紅い火
次に生駒が隼人と会ったのは、宴の翌日の事だった。宴の席で、少将忠成殿が、大納言殿にお褒めの言葉を賜り、禄と呼ばれる褒美をいただいたお礼のお文を届けるとともに、姫君へのお文も携えてきて、
「昨日、姫君へのお文をお願いした女房をお願いします」と言って生駒を呼び出したのだ。
近くにいた他の侍女が、
「まあ、生駒さんはもう、少将殿の従者とお知り合いなの?」
とからかう。生駒が童を使わずに、直接手紙を受け取りに行こうとするので、早くも気のある相手をあちらに見つけたのだろうと勘ぐっているのだ。
「昨日、姫さまへのお文を頼まれたので。その時「今度お話を」と約束していたの。ちょっと受取って参りますわ」
生駒は否定をせずに、そう言って席を立った。髪が豊かで目元が美しい生駒は、よくこの邸を訪れるお客様の従者たちから声をかけられる。従者たちがお使い事を頼まれて、それを邸の中の人に言づけてもらうのに、自分が気に入って目をつけた女房や童を呼びだすのだが、どうせなら皆美しい人に頼んで親しくなりたいと思うものだから、美人の生駒は良く声をかけられるのだ。
でも大半は女童に取り次ぎの言葉を言わせたり、文を持たせたりさせるのだが、相手によっては生駒自身が直接会いに行く。それは、そういう仲になる意思表示があると言っているようなものだった。
けれど実は、生駒は大納言殿に「さぐり」が必要だと言われた邸に勤めている従者の中から、それなりに噂好きで、生駒に心を許しそうな相手を選んで、色々な噂話を聞きだしているのだった。もちろんまれに男女の付き合いになることもあるが、正直、生駒は本気になった事は一度もなかったので、すぐに途切れてしまう。
それをやっかむ女房も中にはいるが、なにしろ生駒はこの邸の御一家のお気に入りなので、直接あれこれ言う人などはいなかった。うかつなことを言って「あの人はひがみっぽい」と噂を立てられる方が、辛いことになるからだ。それほど生駒は邸の人々に信頼されている。稀に妬む人がいても姫の乳母が、
「今が盛りの時ですものね。節度がなくて困るというのならともかく、お務めはこなしているのだし。男君が声をかけるのを止める訳にもいかないしね」
と、多少の事は仕方がないと認めてくれているのだ。何よりそういう魅力的な侍女がいると噂されるのは、その邸にとっても華やかな自慢の種にもなるのだから。
そんな訳で生駒が隼人にすぐ会いに行っても、
「今度の人は、浮いたお話の御相手になれるのかしら?」
などと噂話にはなっても、誰も特別な事と思う人などいなかった。
生駒と隼人はその場は姫への文を受け取り、お返事を渡しただけで、あらためて話をしたのは夜になってから生駒の曹司に隼人を入れた時だった。込み入った話をするにはそれしか良い方法はなかったのだ。こんな状況なので、間に几帳をはさんだりもしなかった。
「驚きました。これほどの邸にあなたがいるとは。いや、詳しい事を詮索する気はないのですが、もっと普通の邸に召し使われている物と思っていたので」
やはり隼人も生駒が殿上人の邸で侍女をしているとは思ってもみなかったようだ。
「それは私もです。私自身、これほどの邸に来るとは思いませんでしたし、姫付きの女房になるとは思っていませんでした」
「それではあなたは、あれからずっとこの邸に?」
「ええ、そうです。あの幼い日からずっとです」
生駒は暗い瞳で答えた。二人にしばらく間が空いてしまう。隼人もあの夜の事を思い出しているのだろう。
「隼人、あなたはずっと少将殿の所に? 無理に答えなくてもよいのですけど」
「いや、私は別の邸にいました。そこに客として見えた右大臣殿の家来に弓の腕を気に入られて、その方の養子になりました。少将殿には私が幼い時から弓をお教えしました。今ではこうして少将殿の従者となり、舎人も勤めています」
舎人と言うのは位の低い下級武官の事。内裏での警備などが主な仕事になる。それでも行事ごとや祭りの時には目に付くところで高貴な方々の警護も行うので、相応に信用があり、見苦しくもない容姿の者でなければなる事が出来ない。おそらくは右大臣の家来の養子と言う事で舎人の職を与えられたのだろう。少将の身近に仕えているのも、養父の取り計らいによるものだと思われた。生駒はぐっと声をひそめて尋ねる。
「危ない橋を渡って手に入れた子を、良くその邸の人は手放したこと」
すると隼人もやはり声をひそめて、
「私はあの時、本当に『ついで』だったんですよ。あなたの命ごいがなければ、とっくに命がなかった。最初の邸でも私は二束三文でたたき売られたようです。ですからその邸での扱いも知れています。あまり、思い出したくはありません」
