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アトリエでオーダーをお願いするのとは別に、展示会にも足を運び、新作を注文している。彼は好きな人であると同時に、好きな服を作る尊敬するデザイナーだ。
オーダーメードの服は当然安くはない。セミオーダーも然り。でも、布や糸の質や縫製の緻密さ、そして何よりクラシカルで凝ったデザインや作業工程を思えば安いと言って過言ではない。
単純に安さだけを求めるならファストファッションのお店へ行けばいい。でも、何年着ても何度洗濯しても簡単によれたり擦り切れたりしないブラウスやワンピースは、長く私に寄り添ってくれる。それが何よりうれしい。
人は、離れてしまうこともあるから。
展示会はアトリエとは別の会場を借りて開催されるのだけれど、いつも訪れるアトリエがひっそりとしているのとは反対に、服を買い求めに来た人や雑誌の取材で来た記者さんで活気に満ちていて毎回びっくりする。
慎さんも、シャツにジーンズといった普段の作業スタイルではなく、この時ばかりは三つ揃えのスーツ姿。知らない人のようで、ちょっと、近寄りがたい。そう思って入口で怖気付いていると、「百合野ちゃん」と見慣れた笑顔で手招きしてくれる。それでようやく中に入ることが出来る。いつもそれを「場所見知り」と慎さんには笑われてしまうのが少し悔しい。彼の中で私は、どれだけ幼く思われているのだろう。
とことこと歩を進め、「展示会、おめでとうございます。これ、小さくて恐縮ですが」とお花屋さんで買い求めてきたアレンジのかごを手渡せば「ありがとう」と受け取ってくれるけど、ゴージャスなお花たちの中でそれはあまりにも小さく、ここにいる私と同じく身を縮こめているように見えた。
賑わっている会場内。どの人も、慎さんの服に身を包み、新作を手に取り、にこにこしている。そのうちの一人に「すみません」と慎さんが呼ばれた。
丁寧に説明をして、購入すると決めた人の採寸をパーテーションの向こうで行って、その合間に取材にも答えて。忙しそうだな、と思ったらこの場に気後れしていたはずなのに自然と「お手伝いします」と申し出ていた。
「ありがとう、助かる」
待っているお客様にお茶を出すようお願いされて、紅茶を振る舞う。DMの送り先が記入された顧客カードを受け取り、カードホルダーにしまう。少しずれた状態でハンガーに掛けられていたワンピースを、肩のラインに合わせて掛け直す。一つ一つは小さなことでも、ここで私がしくじればそれは慎さんの評判に影を落としてしまうことに繋がるので、何一つ疎かには出来ない。自然と手付きや物腰が丁寧になる。緊張感が常にあったものの、それはいやな感じではなかった。
何度も展示会には足を運んで来たけれど、こんな風にお手伝いするのは初めてだ。
服作りを手伝うことは出来なくても、ちゃんと彼と彼の服のために私が出来ることはあった。それが嬉しい。
一通りのことを終え、人出も少し落ち着いた頃、接客中の慎さんに「百合野ちゃん」と呼ばれた。
「はい」
返事をして近づくと、慎さんは「彼女が今着ているのが、それと同じシリーズの去年のものです」と説明していたところだった。
慎さんはカタログやDMにモデルさんを使わない。特定の色を付けず、色々な人に自由に着こなして欲しいという思いがあるからだ。でも、「着用した時のイメージが湧きにくい」と言われることも少なくはないらしい。そんな時、展示会に私がいるとこうして呼ばれて即席のモデルになる。
お客さんはまじまじと私を見るので、ちょっと気恥ずかしい。自分じゃなく着ているワンピースを見ているのだとしても。
今慎さんが接客されている方は多分、初めて購入を考えているのだろう、細かくいくつも質問された。
「スタンドカラーですけど、首元はきつくないですか」
