夢
「……そなたは、こんな時でさえも脅える事は無いのだな。あの夜に一生分の恐怖を味わいつくしてしまったか」
「大納言様?」
大納言の目にあるのは憐みの様な、関心したような、唖然としたような、複雑な感情だった。
「生駒、そんな顔をするな。私はお前を殺せない。お前は我が妻子の一番のお気に入りの女房だ。そんなことをすれば私は妻子に顔を合わせられなくなる。出世のために汚れきったこの身でも、唯一の存在として安らぐことができるのは妻子しかいないのだ」
大納言様の目の色は、いつの間にか変わっていた。複雑な感情は、完全に苦悩に支配されていた。やっとこの苦悩を語れる相手を見つけたと、すがるような目さえしていた。
「生駒、お前なら信用できる。お前はこの邸に来てからあの夜のことを一言も話した事は無い。完全に記憶を封じ込めているのだろう。お前の秘密を守る力は普通ではないものがある。もし、お前が本気で我が妻と子に愛と献身をささげてくれているのなら、お前には私に協力してほしい。出来なければこの邸を出てもらうしかない。役人に知らせても良いがそれは無駄に終わるだろう。私自身でもどうする事も出来ないところまで来てしまっているのだから」
大納言は苦悩と懇願の目で生駒を見ていた。その眼の色に生駒は母を思い出す。
しがみついていないで逃げろと言った時の目を想い浮かべ、次いで隼人の斬り殺されかけた時の懇願の目の色を思い出した。
「私の命は、この邸に来なければ間違いなくあの夜に消えていました。私はここで生かされ、人生の幸福を知りました。ここでしか生きてゆけない女でございます」
生駒は大納言の目を見てきっぱりと言った。
「大納言様が何をしていようとも、私に何をさせようとも、私はこの邸のほかに生きる場所はありません。大納言様に御協力します。それで北の方様と姫君様をお守りできるのなら」
「そうか。ありがとう、生駒」
大納言はホッとしたような、諦めたような声でそう言った。
「白露の君様が、胸騒ぎがすると心配しておいででした。今のお使者を呼び戻す事は出来ませんか?」
「それは無理だ。もう、すべて動き出してしまっている」
「……そうですか。何でもなければ良いのですが」
姫君の予感めいた脅え方。あれはなんだか気になるものがあった。この場でこんなことを知ってしまったのはただの偶然なのか? 生駒は不思議な気持ちでいた。
「姫君様の御伝言です。大納言様も今夜はつつがなくお過ごしくださいと」
「つつがなく……か。もう、遅いのであろうな。お前にこんな所を見られて」
「お約束は守ります。私の命はこのお邸の為にあるようなものですから」
そう言って生駒は「失礼します」と頭を下げると、そのまま姫の寝所へと下がって行った。
翌日、邸は悲しみに包まれた。大納言様の従者の一人が亡くなったからだ。姫の予感は的中していた。その従者は大納言様の大変信頼が厚く、まだ若い、将来が有望視されていた人物だった。人付き合いがよくて、邸でも皆に好かれていた人だったので邸中の人が彼の死を悼んでいた。
「大炊御門の邸に勤める女房の所に、通っていたそうだ。昨夜盗賊が入った時に巻き込まれて殺されたらしい」
「まだ若かったのに。その女も殺されてしまったんでしょう?」
「邸にいた者は皆殺しにされたそうだ。大納言様も衝撃が大きかったらしく、しばらく御寝所から出てこられなかったそうだ」
「使う人々に心づかいの良い方だから。お方様も悲しんでおられるし。普段私達は働きやすくていいけど、こういう時はお気の毒でならないわ」
「まったくだ。とにかく最近は物騒でいけない。検非違使は何をしているんだか。都の秩序を取り締まるのが仕事ではないか。俺達も人ごとじゃないよなあ」
そんな話が邸のあちこちでささやかれ、姫は御両親の寝殿にお見舞いに行かれる事になった。お支度の最中に姫は人払いをし、生駒に言う。
「生駒、昨夜の事」
「心得てございます。決して誰にも言いません。大納言様や、北の方様にも」
「そうではないの。生駒はそういう事を口外する人ではない事は分かっているわ。それよりも私は生駒に謝りたい」
「謝る? 何をでございますか」
「私のせいで生駒を何かに巻き込んでしまったんじゃないかしら?」
生駒は内心ぎくりとした。昨夜の大納言殿とのやり取り。口には出さなくても何か様子に現れてでもいるのだろうか? と不安になった。
「私には何のことか分かりません。そりゃ、良く知った顔の従者がこんな亡くなり方をしたんですもの。平静じゃいられませんわ」
