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慎さんが、首から下げていたメジャーを、私の体のあちこちに当てていく。
首。肩。腕、ウエスト、股下。そこにいやらしさは一切なくて、ただ真剣に測っている。それが誇らしくて、少しだけ悲しい。
私の好きな人は、服を作ることを生業としている、一五才も年上の男性。
ひた、と肌に当てられるメジャーは少し冷たくて、当てられるたびにびくりとしてしまう。――ううん、冷たいだけならこんな風にはならない。
好きな人の手が、自分に触れるから。
針仕事のために神様が拵えた指はほっそりと骨っぽく、男の人だと分かるものなのにとても綺麗だ。その短く摘まれた爪の先が、今、肌に触れている。そう思うだけで、採寸には慣れているはずなのに、私はこんなにも過剰な反応をしてしまう。
でも、慎さんは気付いていないのか、――気付いていてそ知らぬふりをしている、とは思いたくない――いつだって見当違いに優しい。
「ごめん、冷たいよね、すぐ終わらせるから」と採寸の手を早めようとしたり、「もっと部屋を暖めておくんだったな」とエアコンの温度を高くしようとしたり。
「大丈夫です」
「でも」
「大丈夫」
私が強く重ねて、ようやく採寸はいつも通りに進められる。
九才の時から、ここで年に数点、服を作ってもらっている。服はオーダーもしくはセミオーダーで、半年に一度は採寸し直して。でももうすぐ二〇才になる。これ以上背は伸びなさそうだし、身体のあちらこちらの成長も一通り済んだようだし、おそらくそろそろこまめな採寸は必要としなくなるだろう。
ずっと、学校の先生より、父親より、慎さんが、私の成長を詳しく知る男の人だった。
背が高くなったり胸が大きくなったりすると、そのたび慎さんに相応しい女性に近付けたようで嬉しかった。でも慎さんが私をどう思ってるかなんて、火を見るよりも明らかだ。良くて、せいぜい妹分といったところだろう。
一番よくないのは、『親の友人兼顧客の社長令嬢で、苦労知らずのお嬢さん』、か。慎さんはとても穏やかで真面目な人だから、そんな風には思っていないと信じているけれど。
慎さんが私の成長を素直に喜んでくれたのは、多分私が中学校に上がるまでだった。多感な時期の女の子を刺激しないように配慮してくれたせいもあるし、元々年下の女の子に馴れ馴れしくする人でもないし、性的な発言をして喜ぶ人でもない(そもそも彼は、仕事で私に触れるのだし)。だから、もう採寸の時に私の体に関するコメントは聞かされない。黙々と測り、採寸シートに書き込まれるだけのただの数字たち。でも。
意識して欲しいなどと望むのは、いけないことだろうか。
初めてそこに連れて行かれたのは、ピアノの発表会で着用するドレスを作ってもらうためだった。くるくると巻かれて壁に立て掛けられていた色とりどりの布や、顔と手足のないマネキン(その頃の私は、トルソーなど知らなかったので)などたくさんの物が並んでいるのにふしぎと雑多な感じがしない慎さんのアトリエで、父はにこにこしながら『百合野の好きなものを好きなだけ作ってもらいなさい』と言った。私を甘やかすというよりは、服飾メーカーから独立し、仕立て屋さんを始めたばかりの友人の息子さんへのご祝儀的な意味合いが強かったように思う。実際に注文したのはそれだけではなく、発表会の日、出番までの間に着るワンピースと、ワンピースの上に羽織るボレロ、それから普段使いのコートやブラウス、スカートも数点。――欲張りでわがままだと思われてもいい。慎さんの作る服は今まで私が着ていたどの服とも違って、どれも素敵だったのだ。
今考えれば、子供服のフルオーダーなどとんでもなく贅沢なことだったと分かる。通常、発表会で着たドレスは再び同じ会で着ることはない。シフォン生地を多用したワンピースも、ふっくらとパニエを使っていて普段使い出来るデザインではないので出番は限られており、それも物理的に着られなくなるまでときたら本当に数えるほどしか身につけられなかった。
そのかわり、その特別の日のための服たちは部屋でよくこっそり体にあててみたし、着られなくなってからもうっとりと眺めた。今でもまだ、慎さんに作ってもらった服は全て手元に残してある。服が小さくなった私が、捨てるのも誰かに譲るのも嫌だと主張したからだ。普段、あまり自己主張をしない、どちらかというと引っ込み思案の私がきっぱりとそう言い切ったものだから、両親も『あの百合野がそこまで言うのなら』と聞き入れてくれた。
