契約の契り
先に冷静さを取り戻したのは隼人の方だった。
「私は忠成殿の文使いを普段からしています。これからもこちらの御邸に伺う機会が多くあることでしょう。あなたは姫付きの女房だとおっしゃいましたね?」
そう問われて生駒も自分を取り戻した。
「ええ、そうです。私は姫の乳母と同じくらい、姫のおそば近くに仕えています。幼い時から共に育ったものですから」
「では、今後もお話を伺う機会はあるでしょう。今日は宴の日。私達が個人的な話をするのにふさわしい日ではありませんね?」
隼人はいかにものんびりとした、世間話か……あるいは色心から女房を口説いてでもいるような顔つきを作って、笑顔で言う。
ここは人の少ない場所とは言え、今日は宴。人も多くどこに話しが流れて行くとも分からなかった。しかも二人の再会は「懐かしい」と言うにはあまりにも残酷で、衝撃的な出来事が横たわっており、二人の過去は互いに封印されているはずなのだ。
「そうですわね。そういうお話は、もっと別の機会に伺いたいわ。今日は高貴な方々のための御席を設けた宴ですもの」
生駒も顔の前で扇を開き、いかにも「それらしい」態度に僅かな媚をにじませるような芝居を打って、隼人に合わせた。
「では、個人的な事は後の日に。とにかくこのお文を姫君にお渡しいただけるでしょうか?」
「かしこまりました。必ず姫君にお渡しします。お返事は姫君次第ですが」
「ぜひともお願いいたします。良い御返事を我が君も期待しておいでですので。では」
そう言って隼人は自分の主人のもとに戻ってく。生駒は内心の動揺を懸命に落ち着かせようとゆっくり深呼吸をしていた。すると後ろから、
「こんなところでどうなさったんです?」
と、姫の乳母に声をかけられた。挨拶が済んで東の対に戻る所なのだろう。
「今、右大臣の御子息のお使者から、姫さまへのお文を言付かっておりましたの」
そう言って乳母にお文を見せる。
「まあ、さっそくですか。右大臣の御子息はまめやかな方のようですね」
「ええ、早く姫君にお渡ししないと」
そう言って生駒は乳母とともに姫の元へと戻っていった。
生駒は自分の与えられた曹司(部屋)に戻ると、次々と考え事が浮かんできた。
姫君は右大臣の御子息からのお文を受け取ると、それは嬉しそうに喜んでおられた。どうやら姫君自身の御心も、右大臣の御子息の方に傾いていらっしゃるご様子だ。父上の大納言殿や。母上の北の方様も右大臣の御子息に良い印象をお持ちのようなので、これは姫君にとってもお幸せな御結婚になりそうだと、生駒もホッとした。
ただ、動揺した後にホッとしすぎたのか、姫君に、
「生駒、顔色が良くないわ。具合でも良くないのかしら? 典薬を呼びましょうか?」
と聞かれてしまい、「ただの疲れです」と言って丁寧にお断りし、御前を下がらせていただいたのだ。典薬とは人の体調を診て、薬を調合する人の事。姫様に気を使わせてしまうとは「油断が出たわ、私らしくもない」と生駒は思っていた。
まさかこの邸で隼人と再会する日が来るとは、生駒は夢にも思っていなかった。きっと隼人の方でもそうだったのだろう。生駒の名を聞いたとたんに「生駒姫」と口に出していたのだから。
隼人が普通の従者ではない事は生駒には見当がついた。隼人も自分と同じように人買いの男に身を売られた身。それなのに高貴な方のおそば近くに仕えている。彼も自分と同じように何らかの訳ありの邸に売られ、その邸の裏事情に関わる仕事をしているのだろうと察していた。
生駒自身が普通の女房ではいられなかった。生駒は初めはこの邸の北の方様、八千代の方様を、お亡くなりになった幼い姫君様に代わってお慰めするのが役目だった。
次いで姫君がお生まれになると姫君の御世話とお遊び相手、少し普通とは違っていらっしゃる姫君をお守りし、きちんとした淑女になって頂くために、姫君の当時の奇行の「尻ぬぐい役」のようなことをするようになっていた。
おかげでこの邸の姫君は、おとなしやかで、つつましく、御心の優しい、明るい方と言う評判を得られることができた。姫君は生駒が細かにそういう役目をこなし、自分を守っている事にやがて気付かれて、母上や乳母が困るようなことはお慎みになるようになっていった。
だから今では、少し元気の良いところがあったり、お気の丈夫なところがおありだが、本当に白露の君はその名にふさわしい、朝日に輝く露のように、上品でお美しい姫君となられていた。
そんな、汚れ役までこなす事ができる生駒は、あの夜に大納言殿の裏の顔を知ってからと言うもの、大納言殿の亡くなった従者に代わる仕事をするようになった。
あの時殺された従者は、実は大納言殿が裏で「飼って」いる、盗賊への連絡役をしていた。この都で権勢を誇っている方々は、実は色々な手段を講じている方が多く、どこそこの大臣は、これこれの国司(地方を治める役人)と深いつながりがあって、普通の献上とは別に、怪しげな品を手にしているだの、密輸に関係している殿上人がいるだの、山賊から金品を受け取っているだのと、暗い噂の絶えない方も多くいらっしゃるようだ。
そういう噂の真偽はともかくとしても、位の高い人々がその地位を守り続けようと思ったら、よほど帝に個人的にもお気に召されているか、帝の后の親御様でいるか、御自分の姫君が帝の御寵愛の深い女御様になっておられるかでもしなければ、色々な品々を頻繁に献上したり、内裏の修繕や様々な儀式のときにかかる費用を負担したり、寺の造営をしたりと、物入りな事も多く、普通に荘園の所得だけでは厳しいものがあった。たいていの高貴な地位の方は、取り入ろうとする国司という、地方の国を治めている役人に横流しをさせたり、なんやかやと献上させたりして賄うくらいの事は、最低限やっているようなのだ。
