救い
「あなたは生駒を本気で憎んだりは出来ませんよ。私は知っています。あなたが生駒に振るった刃は、生駒に振るったのではなく、御自分の弱い御心に向けて振われたのでしょう」
少将は姫に言い聞かせるように、語りかけた。姫は嗚咽をこらえてその御言葉を聞き洩らさないようにしているようだった。
「あなたが憎んだのは生駒ではない。もちろん、大納言殿でもない。御自分の悲しみをどなたにも明かせなかった、御自分の御心を憎んだのです。あなたは生駒と大納言殿の事で苦しんでいる事を、私にすら打ち明けてはくださらなかった。どんな喜びも、悲しみも、我儘も、すべてを共に分かち合いたいと私は思っておりましたが、あなたはそれを許してはくださらなかった」
「それは、白楽天の君のせいではありません。わたくしが、自分の心の醜さに気づくのを恐れたせいです」姫は衣を引きかぶったままそう言った。
「桜花の君。どうか御自分の手でその衣を外して、顔を上げてはくれませんか?」
「……嫌です」
「あなたは決して醜くなどありません。その御心も、お姿も。あなたは以前この邸で私が舞を舞った時、美しいと思って下さったそうですね。私はあの舞をあなたが舞う姿を夢で見ました。あなたの御心の清らかさそのものの、しなやかで美しい舞でした。私はそれを真似るつもりで舞を舞った。あれがあなたの真実の御心です。今、生駒の心を死ぬほど心配なさっている、その御心があなたの本当のお気持ちなのです」
「でも、わたくしは生駒が私の前に出た時、本当に苦しかった。生駒だけではない。父上や母上、わたくしのことを苦しめるすべての事が辛かった」
「それはお苦しみであって、憎しみではありません。こう申してはなんですが、朝廷など本物の憎しみがいくらでも渦巻いています。姫のそれは憎しみではない。御心に任せぬ事へのお苦しみ。御心が美しいが故のお苦しみなのです」
御返事のない姫に、少将はそっと衣をめくる。
「さあ、顔を上げて。その美しい姿を私に見せて下さい」
姫は恐る恐る顔を上げた。その顔にはいく筋もの涙の跡が涙河のように光っていた。
「でもわたくしは分かっていました。生駒の心が。生駒にはどこにも逃げるところがなかった。父上に雇われ、母上に育てられ、わたくしと友情を分かち合ってくれた。それだけに彼女はどうする事も出来なかったわ。わたくしより、ずっと、ずっと苦しんだはずなの。分かっているの。すべて分かっているのに、わたくしは……」
「それは憎しみではありません。鬼の心などでもない。いや、もし鬼だとしてもこんなに悲しく美しい鬼を、誰が疎んだりなどするものでしょう? 桜花の君は生駒の存在をすべて消してしまいたいと思われますか? これまでの思い出のすべてまでを」
少将の優しい瞳に見つめられながら、そう問われて、姫は答えた。
「いいえ、いいえ。白楽天の君。私は決して生駒を消し去ったりは出来ないわ。彼女がこの先どこに行こうとも、何をしようとも、共に育った日々はわたくしの宝物だわ」
「そうでしょう? あなたはそう言う方だ、桜花の君。人の痛みや苦しみが分かり、それゆえ御自分も苦しまれる方だ。あなたは鬼になどなれぬ。あなたは生駒を憎んでいると思いこまれただけなのです」
「なぜ、そのように言いきれますの? わたくし自身でも、自分の心を計りかねておりますのに」姫は心細そうにそう言った。
「あなたが私を愛して下さっているからです。あなたは人を愛し、信じる御心を持っている。何より愛する人を理解しようとして下さる方だ。それは私だけにではないはず。生駒にも、誰に対しても、誰よりも理解しようと努めて下さる方です。そんな方が本当に鬼になどなれるわけがないではありませんか?」
「……あの時、わたくしが生駒を刺していても?」
「あなたはそんなこと、出来ません。あなたは力が抜けたとおっしゃるが、それは違うと思います。あなたが自分の御本心と違う事をなさろうとしたから、あなた自身の御心があなたを止めたのです。お苦しみから惑われた事に、振り回されてはいけません。私の知っている桜花の君こそ、本当のあなたの御姿なのです」
「白楽天の君の御存じなわたくしが、本当のわたくし」
「そうです。私の知っている姫は、今ここにいます。私を愛して下さっている姫です。あなたに、人を憎む心などありません」
