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心の船

 北の方の御姿を見て、生駒は慌ててかしこまった。


「ああ、怪我をしている者が、そのように気を使う必要はありません」


 北の方はそうおっしゃいたが、


「いえ。大した怪我ではございません。このたびはこのような騒動に巻き込んでしまい、申しわけございません」生駒は深々と頭を下げる。


「巻き込まれたのはあなたでしょう」


「いいえ。私は姫を守るお約束をしておきながら、もう少しで姫様の御心に取り返しのつかない傷をつけるところでございました。あれは姫様が望んでした事ではございません。私が姫様に手にかけていただきたいと、望んでしまったがための事なのでございます」


「そうなのでしょうね。その点はあなたは軽々しかったのでしょう」


 北の方も否定はしなかった。生駒はこれ以上ないほど低く、さらに頭を下げた。


「でもね、生駒。姫は決してあなたをそれ以上傷つける事は出来なかったと思いますよ。あの、兼光でさえ、傷つけることなど出来ないでしょう。姫の事はあなたの方がよく分かっているはず。その上であの場に飛び出したのではないかしら?」


「いえ。私は本気で姫の手によって命を終えとうございました」


「では、あなたはわたくしが思っているより、粗忽者だったのですね。姫はどなたも恨む事など出来ませんよ。さっき少将殿が教えてくださいました。それどころか姫は、ようやく御自分の苦しみを吐き出す事が出来たようです。わたくし達に助けて欲しいと」


「助けて欲しい?」


「そうです。姫に人を恨む心などありません。姫は長い間わたくしと、あなたと、殿の間で苦しんでこられたのでしょう。ここに雇われたあなたに逃げ場がなかったように、姫も頼るべきわたくし達の誰にも頼る事が出来ず、一人、苦しまれてきたのです。その苦しみをようやく吐き出す事が出来たのでしょう。姫を傷つけたのはあなただけではありません。わたくし達、三人とも同罪です」


「……いいえ、私がいなければ、こんなことにはならなかったでしょう」


 生駒はそう言って首を横に振った。ずっとそう思いながら今日まで来てしまったのだ。


「あなたは本当にそう思っているの? あなたは私をどれほど救ったか分かってはいないのですね」


 北の方は困ったようにほほ笑まれた。こういう表情は姫様によく似ていらっしゃると生駒はぼんやりと思う。


「亡くなった姫と同じ年ごろのあなたがここにやって来て、わたくしはどれほど心癒やされた事か。あなたの母を求めるような瞳が、どれほどわたくしに生き甲斐を持たせ、殿への罪悪感から解放されたか。わたくしが殿を愛する勇気を蘇らせる事が出来たのは、あなたがいたからなのですよ」


 生駒は北の方の御言葉に、どうしようもなく胸が熱くなった。でも、


「でしたら、なおさら私は罪の深い事をしました。その、大切な殿との御愛情に、ひびを入れる真似をしたのですから」生駒はそう言ったが、


「自惚れはおよしなさい、生駒。あなたが入れたひびではありません。わたくしが殿を信じ切らずに傷つけたのです。殿はあきらめてあなたに逃げた。それに目を瞑る事で、私は殿を信じられない心から逃げ出した。わたくしは立ち向かうべきだったわ。そして殿を支えるべきだったのに、それをあなたに任せてしまったの。わたくしの娘同然のあなたは、必ず最後には引き下がる事が分かっていたから」


 そうおっしゃる北の方のお顔に、苦悩がにじんだ。


「ごめんなさいね、生駒。あなたがどれほど傷つくかは分かっていたわ。分かっていながらそうしてしまったのは、わたくしの嫉妬のせいでしょう。あなたの心はわたくしより、ずっと逞しいと思い込んでいたから。あなたなら、殿の御心を癒やせると思いこんでいたから」


「私などでは、お方様の代わりになどなれませんのに」


 生駒は胸の痛みを感じながらそう言った。けれどそれはもう、生々しい痛みではなかった。過ぎ去った痛み。これも隼人のおかげなのだろう。


「そのようね。わたくしは逆に殿を傷つけたわ。そして姫も。本当は姫はわたくしに問いたかったのかもしれません。なぜ、わたくし達を不幸にしたのかと。けれど姫のその苦しみはあなたに向けられてしまった。あなたには申し訳ないけれど、感謝しているの。もし、わたくしが姫に直接問われていたら、わたくし、母として姫に答えられる自信がなかったわ」