「一人一人の首回りに合わせて作られてますから、きついと思ったことはありませんよ」
「お洗濯はどうしてます? クリーニング?」
「いえ、洗える素材ですし畳んでネットに入れて洗濯機で洗っています」
「同じようなデザインのものをいくつも持っていたら飽きませんか?」
「大まかなシルエットが同じでも、後ろ開きだったり、使っているのがくるみボタンだったり、それぞれシーズンごとに違いますからいつも新鮮ですよ」
「――本当にお好きなんですね」
しみじみと感心されて、服のことを言われていると分かっていても、まるで慎さんへの気持ちが知られてしまったようで思わず赤面してしまった。
「色々ありがとう、参考になりました」
「お役に立てたなら光栄です」
私と話す前は、買うか買うまいかかなり悩んでいる様子だったその方は、思ったより気負わず普段着として着ている私を見て、買う方に気持ちの舵を切ったらしい。ワンピース以外にブラウスも購入を決め、採寸をしてから晴れやかな顔で帰られた。それを見ていたほかのお客様にも呼ばれ、それぞれにお話しすることとなった。
頃合いを見てお暇しようと思っていたけれど、お客様にひっきりなしに呼ばれたり、慎さんにお手伝いを頼まれたりして、帰るタイミングをすっかり失ってしまった。
クローズの時間として設定していた夜の八時を少し回ったところで、慎さんと一緒に最後のお客様を送り出した。――最後まで残っていたのは、実は今日が初めて。お手伝いに続いて初めて尽くしだ。
慎さんが灯りを一つひとつ落としていく。きらびやかに彩られていた服たちも、たくさんの人の手に触れられて疲れてしまったのか、ひっそりと身を休めているように見える。
お疲れさま、明日もまたがんばってね。
一着一着に小さく呼びかけ、丁寧にハンガーに掛け直し、棚にあるものを畳み直す。それを一通り終え、次は何をしようかと慎さんのいる方を振り仰ぐと。
「お疲れさま、もう座って休んで」
慎さんが私に声を掛け、紅茶を淹れてくれた。
会場の片隅にある小さなテーブルセットに向かい合って腰掛ける。ティーカップへ手を伸ばした時に触れられたらいいのに、と思ったけれど、器用な慎さんがそんなへまを犯す訳もなく、近付いた手はさりげなく回避された。
「今日は本当にありがとう。分かりやすいようにカタログでも素材やデザインについて詳しく注釈を入れているつもりだけど、やっぱり人に着てもらって実際見てもらう方が百倍説得力があるって展示会で百合野ちゃんに助けてもらう度、つくづく思い知らされる」
「でもそれは多分、私が慎さんのお洋服マニアだから分かりやすく説明できた部分もあると思います」
「確かにね」
湯気の向こうで慎さんが笑う。
ただ着用モデルがいたから分かりやすかったんじゃない。意地になってそう返したのに、どうしてそんなに優しい顔で笑ったりするの。
笑顔の余韻を残したまま、慎さんが目を伏せる。一つだけ灯された灯りが象った横顔の陰影がうつくしくて見惚れてしまった。
「――百合野ちゃんには、借りばかりどんどんたまっていくな」
「? 私、慎さんに何か貸していましたっけ」
「それはもうたくさんね」
即答されたけれど、とんと見当がつかないでいる私に、慎さんは苦笑しながら教えてくれた。
「いつもご飯を作ってくれるし、お茶の相手もしてくれてる」
「私がやりたくてそうしてるだけです」
「今日もお手伝いしてくれたでしょ」
「むしろ今まで気付かなかったのが申し訳ないです」
「服のことまで俺よりうんと上手に説明してくれて」
「マニアですから」
「――負けず嫌いだね百合野ちゃん」
「実はそうなんです」
二人して小さく笑う。
「たくさん面倒みてくれて、そんな風に人を見つめたりして。――勘違いしたくなるよ」
さっきはきれいに回避された手が、伸ばされてくる。
少しだけ、逃げるように動いてしまった私の手を、ふわりと包む。
これは、どういう意味――?