今まで、両親が連れて行ってくれたどこよりも殺風景で古めかしい雑居ビルの一室に、慎さんのアトリエはあった。狭くて薄暗く、大げさな音を立てる割に進みが遅いエレベーターに乗った時には一体どこへ行くんだろうと九才の私は不安でいっぱいだったけど。
「いらっしゃいませ、大友様。――初めまして、小さなお姫様」
両親とあいさつを交わした後、戸口でもじもじしていた私の前でしゃがんで目線を合わせ、微笑んでくれたその人に。
私は、恋をしたのだった。
あれから、何度季節は廻ったのだろう。――なんて、そんなことすぐにわかる。
いつだって、私は慎さんのことを忘れられずにいるから。
いつまでたっても決して追いつくことのない、年齢の追いかけっこ。
一五もある年の差や慎さんが私をどう見ているかを分かり過ぎる程に分かっていても、いつかは相手にしてもらえるかもしれないだなんて浅はか過ぎる夢も捨てきれないまま、私は慎さんのアトリエへ足を運ぶ。
地下鉄に乗って、いくつか乗り換えて、駅から歩く。一人で行くのも慣れたものだ。
慎さんのアトリエは彼の作る服の良さが知られるにつれて、だんだんに広く、素敵な場所へと移って行った。でも古い建物好きは相変わらずで、今は文化財に指定されている瀟洒な外観のビルにアトリエを構えている。
年に数回開催される展示会でのセミオーダーの受注および製作と、オーダーメイドの制作。
大きな宣伝は打たず、製作に関わる人手も最小限に抑えている。その上じわじわとリピーターが増えているため、慎さんの作る服は今や入手するのに数か月かかってしまう程の人気ぶりだ。
父はお酒に酔うとたまに『慎君はもっと商売っ気を出せばいいのに』と残念そうな口ぶりで語っては、母に窘められていた。お節介にも以前に何度かそう勧めたこともあるらしいけれど、都度『自分が食べていければ、それでいいので』とあっさり断られたそうだ。――慎さんらしい。
生地も糸もデザインも縫製も、うんとこだわるくせに、自分には頓着しない人。
放っておくと飲食さえ疎かにしがちなので、倒れてしまわぬようにとお題目を掲げ、本人にも許可を得て、私は週に二、三回お弁当を拵えてアトリエに通う。
彼からもらった鍵――おうちではなくアトリエの――は、けして失くしてしまわぬよう、ボールチェーンに通していつも肌身離さず身につけている。知らない人が見たら、そのシンプルさと古びた具合から、アンティークの鍵だと思うだろう。
ずっと、慎さんの傍にいた鍵。本当は、防犯のことを考えると、もっと新しいきちんとした鍵に付け替えて欲しいと思っているけれど。
これをもらう前に、慎さんがたまたま留守にしていて二時間ばかりドアの外で待つ羽目になったことがある。ひどく寒い日で、都心でも雪が降るかもしれないとテレビの天気予報でも繰り返しアナウンスしていた。
そんな日に連絡もなしで来た上、彼が帰ってくるまで粘っていた私が悪いというのに、慎さんは自分が待ちぼうけを喰らった人みたいに青い顔をして、「寒かったろう。今、熱い紅茶を淹れるから」と私を座らせ、肩からも膝からも毛布を掛け、すっかり熱の奪われた両手を擦ってくれた。そして、「もう二度と百合野ちゃんが困ることのないように」と言って、アトリエの鍵を渡してくれた。
「だめです、こんな大事なもの、受け取れません」
「これを受け取ってくれないというなら、もうここに通ってはもらえないよ」
二人して困った顔をして、鍵は互いの手を行ったり来たり。
そうこうしているうちに、やかんの湯が沸いた。ピーと甲高く沸騰を告げた音に気を取られていると、「とにかく、これはもう君のものだから、返したらいけないよ」と一方的に告げられ、両手で私の手を包むようにしてとうとう渡された。
そんな風にして、その鍵は私のものになった。――私がもらったのがマスターキーだと後から知って、随分青くなったものだ。
そうやって無造作に『特別な証』と勘違いしたくなるようなものをくれるくせ、慎さんは私の個人的な連絡先は一切聞こうとしない。自分の連絡先も渡さない。だから未だに電話を掛ける先はアトリエで、掛かってくるのも自宅だ。
アトリエに辿り着くと、こんこん、と微かなノックで合図する。鍵を渡されたからと言って、来たことも知らせずにがちゃりと開けることは憚られた。かといって、けたたましいベルを鳴らして作業をしている慎さんの邪魔になるのも嫌だったので、控えめなノックに落ち着いた。
小さいその音を慎さんが聞き逃すことはなく、今日も程なく『はい』とお返事が聞こえてきた。扉越しの声のトーンで彼の様子が分かる程度には、ここに通い詰めて長い。