そう言って皮肉な笑顔を見せた。少し、歯を食いしばるような音も聞こえた。辛い経験をしたようだ。
「ごめんなさい。聞かなくてもいい事を聞いて」
隼人の方が辛い思いを味わっていた。少なくとも子供の頃は。生駒はいたたまれない気持ちになる。
「いや、違うんです。こうして会ってもらったのは、あなたに礼を言いたかったからなんです。今、私は人並みになる事も出来ましたが、その前には『自分が口さえ割らなければ、消えた方が楽だ』とばかり考えがちでした。けれどそのたびに幼かったあなたが『生きて』と言ってくれた事を思い出し、その心に応えたいと思い直したものです。今、私の命があるのはあなたが命懸けで私を救い、その後々までも私を救い続ける言葉をくれたおかげです。そのお礼を言うために、私はここに来たのです」
「幼心に、何気なく言ったことですのに」生駒はそう言ったが、
「あの状況で『何気なく』などとは言えないでしょう。良く、私を助け、別れ際にあんな言葉を残して下さいました」
「お役に立てて、良かったわ。でも、私達がこうして再会したことが、あの男達に知られたりはしないかしら?」
「あれから十五年もたっているんです。大丈夫でしょう。今も人買いの噂は絶える事がない。次々売られた子供の事を、十年以上も憶えてなどおりますまい。むしろ、我々が何を言っても無駄なくらいでしょう」
隼人がため息交じりに言った。やはり彼は噂に敏感なようだ。そして彼も生駒がそういう事に耳慣れていると思っているのが分かる。お互いに普通には生きてこれなかったことを、漠然と感じ取っているのだ。
「いやな記憶がついて回る私達です。会わずに済んだ方が幸せだったかもしれませんが、あなたは姫付きの女房だ。私もこれからは少将殿について、この邸を訪ねない訳にはいきません。あまり見たくもない顔でしょうが、知らないふりも不自然でしょう。変に人に勘ぐられるのも厄介だ。御挨拶程度の御付き合いをしていただけると助かります」
「それは私も同じことですわ。あなたの嫌な記憶を呼ぶ女でしかないかもしれませんが」
「それは違う」生駒の言葉を、驚くほど隼人は強く否定した。
「あなたは美しくなられました。けれど、あの幼く幸せだった最後の日の、あの面影を宿しています。秋の庭、紅葉の中にたたずむ可愛らしい龍田姫……」
「その話はおよしください!」今度は生駒が隼人の言葉を遮る番だった。
「私は、龍田姫が嫌いです。秋の紅葉も嫌い。特にあの、赤い色が」
「姫……」
「私は姫ではありません。ただの女房。赤い色はあの夜を思い出します。血に染まった衣、紅蓮の炎」
隼人は苦しげに「ああ」とうめくと、
「申し訳なかった。お礼を言いに来たというのに。あなたを苦しめることを言った」
と言って頭を下げた。
「いいえ。あなたのせいではありません。ただ、私の中には消す事の出来ない、紅い火が宿っているのです。今もそれが燃え盛っていて、決して消す事が出来ずにいるのです」
隼人は黙り込んでしまった。ただ、悲しみに満ちた目で生駒を見つめている。
「おしゃべりが過ぎたようですわ。今夜の事はお忘れ下さいまし。あなたの感謝のお気持ちは確かに受け取らせていただきました。私も感謝しています。あなたがこの世のどこかで生きていると思えたから、私も口をつぐみ続けてこれました。私が生き残る事が出来たのも、あなたがいたからです。こちらこそお礼を言いたいわ」
「いえ。それはお互い様です」隼人はそう言って首を振るが、
「今夜はもう、お帰り下さいませ。そして、このお話はこれっきりにしましょう。私はこの邸の姫君に仕える、ただの女房です」そう言って生駒は隼人から顔をそむけた。
「そうですね。私もただの従者です。でも、最後に一つお聞かせ下さい。あなたは今、お幸せですか?」
「幸せですわ。優しい姫君にお仕え出来て」
「そうですか。私もですよ。今の主人に出会えてよかった。これもあなたに命を助けられたおかげです。本当に感謝しているんです。嫌な事を思い出させて申し訳ありませんでした」
そう言いながら隼人は立ち上がる。
「いえ……」
「では、失礼します。また、少将殿の御使いの時に」
そう言って隼人は静かに生駒の曹司を出て行った。
本人同士が会うことを許されない交際でしたので、「文使い」の役目は重要でした。現実の恋の成就には、文使い同士の手腕が物を言いそうです。
ですから文使いは位や立場よりも、人間的に信用がおけて、交渉力のある人が使われました。
いわゆる「お傍去らず」の家来や女房が主人のために手腕を発揮したのです。
邸に勤める女性の姿もなかなか見られない時代。
文使い同士にとっても、良い男女の出会いのきっかけになったことでしょうね。