潮風の発つ朝に
「準備はできたの?」
「うん、後ダンボール一箱トラックに詰めるだけだし。最低限必要なものはリュックにまとめたから大丈夫だよ」
僕は今日この町を出る。生まれ育ったこの町を出て、東京の大学へ行くのだ。
「そっか、寂しくなるわね」
「まぁちょくちょく戻ってくるとは思うし、それに今の時代テレビ電話だってあるしさ」
「そうなんだけど……ね。それでもやっぱり寂しいものは寂しいわよ」
そう言って少し困ったように笑う母にもしばらく会えなくなるのだと思うと、どうだろう、せいせいするという気持ちの中でほんの少しくらいは寂しいと思わないでもないかもしれない。
「あら、そろそろ待ち合わせの時間じゃない。遅れたら迷惑でしょ? 早く行きなさい」
十二時——つまり二十分後に小学生からの付き合いであるシゲハルとフミコと駅で待ち合わせをしている。最後に少しお茶でもということらしい。
「そうそう、ハンカチとちり紙持った?」
そんな少し時代遅れなテンプレに「いつの時代のおかん!?」とツッコミを入れると、
「じゃあ、本当にそろそろ行くわ」
「いってらっしゃい」
そう言う母の顔を、僕は見ることが出来なかった。
駅に着いてみると、もう既に二人は到着していた。二人とも夏らしい涼やかな装いで、足にはお揃いのビーチサンダル。そのお揃いのビーチサンダルが二人の関係を唯一雄弁に語っていた。
「おっ、ようやく来たか。てっきりお前のことだから最後まで遅刻かと思ってたぜ」
そう気さくに語りかけるシゲハルと、その一歩後ろではにかんだような笑みを浮かべるフミコ。本当にお似合いだと、今の僕は何のわだかまりもなく、心の底からそう思えた。
「流石に最後くらいはきっかり来るさ」
少しだけ全力で走ったのは心の中だけに留めておこう。
内心は別として表面上は飄々と言ってのけた僕にシゲハルは「きっかり過ぎるくらいきっかりだな、確かに」と嘆息するように呟いて、しかし次の瞬間にはその表情を屈託のない笑みに変えて
「じゃ、時間もそんなあるってわけじゃあないし、そろそろ行きますかね」
海の近くのカフェテリア——そう形容するには少しばかり雑然とした、むしろ海の家とでも呼べそうな、そんなカフェ。店名は「はまかぜ」、それこそが僕たち三人の思い出の場所であり青春の依り代だった。
運ばれてきた少し甘めのコーヒーを喉に流し込むと、何故だか懐かしさを覚える。別段飲んだのが久しぶりというわけでもないのに。そうしてほのかに口内に残るほろ苦い香りを舌で転がし、鼻から吐く。そうした三年間続けてきた儀式を済ませてようやく視線を前に遣る——と。
「本当に、行っちゃうんだね」
フミコが至極残念そうな顔をして口を開く。フミコは思ったことがすぐ顔に出るタイプだということを、十二年間の腐れ縁と、恋人として過ごした三ヶ月は知っている。だからこれは一友人として本当に残念がって、寂しがってくれているのだろう。そう、一友人として。
「うん、東京で勉強してみたいんだ。いつまでたってもこのままじゃ、僕はダメになるだろうから」
きっとその言葉の含む棘を咀嚼したのだろう。フミコの感情豊かな顔が左右非対称に歪む。
昔はそんなフミコが面白くてからかったり、笑顔にしたくて頑張ったりしたんだっけ。でも今やその役目は僕じゃない。
「そうか、お前がそう決意したんなら、俺は応援するさ」
シゲハルは何の誇張も、どころか装飾もなくそう言ったのだろう。でも今の僕にはその明るさが少しばかり——いや本音を言えばかなり痛かった。
そんな一幕はあったけれど、その後はただただ旧知の友との会話である。最近の調子はどうだ、だとか。これからどうしていくつもりだ、だとか。そんな取り留めのないことを僕たちは二杯目のコーヒーが冷めるまで話していた。
そんなこんなでふと気がつけば二時半。二時四十五分の電車に乗ることを考えるならばそろそろ出なくてはなるまい。僕を含めた三人はめいめいに残っていたコーヒーを飲み干し、店の外へ。
そして店の中での盛り上がりが嘘のように、誰も一言も発することなく駅への道を歩いて行く。
五分ほど歩いただろうか、とうとう、というかあっという間に駅に到着してしまった。なんだか拍子抜けするほどあっさりと訪れた別れの時だ。
「久々に話せて楽しかったよ」
そう言って手を差し出すと、二人もにかっと似通った笑みを浮かべて握手に応じてくれた。
「こちらこそ。またいつでも遊びに来いよ」
「頑張って……いや、頑張りすぎないでね」
きっともうこれで二人に会うことはないのだと、ぼんやりと思う。例えば一年後に実家に帰ってくるとなれば二人は駆けつけてくれるのだろう。しかしそこで会う彼は、彼女はもう「あの時の二人」ではないのだし、僕も「あの時の僕」ではないのだ。だから、甘酸っぱくほろ苦い青春を共有した僕らはもう永遠に会うことはないのだろう。
「んじゃ、行くわ」
そう宣言して二人に背を向ける。
鼻腔を優しくくすぐったキツイ潮の香りに一瞬だけ目を瞑って、僕は右足を踏み出した。