突然、大きな音を立ててドアが開いた。訪れる人は皆ひっそりと少しの音も立てないよう心掛けているかのように静かに開け閉てしていたというのに。
それを合図に、初めて私の手を包んでくれていた手は、一瞬ぎゅっと力を込めたあとあっさりと離れていってしまう。
――ああ、やっぱり。
フローリングの床を、ドアと同じく気にせず大胆に鳴らして、その人が近づいてくる。ハイヒールの足が、今日も美しい。
慎さんは、ポーズなのか本当なのか、しかめ面で彼女を迎えた。
「何しに来たんだ」
「せっかく来てやったのにそれが第一声? 相変わらずひどいわねー」
「君は俺の服なんか着ないだろ、しかももうとっくに終わってるって分かってるくせにこんな時間に来るなんて」
「雪下のくせにお高く止まってんじゃないわよ、ちょっと時間回ったくらいでネチネチ言わないで。こっちはフリーランスのあんたと違って会社勤めなんだから。うちだって展示会の準備で忙しいって言うのにわざわざ来てやったのを喜んで欲しいくらいよ」
「はいはい」
「ほら、お祝い、一応ね」
「ん、サンキュ」
ずいと手渡されたのは、慎さんが好きな、でも日常的にはなかなか飲めないグレードのシャンパン。それを無造作に渡してしまえるこの人を見て、自分の渡した花がひどく幼稚に思えてくる。
いたたまれたなくて、「お茶、淹れますね」とその場を離れようとすれば「いいよ、俺がやるから、百合野ちゃんは座っていて」と慎さんに止められ、そのまますごすごと再び腰掛けた。給湯スペースへと向かう後ろ姿――ジャケットは抜いて、シャツにベストだ――を見送り、正面に向き直る。――と。
たった今私に気づきましたとでもいいたげに、その人の大きな目が私をとらえた。会釈をすると大きくため息をつかれる。
「まだ、いたのね」
「はい、でももう帰りますから」
わざと言われていることとは別の意味で返せば「違うでしょ」と案の定正された。
「ねえ、悪いこと言わないわ、雪下から離れなさい」
「――それを決めるのは、私自身です」
頑なな返事をしても、怒るどころかピュウと口笛を吹かれた。
「強情ね、お嬢サマ」
「ええ」
初めてじゃないこの不毛なやりとりを、彼女に会うたび挑まれ続けている。
はじめは、この人――神田さんも、慎さんを好きなのだと思っていた。でも、『やめてよ私そんなにモノズキじゃないから! あいつの才能は確かに認めてるけど、それとこれとは別!!』とものすごい勢いで否定されたので、どうやら違うらしい、けど。その言葉を私は信じきってはいない。だって。
同じ会社にいて、慎さんが退社するまでいいパートナーだったと、慎さんも懐かしそうに言っていた。
結婚して、すてきな旦那様もお子さんもいて。大手のアパレル会社でチーフ職をつとめられていて。
責任ある忙しいお仕事だと聞いている。なのに、展示会があればこうして会期中に一度はやってきて『原価率が高すぎる!』だの『DMに凝りすぎ! 支出を抑えろ!』だの毒づきにやってくる神田さん。
彼女を見ると、私の心の中はいやな気持ちでいっぱいになる。ううん、慎さんが彼女について話すだけでも。
慎さんと同い年で、自信に満ちていて、美貌と才能を兼ね備えている神田さん。――私はあんな高いヒールなんて、きっと一生履きこなせない。
コンプレックスを刺激されるだけでなく、嫉妬して、そのたびに自分の幼稚な感情に気付かされる。その上、会うたびに『近づくな』と言われてしまえば、苦手を通り越してすっかり嫌いな人だ。
私はただ、慎さんを好きでいたいだけなのに。それ以上なんて、いくらこちらが渇望していても望めやしないのだから、放っておいて欲しいのに。
「――帰ります」
こんな私を、彼に見られたくない。
だから、慎さんがお茶を淹れ終えて戻る前に立ち去ろうと思っていた。でも。
「ちょっと雪下ー、百合野ちゃんが帰るって。あんた送ってきなさいよー!」と神田さんが奥に向かって声を掛けると、「わかってるよ!」と少々ムキになっていると分かる声が返ってきた。
――どうして。
こんな自分を見られたくないけど、でも、一秒でも長く一緒にいられるのは嬉しい。
こちらが一方的に嫌っているこの人が私の気持ちを分かっていて、そうなるように計らってくれたのは、なんだか複雑な気持ちだ。
思わず神田さんを見れば、欧米人のように両手の平を上に向けて肩をすくめる。そんなジェスチャーがまったく嫌味にならない。
