両親はとても仲が良いと思っていたのに、確かに私はこの人に愛情を注いでもらっていたのに、こんなにも簡単に壊れてしまう。
今まで強固に思えたものは、ひどく危うく脆いのだとあの日に知った。
「会社のことでお前に迷惑はかけないよ」と事ある毎に父は私に言い含めたけれど、会社のために私でも役に立てることがあるなら、それが政略結婚だとしても受け入れる覚悟はしてあった。事実、私が年頃の娘だと知ってその提示がない訳でもないらしい。それを、社長である父だけでなく、役員の人たちもみな反対してくれていると聞いた。でも、出来るだけいい条件で会社を受け入れてもらえるなら、今まで育てたもらった恩返しをしたい。先ほど届いた父からのメールには、『万策が尽きた。会社は、残念ながら吸収合併される道しか残されていないようだ』とあった。
目を閉じる。色々な思いがよぎる。それを、一つ一つ大切にしまう。今は忘れられなくても、いつかは叶うだろう。涙は、流さない。そう決めていたから堪えられた。
目を開ける。
『本当に、お前はそれでいいんだな』
「はい」
『分かった、先方にも進めてもらうように話を通しておく』
迷わぬうちに、父へ連絡をした。
そして、通い慣れた道を行き、見慣れた瀟洒なビルの、その部屋を見る。
そこに、慎さんがいる。きっと今も、魔法使いのように器用なあの手で、素敵な服をたくさん生み出している。
見えはしないもののその姿を思うだけで、私の心は喜んでいる。
きっと、もう、――こんな風に人を好きになることは、ない。
慎さん以外の、誰かを。
数日後、いつものように訪れたアトリエでお茶をしながら、私は「作っていただきたいものがあるんです」と慎さんに願い出た。
「あらたまって、なんだい」
「ウェディングドレスです」
穏やかで滅多に揺らぐことのない慎さんが、その時確かに動揺して見えた。
「――誰が着るのか、聞いてもいい?」
「私、です」
鋭くなった声色に、少し声が震えてしまう。
「そうか。――分かった」
おめでとう、とどこか心あらずの様子で呟かれた。
「ありがとうございます」
私も、痛む心を押し殺してそう返事をするのが精いっぱいだった。
結婚を控えているからと、これからは中学に上がった頃のように、いいや、もっと遠慮されるのだろう。打ち合わせもきっと最低限なものになる。慎さんはそういう人だから。そう、思ったのに。
「さあ、デザインはどうしようか」
デザインから生地から、いつもならある程度絞られた状態から提案されるそれを、何故か一から選ぶこととなった。まあ、それも、ウェディングドレスだからなのだろう。普通ならきっと、どれにしようかと悩むことさえ楽しくて仕方がないに違いない。
生涯の伴侶との儀式のために、その瞬間だけ纏うドレスを作る。その相手が慎さんならよかったという思いには、気付かないふりをした。
普段なら私のアイデアの断片のようなものを慎さんが何倍にも膨らませて、服に仕立ててくれる。でも、今回はそれでは許されず、イメージをデザインに出来るまで幾度もアトリエに足を運んだ。
『お任せします』と言ってみても、『だめだよ』と突っぱねられて、ようやく絞り出すことが出来た拙い私のイメージを、慎さんは辛抱強く描き留めてくれた。
デザインが完成し、なんとか生地も決まると、慎さんは穏やかに微笑んだ。
「きっと、似合うものにするよ。百合野ちゃんが世界一幸せになれるように」
そんな言葉をもらって、不意に泣きたくなった。
「――ありがとうございます」
嫁いでしまえば、アトリエに通うことも、慎さんの服を纏うこともなくなる。
夫になる人が寛大にもそれを許すとしても、私は結婚後も思いを生かしたまま慎さんの元へ通うような人間でありたくはない。思い出のありすぎる服を黙って着続けるのもフェアじゃない。
慎さんと過ごせる残り少ない時間を大切にしよう。そう心に誓った。
ノートを用意した。
あかさたなでインデックスを付けて、たとえば「紅茶のストック」なら「か」行をめくればそこに『紅茶 台所の収納ケースの三段目』と記してある。
私がここへ来なくなってもなるべく困ることのないように。そう思って書いたものだ。
自己満足かもしれない。慎さんは大人の人で一人暮らしもしているから、今さら私が世話を焼かなくてもなんとかなるだろう。
それでも、どうしても困った様子でアトリエで立ち尽くす慎さんの姿がぬぐえず、ノートを作った。同じものをもう一冊作り、約束を取り付けて受け取り人の元を訪れる。
忙しい神田さんに時間を作ってもらって、彼女の会社のすぐ近くのカフェでそのノートを差し出すと、険しい顔をされた。
「何で私があいつの面倒を見なくちゃいけないのよ」
