交渉
その頃、大納言は邸に駆けつけた中納言と、南の廂のまで対面していた。兼光はまだ、気を失ったままだ。大納言はさっきこの邸で起ったことを、生駒がここにいる事や、姫が兼光に斬りかかろうとした事を除いて、かいつまんで説明した。夜の明けきった朝の光の中で、中納言の顔色がみるみる悪くなった。
「この従者の処遇を決めなくてはいけないが、仮にも検非違使別当を務めていらっしゃるあなたの邸に勤める、身分も決して賤しからぬ者の事。簡単に表沙汰にするのも憚られると思い、こうして内裏の務めを休んでいただいてまでお越し願った次第です」
大納言がそう言うと、中納言は内心は苦々しく思っているのだろうが、
「お気使いいただき、ありがとうございます。確かに怪しいものを連れて大納言殿と北の方の御命を狙ったとなれば、私の立場は大変困ったことになります。それも実際にこちらの門番が命を奪われている。共に侵入した者が射殺され、兼光が御帳台の前で捕まったとなると、申し開きようがありません。だが、これが表沙汰になっては……」
といって、深く頭を下げていた。
「そうでしょう。お立場は分かります。私もやすやすとこの邸の奥、妻の帳台にまでに侵入された事は表に出したくないのが本音です。どのような推測をされるとも分からない。妻の名誉にかかわります」
「そう言えば……あなたの北の方には昔、お若いころにあまりよくない噂が流れた事がございましたな。いや、あくまでも噂ですが」
言ってしまってから中納言が大納言の顔色をうかがった。
「ただの噂です。私がすぐにそのまま、予定の日取りで婚儀を行った事でおわかりでしょう?」
「そうですな。きちんと三日夜に所顕しの宴もなさっておられた」
「そうです。だが、以前にそのような根も葉もない噂を立てられ、我が妻が傷ついたことに変わりは無かった。その時我が妻に男を忍ばせようと画策したのは、実はこの従者なのです」
「兼光が?」
「当時彼は東宮大夫だった方の従者でした。私と大夫は我が妻を争う立場にいましたが、妻は私を選んだのです。兼光はそれを恨んで、大夫を我が妻のもとに忍びこませようとしました。幸い未遂に終わりましたが」
「北の方ほどの御立場の方に、そのような事が起る筈が」
「起こったのです。兼光は我が妻の女房と深い仲だったらしく、その女房に手引きを頼んだのです」
「よく、そこまで詳しく御存じですな。……まさか本当は」
「中納言殿。それは根も葉もない噂だと今言った筈です」
大納言殿が目をむいて中納言を睨んだ。中納言は黙りこんだ。
「だが、我が妻にとってこの従者は二度と姿を見たくない相手に違いはありません。二度にわたって自分の帳台に忍びこんだのです。出来る事なら正式に流罪にしたいところです」
「まったく、面目もございません」
「しかし我が妻の心情を思うと、私もあまり騒がれたくはない。そこであなたに頼みがある。門番を殺したのは矢で射られた盗賊と言う事にして、兼光の事は内密に願いたい。そして兼光を都から追い払っていただきたいのだ」
「兼光を、追い払うか……」
「それですべて水に流しましょう。私は穏便に事を済ませたいのです」
中納言が倒れている兼光の方を見ていると、兼光は「むうっ」と声を立てながら、ゆっくり体を起していた。
「気がつかれたか」
すぐ横で見張っている忠清がそう声をかけたが、
「我が君、どこにいらっしゃいます?」
兼光はぼんやりとした声でそう言った。目もうつろなままだ。
「兼光。とんでもないことをしてくれたな」
中納言は忌々しげにそう言ったが、兼光はぼんやりと視線をさまよわせている。
「待て、様子がおかしい」
忠清がそう言って兼光の目を見ると、兼光は、
「我が君の目を確かに見たのだ。我が君は亡くなられてなどいなかったのだ! あの姫の目に宿っていた鬼の目。あれこそ我が君の目。あの目に会いたい」
兼光の眼は空をさまよい、その手はどこをつかむでもなく伸ばされていた。
「兼光殿? 兼光殿!」忠清が兼光の身体をゆすったが、兼光は正気に戻らない。
「兼光。気がふれたのか」大納言も中納言も唖然として兼光を見つめた。
「何と、憐れな」忠清も呆然とするばかりだ。
「我が君……我が君……」兼光はそのままさまよい歩き出した。
「あの目、あの目に会いたい。あの目の姫はどこだ?」
そう言いながらも自分がどこを歩いているかもわからずに、同じ所をぐるぐる回るように歩いている。
「兼光。あの目はもう、失われてしまった。お前の主人はもう、あのような目はしておらぬ」
大納言が兼光に向かって言いますが、兼光は、
「いいや。あれこそ我が君の目」と、この時だけは大納言の目を見てはっきりと言った。
「違う。お前の主人は鬼の心に苦しんでいたのだ。だが、もうその苦しみは無くなった。今のお前の主人の目は違う目になったのだ」
「違う目? それはどんな目なのだ? 我が君の苦しみの無い目とは」
兼光はそう言いながら、またその手をどこへとも宛ての無いように伸ばし、空を見つめた。
大納言殿はその様子を見て、奥の仏間へと向かいました。そして一つの巻物を持って戻ってきた。大納言は兼光の前に立つと、その巻物を開いて見せた。
巻物には仏画が描かれていた。慈悲深い、半眼の御仏の絵が描かれている。
「兼光。お前の称える御主人は、ここにいらっしゃる!」
大納言はそう叫んだ。兼光の目が仏画を捉えた。
「これこそ、お前の主人の今の目だ」大納言殿がそう言った。
「お前の主人は鬼の目をして苦しんでいた。しかし、御仏が救ってくださったのだ。これこそ今のお前の主人の目。お前は二度と主人が苦しまぬように、御仏をお助けせねばならぬ。お前の愛する主人のために」
「わが、君のため……」兼光はじっと仏画を見据えていた。そして、
「ああ、我が君。あなたはそこにいらしたのですね? そして私は、再びあなたのお役に立つ事が出来るのですね?」と、頬に涙をこぼした。
「その通りだ。お前は愛する主人のために仏門に入って、お前の主人を救い続けるのだ。きっと、お前の主人は喜んでくれるだろう。次世の世でも、お前を慕って頼りにしてくれるだろう」
大納言の言葉が聞こえているのかいないのか。兼光は仏画に向かって涙を流し、
「我が君。お会いしとうございました。ずっと、ずっと……」
と、仏画の御仏の姿に目を凝らし続けていた。
「大納言殿。これは……」中納言はあっけに取られていた。
「中納言殿。前言を撤回しよう。兼光は都から追わなくてもよい。この者はこのまま仏門に入道させるべきであろう。そうすればこの者は心穏やかでいられる」
「では、この者は都に?」
「兼光は本来従順な従者であったのだろう。従順すぎるために主人が苦しむたびに、当人の何倍も苦悩をしてしまうような者なのだろう。この者は現世で従者として生きるには清らか過ぎる心を持っていたのかもしれぬ。このような哀れな者に、今更罰を与えても仕方あるまい」
大納言は仏画にすがりつく兼光を見つめて言った。
「この者は仏弟子となって、従順な心を満たす事こそが、本当の幸せな生き方に違いない。私は罪人や、不幸な者を作るつもりはないのだ。兼光は思う所があり発心して入道した。それでよろしかろう? 中納言殿」
中納言は兼光の姿に呆然としながらも、
「そうするより他に無いのでございましょうな」と言った。




