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子鬼

 それから三年の月日が流れた。白露の君は美しく成長し、もうすぐ裳着のお式を迎える事になった。とうとう大人になってしまうのかと、姫は正直、悲しい思いでいた。大人たちは今の姫君では帝に差し上げるにはお若すぎるし、女御様の数も多い。なかなか男御子様に恵まれなかったので、東宮様はまだお生まれになったばかり。これからの御成長を待つのはあまりにも時が長すぎると、姫の御成人の時期が悪いと嘆いていた。


 大人たちのそういう声がなんとなく耳に入るようになると姫も、


「本当はお父様やお母様も、そう思っていらっしゃるんじゃないかしら?」


 と考えてしまうようになり、余計両親と心通わせにくくなっているらしいと、生駒も思っていた。


 姫の御成人のための裳着のお式が済むと、さっそく姫君には求婚者たちからの文が届くようになった。十を過ぎてからほとんど邸の外に出られなかった姫の事をどこから知るのか、姫の明るい性格や、女童への御心使い、奏でられる美しい琵琶の音などを盛んにほめたたえるお文があちこちから届けられる。そうは言っても邸の奥での出来事ばかりのため、おそらくみんな噂話に見当をつけて、それなりの想像で書いてくるのだろう。どの文もありがちな、通り一遍の言葉を連ねた物や、古歌を適当にもじったものばかり。正直姫はうんざりしていた。


 その中で、召し使っている中でも小さな女童が、


「お屋敷の、御門の近くで渡されました」


 とたどたどしく言いながら手渡してきた文に、姫は興味を覚えた。文には、


『君を想いて、春の日遅し。あなたが花開く日を待ち望んでおりました。いつか、琵琶を私めのために弾いていただけませんか』


 と書かれている。


「これはどなたが渡して下さったお文なの?」


 姫は女童に聞いたが、


「分かんない。また、文を届けますって」


 贈り主が分からない文。本当は届けられた文は全てお母様や乳母に見せなければならないと言われていたが、姫はその文をそっと、自分の鏡箱の敷物の下に隠した。なんだかこの文は人に見せたくない気がしたのだ。

 他の文は古今集や、後選集の恋の歌の一部を書いたり、それをもじったりしたものばかりだった。でも、この文に書かれた『君ヲ想イテ春ノ日遅シ』は、白楽天の漢詩の一部。世の中の男君は頭のいい女君を敬遠し、男性の文学の漢詩など、女は知らない方がいいと言っていると姫は乳母や母親から聞かされていた。


 姫は名も明かさぬ「白楽天の君」が気になってしまった。少なくともこの男君は、「女は頭が少し弱い位がいい」という考え方はしない人だから。この人はまた文を下さると言ったのだから、きっと自分を迎えに来てくれる。姫はそんな期待を寄せて、文を入れた鏡箱をいつも手元に置くようになっていた。


 やがて、正式な縁談が二つ、姫のもとにもたらされた。お一人は中納言殿の御子息で、ただ今大夫でいらっしゃる方から。もう一方は右大臣の御子息。こちらは少将でいらっしゃる。いずれの位も五位で親の位は右大臣が上だが、こちらは御二男で、中納言の御子息は御長男だ。どちらもこれからの御出世が期待されている、姫との縁談としてのつり合いはとれた方からの御縁談だった。


「中納言殿の御子息は学問をなさっておいでなのね、いずれ大臣になられた時にはきっと帝のお役にたてるでしょう」


 そう言って姫の母上の北の方は期待を寄せているご様子。


「右大臣の御子息は弓の上手と聞いている。性格も伸びやかでいらっしゃるから、姫と気が合うのではないだろうか?」


 と、父上の大納言殿は右大臣の御子息を気に入っておられるようだ。これを聞いて姫はなんだか久しぶりに御両親の親御様らしいお心に触れた気がして嬉しく思われ、お二人からそれぞれの男君の御様子など詳しくお聞きになる。すると中納言家の御子息は御長男だけあって責任感が強く、生真面目で努力家。姫より七つお年上だが、それだけに御出世も間近で後々も安心だという事。何より御性格がお優しそうということだ。


 右大臣家の御子息は活発で明るく、御二男ではあるけれど人々から好もしく思われ、芯が強くて情の深いところのある、負けん気の強い方だという。右大臣も御長男以上に勝るとも劣らぬほどこの君を可愛がっておられ、こちらも必ずや御出世するだろうと評判が立っていらっしゃった。


「どちらも良縁だ。これは悩ましい事になった」と、大納言殿は悩まれるご様子。


「そうですね。姫、中納言の御子息の文をごらんになりますか? 大変美しい御手(筆跡)ですよ」


 そう言って北の方様が姫にお文をお渡しした。


「右大臣家の方のお文は?」受取りながら姫は聞きいた。


「それがまだ……こういうことで遅くなるのは感心できませんわね」


 当時の高貴な女人は人に姿を見せることをはばかっていたため、交際はほとんど文だけで行われた。しかも文を最初に送るのは男君からと決まっているので、こういう時の文は早い方がよいと、普通思われている。だからなんとなく、北の方は中納言家の御子息が誠実なように感じて、そうおっしゃるのだろう。


「いや、まだ話は来たばかりだ。早ければいいというものでは」


 そう話しているそばから、「右大臣家の御二男からのお文が届きました」との知らせが来て、姫にその文がもたらされた。さっそく姫が開いてみるとまぎれもなく、あの「白楽天の君」の御筆跡が。


