誓い
それから一カ月を超える時が流れた。あれから生駒はもとの隠れ家で傷の療養をしていたが、今では傷もすっかり癒えて、新たな香の合わせなどを試して見ては、姫様のお気に召しそうな香りを見つけ出し、隼人に大納言邸に届けてもらったりしていた。
「傷も癒えたのだし、こんなところで香を合わせていないで、大納言邸に勤めて直接姫に合わせて差し上げてはどうだ?」隼人はそう聞いた。
あれから都では大納言邸の出来事に様々な憶測が流れた。
「大納言殿とその姫君の御命が狙われたという事だ」
「邸を荒らしまわっていた盗賊の仕業だったそうではないですか。門番が殺され、仕えていた女房が怪我を負ったとか」
「いや、しかしその女房が、ここだけの話、以前に邸を根城にしていた女盗賊だったという噂がある」
「なんと。自分が追われた邸に潜り込んでいたのか!」
「それがどうもその女、大納言殿達をかばって怪我を負ったらしい。盗人にも人の恩を感じる心はあるらしく、もとの主人たちを助けようとしたらしい」
「大納言殿の命を狙った物は確か矢で射殺されたのだろう? その女盗賊の方はどうなったのだ?」
「それが大納言殿達も邸の者も、少し前まで長く仕えていたその女をむげに扱えず、典薬を呼んで傷の手当てをしたそうだ。その典薬が下男にこの話を聞かせて、それがこうして外に伝わっているらしい。特にあの姫君など大変に心配をなさったとか」
「ほう。それは何と慈悲深い事だ。御自分がそのような事に巻き込まれたにもかかわらず、盗賊の女に情けを向けなさるとは。いかにも右大臣の女御様のお気に入りの姫君らしい御振舞だ」
「まったくだ。だがその女はやはり所詮は盗賊。忽然と姿を消してしまったらしい」
「ふうむ、なれた邸の事。逃げ場の一つも知っていたのかもしれぬ」
「きっとそうだろう。それに盗人は盗人。恩のある邸だったからこそ情も湧いたのかもしれないが、よその邸に忍び込めば逆に邸の者を殺しにかかっていたかもしれぬ。物騒な事だ。気味の悪い事だ。やはり盗人などには目をつけられないに越した事は無い」
「まったくだ、まったくだ」
そんな話が都の中で、風のようにささやかれては消えて行くのだ。
生駒は隼人の言葉に、
「いいえ。幾度考えても私が今、あの邸に戻るのはあの方々への御迷惑を呼んでしまいそうだわ。いくら邸の者の口を止めようとも、こうして噂は流れてしまう物。この隠れ家もいつまでもいる事は出来ないでしょう」と答えた。
「都を離れるつもりなんだな?」
生駒の沈んだ声に、隼人は二人の別れが近い事を察した。
「ええ。私の噂が流れる限り、大納言度の御一家にも、少将殿にも、迷惑をかける可能性があるわ。隼人、あなただっていつまでもこんな危ない橋を渡っていてはいけない。あなたには少将殿がいるわ。養父殿がいるわ。あなた自身の将来もある。私はしばらく、この身を都の外に隠していた方がいいのよ」
「駄目だ。お前を一人でなど行かせない」隼人がそう言って生駒を抱きしめた。
「分かって隼人。私は必ず戻ってくるわ。約束する。その時こそあなたにどこか隠れ済む所を探してもらい、細々とでも身を立てるわ。でもそれは今は無理なのよ」
「……お前の約束は宛てに出来ない。そのまま姿を消してしまう気だろう?」
「そんな事は無いわ。必ず帰る。待っていてちょうだい、隼人。そして私に代わって少将殿と姫様を見守っていてちょうだい。あなたは必ず約束を守る人だわ。だから私と約束して」
生駒は隼人の瞳を見つめてそう言った。
「分かった。お前と俺が出会ったのは前世からの宿世だ。誰にも分かつことなど出来ないはずだ。その宿世にかけて誓おう」
「いいえ。誓うならあなた自身に誓って。私、あなた以上にこの世に信じられる人などいないから」
「あの方の御一家よりもか?」
「ええ」
「分かったよ、誓おう。待っている」
隼人がそう言うと、生駒は黙ってほほ笑んでいた。
「やはり行ってしまうのね」
姫は寂しそうに、そうつぶやいた。隼人に姫の御前にそっと通してもらい、生駒は姫君と会って都を旅立つ旨を告た。すると姫は寂しそうにそう言ったのだ。
「申し訳ございません。もう心に決めたことですので」
「どこへ向かうつもりなの? 宛てはあるの?」
「宛てのあるようなところには向かえませんわ。私は罪人。ひっそりと暮らせる場所を探すつもりでございます。女の足の事ですから都を出ましたら、川を下る舟に乗ろうと思います。そうすれば徒歩よりは早く離れる事が出来ましょう。その先は心の思うままに流れさすらうつもりでございます」
「たった一人で、そんな寂しい隠れた暮らしを続けて行くつもりなの? 隼人と共に行くわけにはいかないの? 父上にお願いすれば、あなたが身を隠す場所など用意して下さるのではないの?」
「それは出来ませんわ。姫様。それでは私が都を離れる意味がなくなります。大丈夫。ほとぼりが冷めれば必ず私は戻ってきます。この都のどこかで姫様の幸せを見守らせていただきます。いいえ、都を離れていようとも、心はいつも姫様と共にありますわ。御心配は無用です」
「わたくしの心もいつでもあなたの傍にあるわ。わたくしがあなたを忘れることなど絶対にできないのだから。そう言う事なら父上にお願いしてあなたに舟を用意しましょう。住吉のあたりまでは下れるはずよ。最後に父上と母上にも会って上げてちょうだい」
「いいえ。それは出来ません。何処から噂が漏れるとも知れませんから。姫様の口からお伝えくださいませんか? 生駒は自分の幸せを探すために、旅立って行くと」
「しかたのない人ね。こんな辛い役目を私にさせるなんて。父上も母上も寂しく思われることでしょう」
「申し訳ございません」生駒は深く頭を下げた。
「本当に、本当に戻って来てくれるのね?」
「本当でございます。私は隼人と約束しました。必ず都に戻ってくると。隼人のもとに帰ってくると。そして隼人に誓わせました。私が約束を守れずとも、隼人は必ず約束を守る人です。彼が約束した以上私など、どうあっても都に連れ戻される日が来る事でございましょう」
それを聞いて姫も納得したようだ。
「そうね。あなたと隼人は決して離れたままでなどいられないでしょう。あなたと隼人の宿世を、わたくしも信じましょう。必ず帰ってくるのよ。待っているわ」
「お約束いたしますわ。姫様。少将殿と、お幸せにお暮らし下さいませ」
そう言う生駒に向かって姫は、
「喧嘩をさせたくなかったら、一刻も早く戻って来て頂戴。あなたが戻ればどんなひどい喧嘩をしても、すぐに私のご機嫌は直ってしまうでしょうから」
そう言って目元に僅かな涙をにじませながら、ほほ笑んでいた。




