第一幕『教皇と勇者』
蝋燭の灯火の明かりだけが昏い広間を照らしていた。空気は酷く澱んで埃っぽく、一呼吸するだけで痰が絡みそうだ。
壁際を埋め尽くすほど燭台に煌めく火の影響なのか、空間は気持ち悪いほど生温い。
陽炎のような揺らめきが二つの影法師を生み出している。
影の持ち主は、黒い外套を纏って黒の厚底ブーツ履き、更にその上から体全体を覆うような黒いマントを羽織った青年。
黒で統一された青年は髪まで黒く、右手には重厚感溢れ、黒い光沢のある長剣を握っている。
そして、青年の前に苦しげに跪いているのは肘から先を切断され、絶えず血の滴る左腕を抑える壮年の男。
純白を基調に金の装飾品で飾られた祭服を纏う痩躯の老人は、年輪の様な皺を苦渋に歪め額からは汗を止めどなく流していた。
「何か懺悔があるなら聴くけど?」
黒髪の青年――勇者と呼ばれる彼は無機質な笑みを浮かべながら言った。ただ、青年の黒い瞳は氷の様に冷たい。
氷結の微笑みを受ける老人は大量の汗を流し、震えながらそれでも口端を釣り上げた。
「懺悔だと?この私が何を懺悔すればいいのかね?神の第一の僕たる私が悔いることなど有るはずがない!」
狂信的な、あるいは盲目的な言葉に勇者は固まった笑みのまま、老人の首筋に黒剣を当てた。
「セナド村で行われた人体実験。村人を使うよう指示したのはアンタなんだろ?ちょっと(・・・・)尋問したらクルチ枢機卿が教えてくれたよ」
「……知らんな。縦しんば私が指示したとしても何か問題が有るのか?セナド村の村民たちは敬虔なファームル教徒だ。教義の為なら喜んで身を捧げるだろう」
「“我の始祖神に悠久の栄光を”か……お前やっぱり勘違いしてるだろ。お前が求めたのは教義でも何でもない。ただの薄汚い権力欲に踊らされた老人の哀れな妄執だ」
「ハハハハハ!!流石人類最強と呼ばれる勇者は言うことが違うとみえる。言葉の端々に据傲が見受けられるわ」
「……据傲ね。確かに俺の言っていることは傲慢なこと何だろうけどさ。俺は勇者だから、法で裁けない悪は俺がやらなきゃだろ?」
淡々と話す勇者を見ても老人――世界最大宗派の領袖、教皇は口元を歪めるだけだ。そこには嘲りが、侮蔑が、そして憐憫が伺えた。
「愚かだな……お前が進む道に光は無い。あるのは底なしの闇と昏い絶望だけだ。一度踏み入れたら帰ることなど決して出来ないのだぞ」
「帰れなくても、戻れなくても、俺は立ち止まらない。何れ俺にも天罰が落ちるときがきっとくるだろうけどな……その瞬間まで、この手を血で穢す覚悟は疾うに出来ている」
勇者の声には一滴の悲壮も込められていなかった。あるのは最後まで貫き通すという、堅き覚悟のみだ。
勇者の存在理由、それは国を守るためでも教会を守るためでもない。弱きを救い、悪を滅ぼす。全ては力なき民衆のため。
無知蒙昧な彼らを護るため、勇者は自らを生け贄に捧げ世界遍く圧倒するだけの力を得た。
勇者には他の者を寄せ付けない強い精神力と究極の自己犠牲が問われる。
当代の勇者たちにこの二つ条項があるかどうか甚だ疑問だが、今、世界の権力者に刃を向けけている《黒の勇者》と呼ばれる青年には“正義”は確かにあった。
それが万人に支持されないことは分かっている。
だが勇者となった者達は皆、揺らぐことのない自分だけの信条を持っている。
どんなに蔑まれようとも、罵られようとも、勇者の指針ともいえる信条だけは曲げる事はない。
例えそれが、“絶対正義”の象徴たる教会、ひいては信徒たち全員を敵に回してもだ。
思えば此処に至る過程で様々な事があった。体が結晶化し始めた少女を保護したときもそうだ。瀕死の少女を従者に任せ、彼女の村に救援に向かった時には既に手遅れであった。
数多あるくらい過去の中、つい最近その闇に刻まれた出来事を勇者は思い出した。