「白楽天の君……。あんなわたくしを見てしまった後でも、あなたはそんな風に言って下さるのね。醜く、恐ろしいわたくしを見ても」
また、うつむこうとする姫を、少将はその手で顔を上げさせた。
「いいえ。少しも醜くなどありませんでした。恐ろしくもない。悲しく、苦しげなお姿を見て、早くお助けしたいと思っただけです。私はあなたを救えませんか? 桜花の君」
姫は再び涙をあふれさせ、少将の胸に寄り添った。
「ありがとう。白楽天の君。あなたはもう、わたくしを救ってくださいました。あなたの御心がわたくしを助けて下さる。わたくしも、生駒を助ける事が出来るかしら?」
「ええ、きっと。救われる喜びをあなたが御存じになったのだから」
姫はホッとした表情をようやく見せた。
「今はお休みになるといい。そのうち生駒も目を覚ますでしょう。生駒に伝えたい事は、その時にお伝えになればいい。あなたと生駒の間柄なら、きっと思いは伝わることでしょう」
少将がそう言うと、姫も安心したように横になられ、間もなく安らかな寝息を立てられた。それを見届けると北の方が少将に声をかけられた。
「ありがとうございます。姫を落ち着かせて下さって」
「いいえ。本当の事を言えば、姫のお気持ちをそれほど分かっていたか自信は無かったのです。でも、こういう風に言わなければ、姫の御心が壊れてしまわれるでしょう。御納得いただけて良かった」
「そんな事はありません。少将殿の方が親のわたくしより姫の事を分かって下さっていて、大変頼もしく思えました」
「ほとんどが、今姫を見ながらの思いつきですよ。真実を知ったら桜花の君は私を軽蔑するかもしれません。それでも、それで姫が救われるのなら」
「わたくしは少将殿の御言葉が姫に届いたのではないと思いますよ。御言葉の奥にある、姫を思って下さる御心が、姫に届いたのです。親がしてやれなかった事をあなたはして下さいました。感謝の言葉もございません」
「滅相もない。私が姫の心に早くに気が付いていれば、姫をこんな風に苦しめる事は無かったのです。生駒も苦しまずに済んだでしょう。……生駒は大丈夫でしょうか? 彼女もかなり動揺したはずですが」
「ええ。様子を見てまいりますわ。少将殿は姫をお願いします」
そう言って北の方は、北の対へと戻って行かれた。
生駒はようやく目を覚ました。肩の傷は少し痛みんだが、それほどの深手ではない事は、察しがついた。起き上がるくらいには差し支えがなさそうだ。
「役人たちはどうしたの? 姫は? 大納言殿は?」
生駒は身を起こしつつ尋ねた。傍にはやはり、隼人がいてくれた。
「生駒、大丈夫か? 無理に起きる事は無いぞ。姫君は東の対でお休みになっているし、大納言殿は中納言と交渉中だ。兼光の起こした事と身柄を引きかえに、ここで起ったことを他言しないように説得しているのだろう」
「大丈夫。姫様は、私を手にかけはしなかったのね。良かったわ」
「ああ。あの姫君が、こんなことをするとは思わなかった」
隼人は意外そうにため息をついたが、生駒は、
「いいえ。いつ、こうなってもおかしくは無かったわ。私がいなければ、大納言殿の御一家はもっと別の人生を歩まれていたかもしれないの。私は姫様をこんな風に追いこんでしまった。これで私が死んでいれば、姫様の御心が壊れるところだった。姫様は、よく最後に堪えられたわ。私はもう少しで姫様に取り返しの出来ない事をするところだったのよ」
「まったくだ。お前は簡単に死を覚悟してしまう。それで傷つくのはお前ではない。お前を想う人々の方なのに」
「ごめんなさい。私、逃げ癖がついてしまっているの。大納言殿に持っていた想いからも、姫様をお助けする責任からも。ついには隼人からも逃げ出したし」
生駒は隼人から視線をそらした。
「何の。俺はお前を逃がしはしない。逃げられるものなら逃げてみろ。俺がお前を慕う人々のもとに必ず連れ帰る。お前は自分が愛される自信が足りないようだが、今に分かる。お前と共に過ごした方々が、どれほどお前に感謝しているか。お前がこの邸にいた事で、あの方々の心がどれだけ救われていたか知るべきだ。大納言殿との男女の事ではない。お前はもっと深く、あの方々の心を助けていたのだ」
そんな話をしている所に、北の方がいらっしゃった。
「ほら、お前を大切に思っていた方が、お一人いらしたぞ」
隼人はそう言って、北の方の御姿を見ないように気をつけながら、端の方へと下がっていった。