ちょっと声が低い時は、イメージが思うようにまとまらなくてふきげん。そんな時にはまずお湯を沸かして、頃合いを見計らって『おやつにしませんか』と声を掛ける。
ちょっと返事に時間がかかる時は、もう少しシビアに煮詰まっている状況。ミシンに向かっているか、布を裁っているかしていなければ、『慎さん、お散歩をしましょう』と火の元を確認してから無理に外へ引っ張って行き、気分転換をしてもらう。
フラットな声の時は、何ごともなく順調という意味だ。
お邪魔するとまずおやつを用意し、持参してきたお弁当のタッパーを冷蔵庫に入れて、私は声を掛けられるまで大人しく本を読んでいる。ぺらりと頁をめくる音しかしないなら、迷惑にはならないだろうから。――実際には慎さんを見ていることも多いのだけれど。
デザイン帳に向かう、厳しい眼差し。サンプルの布に触れる、優しい手つき。幾度も見た光景なのだけれど、見飽きることはない。でもそれを気取られぬよう、彼の目線がこちらに向かう気配を感じればいつだって私は『ずっと本を読んでいましたよ』というふりをした。向けられても困る一方的な思いに慎さんが気付いてしまったら、きっともうここには通えなくなるから。
「百合野ちゃん、お待たせ。一緒におやつにしよう」
慎さんが作業の手を止めてそう声を掛けてくれたら、私が動き出す時間だ。まるで、絵画のモデルさんみたい。
別に、待っている間アトリエの中を動き回ったところで今さら慎さんに文句を言われやしないけれど、触られたくないものもあるだろうと思えば勝手知ったる場所であったとしても、勝手に振る舞うことは出来なかった。
「じゃ、お茶の準備をしますね」
「うん」
髪を括る。シュシュは、台所に立つ時とおやつを食べる時に髪を結ぶ私に、慎さんが端切れで作ってくれたもの。シュシュだけではなく、コサージュやミニバッグも、慎さんは『いつも俺の面倒を見てくれるから』と作業の間に作ってはしょっちゅうプレゼントしてくれる。それを鍵の時のように拒否出来たためしはない。私のために作ってくれた心づくしを、嘘でもいりませんなどとは言えなかったから。
『ありがとうございます、大事に使います』と素直に受け取ると、慎さんは『うん』と嬉しそうに笑ってくれた。
どうしてそんなに優しくしてくれるんですか。
私が付け上がったら、どうするんですか。
他のお客さんにも、こんな風にノベルティじゃないものを差し上げたりするんですか。
聞けない質問ばかりが、心の中に溜まっていく。
やかんが勢いよく湯気を噴いたらティーポットに注いで、それをカップ二つに入れ温める。
アッサムティーの茶葉の入ったボトルに手を伸ばす。ティースプーンで慎さんの分、私の分、ポットの分の三杯を入れて待つ。その間ポットを包むのは、慎さんからもらった小さな余り布を集めて接いで作ったティーコゼーだ。不格好だけど、鳥の柄やドットなどの模様をランダムにちりばめてみたら慎さんが褒めてくれた、自慢の品でもある。
充分に茶葉を蒸らした頃合いでティーコゼーを取り、カップに紅茶を注ぐ。
「おいしい」と慎さんが目を細める。その寛いだ様子を見られれば、私の心もポットの中でうまくジャンピング出来た茶葉のように躍る。
一緒にお茶を飲んで、「次の展示会は何をテーマにしているんですか?」なんて話をして、飲み終えればお片付けをして、前回のお弁当のタッパーをお礼と共に受け取って夜が来る前にそこを出る。いくら慎さんが優しくしてくれたとしても長居は禁物だ。調子に乗っちゃいけないと、強く自分を戒める。
採寸以外でアトリエへ訪れるのを咎められたことはない。展示会の直前はいても邪魔になるだけだと分かっているのでそもそも足を運ばないようにもしている。
迷惑にならないように、彼の邪魔をしないように。
もうここに来ないで、と言われることが、今の私には何よりおそろしい。だから、「もう少しゆっくりしておいでよ」と残念そうに口にされて後ろ髪を思いきり引かれても、「また来ますね」って優等生のお返事をして、ドアを閉める。
だって、関係を断たれるのなんてきっと簡単だ。
私はただの『顧客のお嬢さん』で、彼に恋人が出来たら、その彼女が私を目障りだと思えば、彼の選択はきっとひとつ。
想像するだけで、心が芯まで冷える。
それはいつ訪れてもおかしくない未来。私が慎さんに好かれる、なんて都合のいい未来よりも、うんとずっとリアルな。
私じゃ相応しくないって、誰より自分が分かっているのに、好きでいるのをやめることも、まだ出来ないでいる。うつむくと、胸元の鍵が『元気を出しなよ』と言っているかのようにしゃらりと音を立てた。
「――さ、帰ろう」
自分を奮い立たせるように明るく口にして、夕暮れの街を急いだ。