「お方様は、どなたも御不幸になどなさっておりません!」


 ようやく生駒は反論した。けれど、北の方は取りあわない。


「そんな事は無いわ。わたくしはあなたや殿や、姫を傷つけました。もちろんわたくしも傷つけられました。あの姫でさえ、わたくし達を傷つけている。姫の御心が優しい分、深く」


 生駒は何も言えなくなった。何を反論しても、お方様の語る真実は重くて、どんな言葉も軽々しく失礼に聞こえそうだ。


「生駒。人はね、心の奥に舟を漕いでいるの。その心はいつも凪いでいる訳ではないわ。さざ波が立つ時もあれば、大波の時もある。嵐の時だってあるでしょう。そのたびに舟はゆらり、ゆらりと揺れて、人も自分も傷つけているの。心はいつも同じじゃない。人を傷つけずに生きられる人なんていないのだわ」


「船には艪も舵もありますわ」


「そうね。でも心の船を操るのは決して簡単な事ではないわ。心が荒ぶる時など漕ぐどころか、しがみつくだけで精いっぱい。そんな時は他人の船にもぶつかったり、乗り上げたり。どうしても傷をつけてしまうわ。けれどね、きっと人は誰もが舟泊まりにもなれるの」


「心の船は舟泊まりを求め、漕ぐのでしょうか?」


「そうかもしれないし、違うかもしれない。けれど、船には確かに泊まるところが必要でしょう。人を傷つけずに生きられない以上、人は誰かの船を受け入れなければいけないわ。自分も誰かに受け入れられて生きて行くのだから。わたくし達が皆傷ついてしまったのは、皆が誰かを受け入れたから。誰に罪がある訳ではなくて、誰もが助けあって生きている証しなのでしょう」


「悲しいことですね。傷を避けられないなんて」


「そう。だからこそ人は人を愛するの。傷つけ合いながら愛するの。わたくしもあなたを娘のように愛していたわ。あなたに残酷なお願いまでして深く傷つけながら愛していたわ。少将殿が姫におっしゃっていたの。苦しみと憎しみは違うと。私はあなたの事で苦しんだ事はあっても、憎んだ事はないわ。あなたもそうだと良いのだけれど」


 いつの間にか生駒の目に涙がこぼれ落ちていた。自分はこの御家族を自分の家族の代わりに思い、愛することで心を埋め合わせてきた。けれどどこかでかりそめの思いに疲れも感じていた。決して加わる事の出来ない御家族に、思いを寄せて埋め合わせる心。そのむなしさと隣り合わせで生きる自分に疲れていたのだ。


 けれど、その思いは一方的なものではなかったのだ。少なくとも北の方は生駒を娘のように思っていてくださった。生駒が母のように慕った北の方を裏切ることに苦しむ中、北の方も生駒を頼った事に苦しんでいたというのだ。その事で姫が苦しんだという事は、姫も同じように生駒を家族のように親しんでくれていたのだ。生駒が思っていたよりも、もっと深く。


「わたくし達にはあなたが必要だった。あなたという舟泊まりがいたから、わたくし達は揺れる船の上で傷つけ合いながらもやってこれたの。そして分かりあえる事も出来た。命を大切にして、生駒。あなたは私の心の中では娘だわ。嫉妬も感謝も、すべて含めてね」


「お方様も、姫様も、何とお優しい……」生駒はそう、言いかけたが、


「優しいのではないの。娘と思ってしまった以上、何があっても心のどこかで愛さずにはいられないのよ」



 私はなぜ、この方に敗北感など感じたのだろう? 雇われる身であることを嘆いたのだろう?

 苦しみも嫉妬も、この方を愛するが故の事だったのに。私の心は確かにこの方を、母と慕っていたのに。



 大納言殿の事から離れて、この方の御心に沿って考えてみれば、生駒は本当にこの方を慕っていたのだった。


「私が姫様をお守りしたいと思ったのは、姫様がお方様の御娘でいらっしゃったからですわ。大納言殿の娘でいらっしゃったからですわ。私も苦しんだ事はあっても、どなたも憎んだことなどございませんでした」


 生駒は素直にそう言えた。ようやく生駒はこの方を慕う心に戻る事が出来た。


「お慕い申し上げております。お方様も、殿や姫様も」


「ありがとう。生駒」


 そう言って北の方は深く頷かれた。

 





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