迷い
そこに、「大納言殿が生駒をお呼びです」と、使いが来た。やはり会わない訳にはいかない。生駒もそう思って、御前を下がろうとしたが、
「待って生駒。姿を消したりしては駄目よ。父上に会った後、必ずここに戻って来て」
と、姫は念を押された。
「あなたが父上と会った後もその目に苦しみが見えるようなら、わたくし生駒を離さないわ。誰が何と言っても。そうでないなら生駒の好きにしてもらうわ。わたくし、それを確かめたいの」
姫はとても真剣な目でそう言った。
「分かりました。すぐに、戻ります」
自分が取り繕うほどに姫様を傷つける。もう、これ以上姫様の御心を苦しめてはいけない。
大納言と会って自分がどのような気持ちになるかは分からない生駒だったが、姫の視線から逃げる事はしないと決心して、大納言の御前へと向かう事にした。
寝殿に行くと、以前大納言とよく逢っていた場所に、以前と同じように人払いがされて大納言が座っていた。生駒はとても「懐かしい」と思った。
生駒がこの邸を出てから、二か月ほどしかたっていないのだが、大納言との逢瀬から、もう何年もたってしまったような錯覚に生駒は陥った。それほど自分の中で大納言が、遠い存在に変わっていたのだ。
「傷は痛まないか?」大納言は前置きもなく生駒に聞いた。
「痛みは殆んどございません。典薬殿が切り傷の疼きによく効くお薬を使って下さいましたので」
「跡が残らなければよいのだが」大納言の気遣わしげな言葉に、生駒は強く、
「いいえ。是非、残しておきたいと思っております」
まるで、大納言の言葉に挑むかのような口調でそう言った。
「この傷の御蔭で私は姫様の痛みを分けていただきました。この身も大納言殿が知っている身だけではなくなりました。この傷に心馳せるのは姫様、そしてこの傷を愛してくれるのは」
「隼人か」
「ええ」
大納言の目も、やはり懐かしそうな色をしていた。昨夜の出来事は、それだけお互いにそれぞれ心の中の区切りをつける役割を持った、大きな出来事だったという事なのだろう。
この人が求めた愛は、生駒が求めた愛ではなかった。それを知りつつ生駒は自分の愛を一方的に押し付けていた。それでもこの方は生駒を求めたのだ。
実は求め合うことその物には、それほど意味など無いのかもしれない。互いの欲する物が大きく違っていても、人は求め合う事は出来るようだ。それでも求める心を理解しようとするうちに、人は人について知る事ができるようになっていくようだ。
生駒はこの方から、人の弱さを知ることができた。どれほど強く、高みを望むように見せている人でも、もろく、何かにすがりつかねば壊れてしまいそうな感情を持っている事を知った。
この方も生駒から何かを知ったはずだ。そしてそれを、今度は北の方や姫を愛するために心の中で整理したのだろう。もちろん生駒もその心をこの御家族への感謝に換え、今度は隼人を愛するための糧としていくことだろう。
それが分かっているから、互いがこんなにも懐かしく感じているのだ。本当の愛を知る心を育てるために、二人は一時の触れ合いを持ったのだから。
「私はお前との事で姫や八千代を苦しめた。それは分かってはいるが、お前との事を悔やみはしていない。よく、今まで私を支えてくれた。感謝している」
「もったいない御言葉でございます。これからは姫様とお方様が殿を支えて下さいます」
「そうだな」大納言は感慨深げに言った。
「それで、私はこれからどのように罪を償えばよろしいのでしょうか?」
「罪?」
「私はこの邸に潜り込み、騒ぎを起こした揚句に姫様を惑乱させました。その様子は邸の者が皆見ていますし、兼光も見ておりました。私にいい逃れようなどございません。ですから大納言殿には、仲間達の身の振り先を決めていただき、皆を無事に逃がしてやってくださいませ。それが終わりましたら最後に姫様に暇乞いをさせていただき、私は役人のもとに参ります。私が本当に居場所を知らない以上、仲間達が追われる事はないでしょうから」
生駒は静かにそういった。
「私は目標にして来た復讐を遂げる事が出来ました。思い残す事は御座いません。どのような裁きでも受けようと思います」
