美しい鬼
わたくしはどうすればいいの? どうしたいの?
姫は頭の中を疑問で満たしたまま、身体だけが北の方に向かって行く。その時北の方に刃を振りかざす兼光と目があってしまった。
兼光の表情は鬼の顔のままだ。鬼の顔。恐ろしい顔。そしてとても悲しい顔。
姫はじっと兼光の目を見つめていた。姫の表情には何の感情も見えなかった。ただ、呆然としたまま、何の恐怖も感じていないように兼光の前に立ち尽くした。
見つめられた兼光も、何か得体の知れない生き物にでも出会ったように、戸惑った顔で動きを止めていた。姫は、まるで子供のように幼い、あどけない顔で無心に兼光を見つめている。このままほほ笑んでいいのか、火がついたように泣き叫べばいいのか、分からずにいるような顔だ。
そんなあどけない顔のまま、姫は兼光の小刀を握った。その指が刃先に触れ、一筋の血が流れ落ちた。
「痛い……」
姫が呆然としたままつぶやいた。言葉とは裏腹に何の感覚も感じていないような顔で。
その間も姫の目は兼光の目を捕えていた。
これは鬼の目。鬼の顔。
兼光が姫の言葉に弾かれたように手を離した。明らかに姫に脅えていた。姫は目を開いたまま意識を失っているかのように小刀を持って立っていた。
兼光が何故か北の方を離し、一歩後ずさりた。まるで信じられない物にでも遭遇したように。ようやく姫の視線が兼光から外される。
あれは鬼の目。どうしてわたくしはそれが分かるの? 鬼など会った事もないのに。
姫は自分の手の中にある小刀を見つめ、その切っ先を兼光に向けた。兼光は我に返った。
「姫君。あなたのような人でも、心に鬼を住まわせておられたか」
兼光は驚きの表情でそう言った。
鬼? 私の心に鬼がいる? そう、私は長く心に子鬼を住まわせていた。今までは子鬼だったけれど子鬼は姿を消した。子鬼はいつまでも子鬼のままなのかしら?
姫は刃を兼光に向け、兼光は驚きの表情のまま姫を見つめていた。周りのだれもがそれをただ、身じろぎもせずに息を飲んで見ていた。まるで時が止まったかのようだ。
「そう、鬼です。その目の中に居るのは」兼光の目に初めて脅えの色がにじんだ。
それを見て隼人が兼光に矢を射かけようとした。生駒がそれを慌てて止める。
「駄目よ隼人。兼光殿を殺せば隼人も罪を問われる。盗人を射るのとはわけが違うわ。少将様の御立場は? あなたの養父の身はどうなるの?」
そう言われた隼人も弓を下ろした。
「鬼……」
そうつぶやいたとたんに、姫の心に感情が戻ってきた。それは熱く、突然に湧いて出た様な思いだった。
この男はお父様を憎んでいる。とても激しく。そしてお母様を傷つけようとしている。とても深く。そして今、わたくしにとても脅えている。
姫は急激に怒りを感じた。自分が鬼の目になっていくのが分かった。
わたくしにこの男の目が移ってしまったのかしら? だからこの男がこんなにも憎らしいのかしら?
憎い。これが憎しみと言う心。何故かしら? もうとても長い間、この心が外に出たがっていたような気がする。懐かしい心にようやく巡り合ったような気がする。
この心は人から移ったものではないわ。これは私の心。ずうっと、わたくしとと共にあった鬼の心。そう。わたくしは鬼の心を持っていた。そして育てて来ていた。今、私の中の鬼が育って、出てこようとしているんだわ。
兼光は言いう。
「人など所詮、すべて鬼なのだ。このような姫ですらその目に鬼を宿している。鬼の心が北の方に我が君へ一言の慰めの言葉も与えずに、我が君の心を傷つけたのだ。鬼の心が我が君に、北の方を奪わせようとしたのだ。いや、一度は我が君はこの方を奪った。それを大納言は鬼の心で悔しく思っているのだ」
「おやめなさい!」姫の甲高い声が邸に響き渡った。
「これ以上、一言もしゃべることを許しません! さもなくば……」
「さもなくば、私を鬼の心で殺すのですね?」兼光は勝ち誇ったように言った。
「そんな事は無い! 姫はそんな事はしない!」
今度は少将が東の対から駆け込んできた。
「何をしている? 早く兼光を捕えよ。姫、こちらにおいで下さい」
少将の言葉に、皆我に返ったような顔で兼光に近づこうとした。ところが姫はその目を兼光に向け、小刀を振りかぶり兼光に襲いかかろうとした。長い髪と美しい衣がひるがえる。
私は憎い。父上と母上を長く苦しめたこの男が憎い!
「姫様、いけない!」
まさに斬りかかる直前に、生駒が前に立ちはだかった。
「この男、姫様がそのような事をして、御心傷つくに値する者ではございません!」
けれど姫は自分を何故か止められない。
「値しないのはあなたも同じよ生駒! 父上をたぶらかし続けて! 母上を傷つけ続けて! あなたがわたくしの心に、鬼を住みつかせさせたのよ!」
姫は生駒の目の前に刃をかざしたまま叫んだ。生駒は凍りついたようになった。
一時、姫と生駒の間に沈黙が流れた。空気が凍りつき、姫は生駒を熱い憎しみの目で睨んでいた。けれど姫は心の中で別の事を叫んでいる。
誰か、わたくしを止めて! 生駒をこれ以上傷つけないで!
「あなたさえいなければ、わたくし達は、分かりあえたかもしれないのに!」
こんな事言いたくはない。誰か止めて!
「生駒と父上がわたくし達の間を、めちゃくちゃにしたんだわ……」
お願い! 止めて!
生駒はにっこりと、けれど悲しげにほほ笑んだ。
「姫様の手に掛かるのなら、本望でございます」
生駒。そんな事言わないで。わたくしを止めて!
姫の握りしめた小刀が、ついに生駒に振り下ろされた。生駒の髪をくくっていた紐が切れ、その豊かな黒髪がいっぱいに広がった。粗末な褐衣を身に付けていても、その姿の美しさのなんの陰りにもならなかった。
美しい生駒。この美貌で父上は……。刃が生駒の肩に触れようとした。その時、
「それでいいのかい? お姫さん」
突然、あの子鬼の可愛らしい声が姫の頭に響いた。姫が刃を握った手を止めかけたその時、後ろから誰かに抱きすくめられた。姫は後ろを振り返る。
「白楽天の君……」
「やめるんだ。桜花の君」
止めてくれた。ようやく私を。白楽天の君が。でも。
次に姫が生駒の姿を見た時、生駒は肩から血を流し、隼人の腕の中に崩れていた。姫の手から握りしめていた小刀が落ちて行く。
「い……いやあああああ!」
姫は気がふれるばかりの声を上げ、叫んでいた。
このお話の設定を十五夜から明け方に設定しましたが、この頃の人は「月」は「尽きる」に通じると考え、太陽のように常に輝くのではなく、満ち欠けがある事から不吉さも感じ取っていたようです。
「ロミオとジュリエット」でも、ジュリエットは日ごと欠けゆく月に愛を誓わないで欲しいとロミオに言っています。
それどころか西洋では「月」と言うのは狂気の源とまで思われていたそうです。
とても美しい天体なのですけれどね。




