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醜い心

 姫の叫び声がとどろく中、どやどやと人が北の対に向かって来る気配がした。


「一体ここで何事が起っておるのだ!」


 役人の一人が部屋に入り、そう言ってはいるが、さすがに御帳台がある御簾のうちにまでは押しかけようとはしなかった。隼人が御簾越しに見ると役人たちの中に忠清がいるのが見えたが、御簾の中に隼人のいる見当がついているのだろう。忠清は御簾のどことも知れぬ方に向かって、小さく頭を横に振った。役人を抑え続ける限界だったと言いたいのだろう。


「中納言殿の所の従者が私怨から我が妻を襲おうとしたのだ。従者はこちらで取り押さえているが、ここには妻と我が姫がいる。御簾のうちに立ち入って頂きたくはない」


 大納言がそう言って、役人を制した。高貴な女人達のいる御簾のうちには、役人たちも無理に押し入ろうとはしなかった。


「従者の身は私が預かっている。早急に中納言殿をお呼びいただきたい。中納言殿とは折り入ってお話したい事がある。この従者の身柄をどうするのかは中納言殿と話し合って決めたいのだ」


「しかし、邸に侵入し、狼藉を働いた者をこのまま我々役人が放っておく事は出来ません」


「それならば忠清殿、私と共にこの者を見張って下さい」


 そう言って隼人が兼光を背負うようにして御簾の端から出てきた。兼光は当て身でもくらわされたのか、気を失って力なく隼人に背負われていた。隼人の烏帽子もないまま女衣を無造作に羽織った姿に役人たちは唖然としたが、隼人は悠々と


「御覧の通り、この従者は今は抵抗できる状態ではない。大納言殿が中納言殿とお話しされている間は、二人で大丈夫だろう。高貴な方々の事情あってのこと。役人は下がられた方がよろしいでしょう」と言った。


 北の方は御自分の表着うわぎを脱いで、生駒に着せかけた。


「典薬を呼びなさい。わたくしの女房が侵入者に斬りかかられて怪我をしています。姫の婿君が血止めをして下さっていますが、早く手当てをする必要があります」


 そう言われて邸の典薬が慌てたように御簾に入っていく。典薬は生駒の姿を見て驚いたが、北の方が声をあげぬように視線で制した。


 役人たちにも典薬が御簾の内に入る時、几帳でお顔を隠した北の方や少将殿に身をかばわれた姫君らしき後姿、美しい衣を羽織った豊かな黒髪の女房らしき女人が倒れている姿がちらりと目に入った。


「姫君が御動揺なさっている。東の対にお連れしたい。このままではお姿を御隠し出来ず、失礼であろう。役人は下がって頂きたい」


 少将がそう言うと、ついに役人たちは御簾の前から立ち去っていった。


「姫、さあ、戻りましょう」


 少将がそう言って姫を連れ出そうとしたが、


「生駒が、生駒が」と、姫はうわごとのように言って動こうとしない。


「生駒は大丈夫です。傷は決してそんなに深くは無いはず。私もお止しましたし、それほど力が入っていたようには見えませんでした」


「力を抜いたのではないの。急に力が抜けてしまったの。そうでなければ」


「言わなくて良い!」少将が姫の言葉を遮った。


「そう言う事は言わなくて良いのです。生駒は大丈夫です。戻ってお休みになられて下さい」


「いいえ。そうでなければ、わたくしは……」


 姫は最後まで言い切ることなく、気を失ってしまった。少将はとっさに姫を抱きとめた。


「いいのです、姫。今はすべて忘れてお眠りください」


 少将はそう言って姫を抱えて生駒を診ている典薬に尋ねる。


「傷はいかがでしょう?」


「傷その物はそれほど深くはありません。御心の乱れで脈が速くなっておられますから、それさえ落ち着かれれば目を覚まされるでしょう」


 それを聞いて大納言は立ち上がると、


「生駒はこのままここで休ませてやろう。そろそろ中納言殿が来られるはず。忠清、兼光を担いでついて来てくれ」と忠清に声をかけた。


「それなら私も」隼人はそう言ったが、


「お前は生駒についていてやってくれ。第一その姿で南の廂の間に来られても困る」


 と言われてしまった。


「生駒も姫も、私のために心に大変な苦悩を背負っていた。しかし私は二人の立場を守ってやるぐらいしかできない。八千代、姫の傍にいてやってくれ。私では姫を傷つけるばかりだ。隼人は生駒の心を助けてやって欲しい。もう、私は生駒に関わるべきではないのだろう」


 大納言はそうおっしゃって、寝殿の南の廂の間へと向かわれた。



 姫が気がつかれたのは少将が姫の身を東の対に運ばれて、しばらく経ってからの事だった。大納言に言われたとおり、北の方も少将と共に姫の傍らに寄り添い、姫の様子を見守っていた。


「お母様……」姫はまだ覚めきっていない目をして、北の方を見ていた。


「気がつかれたのですね? 安心なさい。母はここにいますよ」


 姫はしばらくの間ぼんやりとしていたが、やがて、


「母上、生駒はどうなりました?」と、切羽詰まった口調で尋ねた。


「それほど深い傷ではありませんでしたよ。北の対で、あのまま休ませています。落ち着いたら目を覚ますことでしょう」


「目を覚ましたら、生駒はどれほど悲しむことでしょうね」


 姫が暗い声でそう言った。


「姫のせいではありません。あなたをそこまで追い込んでしまったのは、わたくしと殿が親として至らなかったせいです。もっとあなたの心に気を配っていれば、あなたをこんな風に苦しめずに済んだはずです」


「違う。違うのよ母上。わたくしは」


 言いかけて姫の視線が北の方の隣にいる、少将に止まった。


「白楽天の君。……わたくしを見ないで!」


 姫はそう叫んで、かけられていた表着うわぎを伏せたまま頭まで引きかぶった。


「姫、どうなさいました?」北の方がそう尋ねたが、


「わたくしをこれ以上見ないでください。わたくしの鬼の姿をあなたに見られてしまいました。醜い心があらわになった姿を、あなたの前でさらし、生駒を傷つけてしまった。こんなわたくしを、御覧にならないで」


 姫はそう言いながら小さく震えていた。北の方が姫の表着を引きはがそうとしたが、少将がそれを止める。


「桜花の君。あなたは御自分の御心が醜いなどと、本気で思われておいでですか?」


「あなたは、本当のわたくしを知らないのです。わたくしも知らなかった。自分の中にあれほど醜い心があるなんて。ずっと知らずにいたかったのに、あの時わたくしは自分の本心を知ってしまったのです。わたくしの心には、鬼が宿っていたのです」


 姫は衣を引きかぶったまま、顔も見せずに言いう。


「桜花の君は鬼になどなれはしませんよ。きっと、私の方があなたの御心は知っていると思います」


「そんな事は無いわ! わたくし、あの時本気で生駒が憎かったの。あの言葉が本当のわたくし。その、本当のわたくしに気がつかせてしまった生駒が、一層憎かったの。あの、兼光と言う従者よりも憎かった。生駒はわたくし達のために、何もかも捧げ続けてくれたのに」


 姫の声はすでに泣き声に変わっていた。


「あの瞬間、わたくしは確かに鬼になったわ。刃物を振り上げた時、少しも力を緩めようとは思わなかったの。本気だった。わたくし、本気で生駒を……」


 姫はそう言ううちに言葉を失い、ついに泣き崩れてしまった。聞いていた北の方や乳母が、顔色を真っ青にしている。少将はそっと衣越しに、姫の身に触れた。





 

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