「あの方だわ。お約束通りわたくしを望んで下さったんだわ」


 姫はそう嬉しく思った。けれど、その時両親の期待に満ちた視線が姫に注がれている事に気がついた。姫の手の中には二つのお文。どちらに心を寄せるのかと、お二人の視線は姫に問うておられる。姫は急になんだか怖いような気がした。

 考えてみればこのお二人とも姫は全く知らない方。このまま話が進んでしまえば、どんな方か知らないままで結婚しなければならなくなってしまう。


「お父様。このお二方の御姿を目にする機会は、何かありませんか? 御簾越しでも、記帳越しでも、遠目でも結構ですから」


 わがままは承知の上。でもこれは自分の一生の問題。姫はこういう時に親の言うがままに流される事ができるような性格ではなかった。


「う……む。そなたの不安は分かるが。本当に遠目でもよろしいのであれば、この邸で宴を催そうか?」と大納言殿がおっしゃる。


「宴?」


「その時に若い者たちを招いて、舞の一つも舞させよう。東の対からでは遠目であるし、御簾と記帳越しから覗く事となるが、それでもよろしければ」


 そんな機会でもまったくないまま、ずるずる結婚させられるよりはいい。姫はそう思って宴を開いていただく事にした。


「姫にわがままを言っていただくのも、随分久しぶりの事だしな」


 大納言殿がそうほほ笑むと、姫はなんだかいたたまれないような気持になった。やはりこういう親心を見せて下さる時は、姫にとってお優しい父上でいらっしゃるのだ。



 大納言殿に我がままを言った姫だが、その夜になると不安が増してきた。ああいう事を言った以上はお二方の内どちらかに決めなくてはならない。でももし、お二方とも自分の気に染まない方だったらどうしよう? そんな思いに姫は駆られ出した。


 今更言った事引っ込めることはできない。良く良く考えてみると姫は結婚を夢見た事も、今すぐ結婚したいという気持ちも持ってはいないのだ。勝手に年齢が上がって、年頃になってしまい、世の習いにあらがう事が出来ぬままに話を決められてしまうのだ。

 ちょっとばかり求婚者の姿を遠くから見たからと言って、それが何になるのか。姫は後悔と、それ以外に方法が無かった自分の身の上を呪ってしまう。



 その夜、姫はまた夢を見た。とても濃い霧の中に姫は立っていた。微かに人の声が聞こえる。


「誰?」姫は思わず問いかけた。


「オイラはお姫さんの心に住む子鬼さ」


「子鬼? あなたなの? いつもわたくしに不思議な夢を見せるのは」


「そうさ。誰もが心の中に何かを住まわせているが、お姫さんはオイラの声が聞こえるのさ」


「今度はわたくしに何を見せると言うの?」


「お姫さんが気にしている人さ。あの、白楽天の君の姿を見せてあげるよ」


 するとそこに人の姿が浮かび上がった。青簾色のすがすがしい狩衣。背が高く目鼻立ちははっきりし、瞳に力を宿した青年が、さっそうと現れた。

 その瞳にはどこか見覚えがある。何処で見かけたのだろう? もう長いこと男君の姿など目にしたことなど無いのに。


 その時霧の中に、ひらひらと桜の花びらが沢山舞い降りてきた。舞い散る桜。遠い記憶。


 思い出した。姫はまだ十にならない頃、人に隠れて桜の木に登った事があった。満開の桜の向こうから、邸の外を眺めたら、それはどんな景色が見えるのだろうと思ったのだ。母や乳母や生駒の目を盗み、姫はまんまと木に登る事が出来た。

 築地塀より高い所から見下ろした都の姿は想像以上で、向こうの邸の桜や、高い木の緑、目の高さとそう変わらぬ所に邸の桧皮葺の屋根が見える。青柳の若芽の色も美しい。そして塀にさえぎられることなく見渡せる青空は、何より美しかった。


 すると急に下から人の声が聞こえた。邸の外の道からだ。見ると下には牛車が通りかかっていて、牛車を取り囲む従者たちが唖然として自分を見上げていた。

 邸の中の人間や、門番の事ばかりに気を取られて、通りがかる人の事まで考えていなかった。

 慌てて降りようとした時、牛車の物見窓から少年が顔を出したのだ。


 その時の少年の瞳。確かにこれはあの時の瞳だ。あの少年が白楽天の君に違いない。


 そこまで思い出した時、笛の音が聞こえてきた。白楽天の君が笛を吹いていた。

 姫はその音を聞きながら、久しぶりに舞を舞った。これは夢。それならば誰はばかることなく、思う存分舞う事ができる。それにこの笛の音は、なんて心地いいのかしら? 足が、手が、自然に柔らかに動いてくれるよう。こんなに気持ちよく舞う事が出来たのは、初めてのことかもしれない。

 この人が本当に白楽天の君なら……。もしそうでないのなら、このまま夢よ、覚めないで。


 そんな事を願った途端、無情にも姫は目を覚ました。耳にはあの笛の音がはっきりとまだ残っていた。






男女の交際はほとんど文通。面倒そうですがこれが平安の文化です。

女は待つもの。つつましく恋の訪れを待って、しとやかに生きるのが上品な女性の生き方として尊ばれたのです。


そして男達から姿を隠され、守られ、夫となった人を婿として邸中でもてなし、出世してもらう。その出世した夫に家の立場も姫君も守ってもらうのです。


そもそもある程度の高い身分になれば政略結婚以外は考えられない。

そんな時代だったんですね。


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