「その必要は無くなったのだよ。意外な形だが」大納言は目を閉じてそう言った。
「は?」
「兼光は仏門に入ることとなった。彼はもう、正気ではない。彼の中にある幻の主人のために、御仏をお助けし、献身を捧げることとなったのだ」
「幻の主人……」
「彼の亡くなった主人だ。彼にはその姿は見えるが、現実に生きている我々の姿は見えていない。むろん、お前があの場にいた事もすべて記憶から失われている」
「それほどまでに、前の主人を……」
「あれほどまでに一人の人間にすべての思いを注ぎ込めるのは、幸せな事なのだろうな。普通の人間がいくつも必要とする心を、たった一つで満たしきってしまうのだろう。彼の生き方は確かに間違っていたが、彼の心は間違っていたのだろうか?」
大納言は複雑な表情で遠くを見た。献身する身と、献身を受ける身では、見方が変わってくるのだろう。
「間違っていたとは申せないかもしれませんが、それでも寂しい事のように私には思われますわ。人はより多くの愛を知った方が、より豊かに生きられると思いますので」
「豊かにか。そうなのだろう。私もお前に豊かな生き方を教えてもらった。むろんこれからも八千代や姫が教えてくれるのだろう。そして私も教えてやらねばならない」
「私も大納言殿の御一家に、沢山の愛を教えていただきました。だから今、隼人を愛する事ができるのでございます。このご恩は忘れられません」
「そう言ってもらえるとこちらも心が軽くなる。どうだろう生駒。お前はまた、この邸に勤める気はないか?」
「私が? ここに?」
「兼光がここで起きた事を語る事は無い。仲間達は皆、都を出てもらいそれぞれに新たな人生を歩んでもらう。もともとが私が地位を守るために働いてもらった者たちだ。責任はとる。そうなればこの邸の者の口止めをすれば、お前はいまだに行方知れずの身のままだ。姫付きの女房で訳あって御簾の外に出る事ができぬ容姿だという事にすれば、無理にお前の顔を見ようとする無礼者もおるまい。姫の事はお前が一番よく分かっているし、私もまだまだ姫の事はお前に任せたい。どうだ? 考えてみてはくれぬか?」
意外な提案に生駒の心は揺れた。また、姫様のもとに仕える事が出来るとは、少しも考えてはいなかったから。ここに居ればこの御家族の行く末を、生駒は自分の目で見届ける事ができる。少将殿に仕えている隼人とも、日々、逢う事が出来るはず。何より姫をこれからもお助けし続ける事が出来るわ。きっと姫も喜んでくれる。
けれどそうすれば大納言邸は、再び秘密を抱える事となってしまうわ。ようやくお方様の心も落ち着かれ、大納言殿の地位ばかりか姫の御評判も高まり、盗賊を飼う必要もなく、明るい日の光のもとで、この御一家が堂々と暮らせる日がやって来たのに。
特に姫は帝の寵妃のお気に入り。そんな姫に仕えて自分の正体が露わになったとしたら、今度こそどんなご迷惑をかける事になるか。
でも、生駒がこの御一家の行く末を案じているように、この方々も生駒の今後を案じていることだろう。黙って姿を消そうものなら、この邸のこれまで守ってきた秘密を暴露してでも、生駒の無事を知るまで、生駒を追い求めるに違いない。生駒は迷ってしまう。
「すぐには御返事できかねます。御心はありがたく受け取らせていただきますが、少し考える時間をください」
「分かった。それではその傷が癒えるまでは、返事を待つこととしよう。ただ、これだけは胆に銘じてほしい。我々はお前を案じているだけではない。必要としているのだ。分かったな?」
大納言にそう言われて、生駒は深く頭を下げ、姫のいる東の対に向かった。姫はそわそわと落ち着かずに生駒を待っていたようだ。その姿に大納言が、
「お前を必要としている」と言った言葉が本当であることを生駒は実感した。
「生駒。良かったわ。あなたの目にもう、苦しみの色は無いのね? 父上とは理解出来たのね?」姫は嬉しそうにそういった。
「ええ、私にとって殿は、とても懐かしい人になっていました。とても、とても」
姫の姿を見て、生駒は自分がどう生きていきたいのか、自分自身に問いかけていた。