「すみません」
「冗談じゃないわ、あなた雪下を甘やかし過ぎよ」
「――すみません」
「散々甘やかして付け上がらせておいて、なんで放りだすような真似するの」
この人がずっと言ってきたとおりに、もう慎さんには近づかなくなるというのに、どうしてそんなことを言うのか。不思議に思っていたら、顔に出てしまっていたらしい。
「あなたが自分の意志で、あれから離れられれば一番いいと思って忠告していたのよ。なにも、こんなことを想定していた訳じゃないわ」
その言葉で、彼女が父の会社の状況は知っているらしいと分かった。
「その話、まだ本決まりではないのでしょう?」
「ええ」
「撤回する気はないの?」
「――ええ」
「そう」
彼女はカプチーノをくっと飲み干すと、「一応、預かってあげる。でも私があいつの為に動いてやるなんて思わないでね」と言いつつノートをケリーバッグにしまった。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは何もしてないわ」
じゃあね、と止める間もなく、伝票を指に挟んで行ってしまった。
嫌なことをたくさん聞かされた。コンプレックスもひどく刺激された。
でも、結婚してしまえばもう彼女と会うこともなくなると思うと、寂しいような気持ちになる自分は現金な人間だ。
しばらくして、仮縫いをするとの連絡があった。
え、もう。
展示会で受注した服の製作が落ち着いてからするのだと思っていたのでびっくりした。本音を言えば、一日でも最後の日を後延ばしにしたかった。
「――ほんと、子供だ私」
結婚すると決めたくせに(まだ相手は聞かされていないけど)、気持ちがまだ慎さんから離れられないでいる。
「……いらっしゃい」と迎えてくれた慎さんは、明らかに作業が強行軍だったとわかる顔色だった。
「私のドレスなんていいから、まず寝てください!」と思わずその背中をぐいぐいとソファの方へ押しやるけれど。
「いや、引き受けた以上、ちゃんとやりたいから」ときっぱり言い切って、結局慎さんは身を休めることなく作業スペースへと戻ってしまった。
「大丈夫ですよ、まだ日取りも決まっていませんし」
それどころか、お相手もまだきちんとは決まってはいませんが。
お父さん、ちゃんと話通してくれてるのかな。なんだか、そんなことが気になってしまう。
「――そう」
これ、と指差された先には、私の要望や想像をはるかに超えた、理想のウェディングドレスがあった。
「素敵……」
本当のドレスの生地を裁つ前にシーチングで縫われた仮のドレスは、それでも既に美しかった。
「これが本物でいいです!」と興奮する私に、「そういう訳にはいかない。もっと美しいものにするんだから」と慎さんが大真面目に答える。
シーチングのドレスを身に纏った状態で、慎さんがピン打ちをしていく。細かく採寸をしたけれど、それでもシルエットの修正は身につけた状態でないと出来ない部分もあるから。
鋭いシルクピンが肌に刺さるのでは、なんて心配は無用だ。そんなことは今までにただの一度もなかった。
私の足元にひざまずいた慎さんの髪が、ドレスに触れる。うっかりと撫でてしまわぬよう、両手を祈る形で閉じ込めた。
人の気も知らずに、慎さんは今まで距離を取っていたのは何だったのかと思う程、ピン打ちの間に踏み込んだ質問をあれこれと投げ掛けてくる。
「旦那様になるのは、どんな人?」
「すみません、まだどういう方か断言できるほどはお会い出来ていなくて……」
嘘ではないなというラインで濁しても、「じゃあどんな人を君は望む?」と続けられる。
「優しい方だといいなと思っています」
「優しいって、どんな?」
「――私を裏切らない人」
社交的な父には、たくさんの知り合いがいた。けれど、その多くが会社が傾くにつれ、ぱたりと姿を見せなくなった。変わらずにいるのは、慎さんのお父さんをはじめほんの一握りの人たちだ。
母が出て行った数日後、二人で今の家に越してきた、ある晩。
『人の縁はこんなに脆いものなのかな』と寂しそうに呟いた父の姿が、今でも忘れられない。
「それから?」
「それだけで充分です」
「――そう」
人は裏切り、人は去っていく。
愛のない結婚をする相手には、私と同じように思う人があるかもしれない。いないかもしれないけれど、特殊な結婚だということは分かる。
その中で多くは望まない。はじめから欲しがらなければ傷付かない。――なんて、慎さんが知ったら呆れてしまうだろうな。
いっそ幻滅されてしまえば諦められるかもしれないけれど、それを望むほどに私は強くはない。
16/02/22 誤字修正しました。
18/12/13 誤字修正しました。