しかし大納言殿はそういう事はしていないようだった。彼が言うには豊かな国から搾取し続ける事は「国がやせる」事に繋がるのだそうだ。けれどそんな甘い事を言っていては貴族社会で高い地位を維持することはできない。
大納言殿はそういう事の代わりに、自分が盗賊を「飼って」いるらしく、もともと地方で暮らしていて、その国の国司たちに搾取され続け、生きる事が苦しくなって都に流れて来た挙句、盗みを働いていたような者たちを集め、盗賊団を作り上げたのだった。
彼はその盗賊団を使い、自分の競争相手達の邸に盗みに入らせ、どこにも極端に富が偏らないようにしていた。もちろんその一方で、自分はその盗品や、売った金などを使って朝廷への献上をしては、出世の道を歩んできた。大納言にとっては、それが自分が考えうる、最も平和で最善の方法だと思っているのだ。
妻の為に生駒を買うような人なので、大納言は大変情にもろいところがあった。その上こういう育ちの方には珍しく、位どころか人としても認められていない、大衆へも思い入れがある方で、同じ人として生を受けたものが飢えることに納得されていないのだ。
けれどの自分の一族も、妻子も普通に守りたい御心も勿論お持ちで、それゆえ裏で盗賊を操ることになってしまったようだった。
生駒は大納言と深くかかわることで、そういう大納言の事情と、人柄を知ってしまった。
生駒が買われ、生かされた命を大納言が利用するのはあまりにも当然の事のように生駒は思っていた。大納言が子供を買おうと考えなくても、世の中には殺される命も、売られる子供も、絶えることなく多くいることを生駒は知っていた。貴族社会の中では誰もが見て見ぬふりをしているそういう事を、生駒は当事者として目をそらすことなく、見つめ続けていたのだから。
少なくとも大納言は、そこから目をそらす事は無かった。貴族として生まれ、生きて行く以上は、その身は誰もが汚れきっている事に、この人は正面から向かい合っていた。それでもこの人は貴族としての責任も、妻子への愛も、放り投げることなく生きている。むしろその生き方を生駒は尊敬さえしていたのだ。
けれど、大納言その人は、その生き方に苦しんでいた。生駒が大納言のもう一つの顔を知った時の苦悩の顔は、大納言のもう一つの裏の顔でもあった。
生駒は大納言の新たな盗賊への連絡役を買って出た。自らの意思でそれを選んだ。大納言の性質を考えれば、その盗賊達が人を殺める事は無いと生駒は確信していた。けれどもこの世には確かに人を殺め続けている盗賊達もいる。
生駒は自分の人生を狂わせ、母を殺し、自分の目の前にいた少女を殺したあの男を許してはい無かった。この仕事をしていれば、いつか、いつの日にか、その男の消息を知る日が来るかもしれない。そんな気持ちもどこかにあった。彼が生きている限り、自分や隼人のように、自分の過去を封印したまま生きて行かなければならない人が、きっと大勢いるはずなのだ。
生駒は世の中が残酷な事には諦めがあったが、その男の事だけは諦められない気がした。だから生駒は精力的に大納言の裏の仕事を支えるようになっていた。
そんなある夜、生駒は大納言が苦しげに泣いているのを見かけた。良く見るとその手の中には、あの殺された従者の帯が握られていた。
その時、生駒は大納言の「求め」に初めて応じた。邸の主が使用人に同意のもとで手を付けられる事は、普通に許された権利だ。けれど生駒にも断る事は出来た。でも、同情なのか、尊敬なのか、同じ思いを何か分かち合おうとしたのか、生駒自身にも分からないが、その時生駒は、
「私は私の母を殺した男が許せません。この従者を殺した男も盗賊。もしかしたら私の母を殺した盗賊と、同じ賊に加わった者かもしれません。私は人を殺して回る盗賊を追いかけます。そしていつか追い詰めて見せます。私が大納言殿の御求めに応じる以上、大納言殿にも、私は御協力を求めたいのです。これは私にとっては『契約の契り』。そのことを分かって頂きたいのです」
と言った。
「それを、お前が本当に、心から望んでいるのなら」
大納言殿はそう言って生駒を抱きしめた。
こうして生駒は大納言の裏の顔とともに生きるようになった。自分が生き延びるため、そして復讐の為。
おそらくあの隼人も何らかの事情を抱えた生き方をして来た筈。隼人のあのとっさの判断や、よその邸でのもの慣れた様子。それは生駒に通じるものがあり、生駒も「さぐり」を入れる邸に通わせる男を作り、逢う時にはああいう判断が頭をめぐる。
同じような生き方をして来た隼人。彼と再会してしまったのは、良い事なのか、悪いことなのか。何よりこの事を大納言殿にお伝えしたものかどうか。
生駒は迷っていたのだ。
女房と言うのは文字通り、房(部屋)が与えられている女性の召使の事でした。
邸に召し抱えられている人は皆住み込みですが、ほとんどの人が大部屋住いで位が高ければ個室や、二人部屋を与えられています。
その部屋は「曹司」や「局」と呼ばれました。
あの「春日局」の局もこの意味です。
局が用意されるほどの高級な立場の人と言う事ですね。
ここに出て来る「典薬」と言うのは、今の薬剤師のような人のことです。
この頃の治療と言うと、この典薬に症状に合わせた薬草を調合してもらうか、病魔平癒の祈祷を行う以外に治療法がありませんでした。
まだまだ人々の寿命も短い時代のことです。
「病気」ではなく「病魔」と呼んで恐れたのも分かりますね。