「ま、私がこんなお節介を焼かないでも、戻ってきたときにあなたがいなかったらあいつは血相変えて飛び出していくと思うけどね、『なんで一人で帰らせたんだよ』とかネチネチネチネチ言われるのはヤだから先手打たせてもらっちゃった」
「――ありがとうございます」
「あは、棒読みだー」
何が面白いのか、神田さんは私を見て笑った。そのあと、慎さんともちょっと違う、優しい顔で私を見る。
「あなたは私を嫌いだろうけど、私あなたのこと好きよ」
「ありがとうございます」
嫌いと言うことを否定せず再びお礼を口にすると、その人は「両思いへの道のりは長い」と少し寂しそうに笑った。
二人でそこを出るのだと思っていたら、「もうここ閉めるから、神田も帰って」と慎さんは神田さんをも追い立てた。
それじゃあ、三人で一緒に歩くのかな。二人きりではなくなったことを少し残念でいると、紅茶を飲み終えた神田さんは思いきり顰め面をして、「バァーッカ、あんたってほんっと残念な上に気ぃ・利か・ない!!」と毒づき、「こっちはその辺でタクシー拾うから、じゃーね」と、私と慎さんを置いて先にドアの向こうへと消えて行った。勇ましくも軽やかなハイヒールの音がリズミカルにだんだん遠ざかる。
――本当に、どうしてなんだろう。
慎さんに近付かないように牽制するくせに、こうして二人きりの時間を作ってくれたりする神田さんの気持ちが、私には分からない。
慎さんと神田さんの年齢になれば、分かるのだろうか。その頃にはまた二人に、一五年ほど先を行かれるけれど。
鍵閉めのためにしゃがんでいた慎さんと目が合う。
「――俺たちも、帰ろうか」
「――はい」
慎さんが「おんぼろでよければ車で家まで送るよ」と申し出てくれたけれど、まだ展示会は続くのだしあまり慎さんを疲れさせてはいけないからと泣く泣くお断りして、最寄り駅まで歩きで送ってもらった。
「百合野ちゃんも電車に乗るんだね」なんてびっくりしてる慎さんがおかしい。
日が落ちると気温がぐんと下がる。でも、寒い中にも春の気配がするから、この季節は好き。――自分と、慎さんの誕生月だから、余計に。
ワンピースとコートとストール。今日も、慎さんに作ってもらったものを身に纏った。本当は慎さんが作る物すべてが欲しいけれど、残念ながらそれは今の自分には敵わない。年に数点新調するのが関の山だ。
小さい頃のような、爆買いとも言える買い方をしなくなった我が家について、慎さんは特に疑問に思ってはいないようだ。テレビ番組やニュースには興味がないらしく、皆が知っている話題を慎さんだけが知らないことも多い。助かるけれど、私に無関心だと突きつけられているようで悲しくもある。
明日は講義のあとにバイトがあるから、『展示会には足を運べない』とあらかじめ伝えてある。残念だけど、仕方がないことだ。
お嬢様のはずの私がアルバイトをしていると知ったら、慎さんはどう思うかな。――何とも思わなかったりして。
一人でそんな風に、あれこれ考えては勝手に落ち込んだりする自分がなんだかおかしい。忍び笑いをしていたら、ゆったりとした足取りで隣を歩く慎さんに気付かれ「どうしたの」なんて聞かれてしまった。
「なんでもないです。あ、信号赤ですし、ここまでで」
「ちゃんと向こう側まで送るよ」
駅の手前の信号で並んで青になるのを待つ。待ち時間の表示が一つ一つ減っていくのが切ない。
青になってしまった。――あっという間に、お別れ。
「送っていただいてありがとうございました。慎さんもお気をつけて」
わがままな心を押し込めながらお礼を口にすると、ずっと黙り込んでいた慎さんが「出る前、神田と、何話したの」と自分の靴先を見ながら言う。
「別に、挨拶程度ですけど」
いつも『まだいたの』っていう彼女のあれは、もう挨拶扱いでいいだろう。告げ口するのも意地が悪い気がして、ずっと内緒にしているそれを今日も隠す。
「あいつには話して、俺には内緒?」
「慎さ――」
慎さんが、どこか寂しい顔になる。
思わず手を伸ばすけれど、「――ごめん、うそ。今のは忘れて。じゃあ、気をつけて帰るんだよ」と踵を返し、点滅し始めた歩行者信号を小走りで駆け抜けて行ってしまった。その姿が見えなくなっても、私はずっと立ち尽くしていた。
慎さん、慎さん。
私のこと、どう思っていますか。
聞いてしまいたい。けれど、それを聞いたら終わりだとわかっている滅びの呪文を口にする勇気は、今の自分にはない。
16/02/22 誤字修正しました。