生駒はそう言って、無理に表情を作ることをやめた。それではかえって不自然だ。
「ごめんなさい。おかしなことを聞いたわ。ただね、私、最近悪い夢を見ていたの。ううん、見ていたんじゃないわ。声を聞いたの。皆が寝静まった真っ暗な中、私は屋敷の中を歩いているの。するとどこからか声が聞こえるのよ。夜に立つ使者の身には災いが起るって。昨夜も見たわ。渡殿で生駒が呆然と立ち尽くしてしまっている夢」
「夢は夢でございますよ。気持ちが高ぶっている時に夢をご覧になって、その後こんな事があったものだから深く考えてしまわれているんです。お見舞いはおとりやめになって、今日は物忌みなさったらいかがでしょう?」
物忌みとは、占いが不吉であったり、夢見が悪かったりなどした時に、人に会わずに引きこもり、災厄を避けることを言う。そうやって身を慎み守るのが、貴族には普通の事なのだ。
「いいえ。父上と母上が心配だわ。生駒、私あなたには正直に言うわ。父上は大納言に御出世されてから、何かお人が変わられたわ。母上は父上の言いなりだし。父上は私を本当に娘として可愛がって下さっているのかしら?」
「姫様、なんてことおっしゃるんです。殿は姫様を下にも置かずに大切にお世話して下さっているじゃありませんか。こんなにまめやかにお世話をなさる御父上を持って、何を御疑いになるんです?」生駒はぴしゃりと叱りつけた。
「父上は何かに脅えていらっしゃるわ。父上が私に早く大人になって良い婿君を取るようにとおっしゃるのは、早く脅える何かから逃れたいからなんじゃないかと思うのよ。別に私の心配をしてるんじゃなく、自分が楽になりたいんじゃないかって思うの」
生駒は姫の御支度の手を止めて、姫の両肩をしっかりとつかみ、目を見た。
「姫様。それは違う。それだけは絶対に違います。確かに姫様にはそういう使命がございます。これだけの家柄の姫でおられる以上、それは姫様のご宿命なのでしょう。姫様は本当はとても御聡明な方ですから、そういう事がお苦しいのかもしれません。殿にもいろいろご事情もあるのでしょう。でも、御両親の姫にたいする御愛情は間違いなく本物です。生駒には分かります」
そう、それには生駒も自信がある。殿やお方様が見せる目の色は、自分の母が生駒に逃げるように促した時の、あの目と同じものだと分かっていた。この世で一番大切な人に向けられる目は、間違えようの無いものだ。
「でも、本当は私も父上が怖く感じる時があるの。あまり近づきたくないって言うか」
姫は戸惑うようにおっしゃる。
「それは姫様が御父上様に目に見えない壁の様なものを作っていらっしゃるからです。確かに最近姫様はおとなしやかになられました。けれど、以前の様な明るく、屈託のない目の色では無くなられた様に思えます」
良い機会だと思い、生駒は思い切って姫にそう言ってみた。
「だって、なんだかこの頃の父上は、近づきがたい感じがするのだもの。もとの父上とは何かが違うの。でも私には話して下さらないわ。……そんな気がする」姫は悲しげにそう言いう。
「それは姫様が御身大きくおなりになったからですわ。大納言殿は素晴らしい方です。私のような身寄りのない、取るに足らない物に姫様をお預け下さったのですから」
「生駒……。あなたはいい人ね。使者に立った従者の様な事は、二度と起きて欲しくないけど」
「あの従者は邸に通う女がいたのですよ。使者に立ったのではありません」
生駒はそのつもりもないのに、思わず口調が強くなってしまった。
「姫様も今日は御心が落ち着かれていないのでしょう。お見舞いがすんだら、物忌みをしてお慎みになった方がよろしいですわ。神仏の御加護が御心をやわらげて下さいます」
「物忌みなんて、信じていない癖に」姫はぽつりと憎まれ口を利くと、
「早く支度をしましょう。父上と母上が心配だわ」
そう言って生駒に着替えの続きをさせた。
文中に出て来る「検非違使」とは都の治安を守るための役人で、今でいう警察のような機関です。
軍隊のような兵たちとは別に、都にはこういう組織がありました。
他に多くの門がある都には、その門を守る門兵を集めた「衛門府」と言う組織もあります。
それから平安のお姫様は、男性や身分の下の人に顔や姿を見せたり声を聞かせたりする事がタブーとされました。
そのため十歳くらいになれば、徹底的に姿を外から隠されてしまいました。
女性には不自由な時代ですね。