予感
姫君は御成長とともに活発になられ、他の赤子よりも這うのも、立ち上がるのも、お歩きになられるのも早いお子様だった。じっとしておられる事が無く、北の方や乳母を困らせてばかりで幼かった生駒もよく振り回されていた。
それでも生駒は誰よりも一生懸命に姫君の御世話をした。大事な北の方様の宝物である姫君は、生駒にとってもかけがえのない方になっていたから。
姫は好奇心おおせいで、とんでもない所に潜り込んだり登ったりしては周囲を困らせたが、勘の鋭い生駒は姫の居場所をすぐ察して、乳母に怒られないように先回りして姫をお諌めしていた。生駒と姫君は本当に仲の良い姉妹のように育ち、それは北の方や乳母までも、ほほえましく見守っていた。
そして生駒が姫付きの女房の中で、乳母に次いで最も姫に近しい人物として、皆に認めさせてくれた。邸の外でも北の方の寵愛深い女房である生駒の手(筆跡)の巧みさ、身にまとわせる独自の香の香りのかぐわしさ、女房達の噂では大変な美女であるらしいことが評判となって行った。
姫が十歳になられると、当然姫に淑女になって頂くための御教育が始まった。
立派な淑女になって頂くために、まず姫の姿は父親以外の男性の目から隠されなければならなかった。ましてや姫より身分の低い者に姿を見られたりなど、決してしてはならない。
姫は邸の奥に居るように見張られ、格子や御簾はいつでも下ろせるようにされ、姫の周りは常に屏風や幾重にも取り囲まれた几帳がめぐらされるようになった。
それまで自由に出る事が出来た庭も、決して地に足をつける事のないようにと厳格に言い含められた。立ち歩くどころか薄縁(置き畳)から立ち上がる事さえ禁じられるのだ。気軽に庭に出るなど論外だであった。そして和歌や筆跡の手習いをこれまで以上に習練させられる。琵琶の得意な父上から、直接御指導も受けられるようになった。
筆跡の手習いと和歌に関しては、生駒が姫に教えることになった。今では生駒は誰にもひけを取らないほど、手(筆跡)が上達していたのだ。「古今集」も一通りは頭に入っていた。
ところが生駒は姫の聡明さに舌を巻くこととなった。姫の御手はどうしても力が入り過ぎたり、筆跡が固くなってしまう癖が抜けないのだが、「女らしい字」にこだわらなければ、むしろ個性的で美しい方に入るのではないかと思える書体だった。
驚くべきは物覚えの良さの方で、生駒があれほど懸命に習い憶えた古今集を、姫は次々と空んじてしまうのだ。それどころか拾遺集までほとんど覚えられてしまわれた。
万葉集にも御興味を持たれ、伊勢物語に夢中になられた。ついには漢詩まで読みこなされるようになってしまう。これには生駒は困ってしまった。漢詩は男達の世界の物で、女が、しかも深窓の令嬢が好んでしまうのは喜べないことだ。世の人々はそういう女性を「さかしらげな女」と快く思わないのだ。特に年配者はそういう女性に辛らつだ。
だが本当は生駒は姫のそういう所を慕わしく思っていた。何を教えるにも教えがいがあったし、何より姫自身の輝くような才と、それを映し出すような瞳がたまらなく生駒は好きだったから。
「姫様。そのように物語や漢詩に熱中なさるのはよろしくないことです。漢詩をばかりを書き写したりなさっているから、筆跡が固くなるのですわ。もっとかな文字の練習をしていただかないと困ります」生駒はため息交じりに姫に小言を言った。
「知られてしまっていたの? やっぱり生駒は勘がいいわ。こっそり書き写すようにしていたのに」
「漢字はつつしまやかな女君には似合わない文字です。それに漢詩や物語に夢中になられるのもよろしくありません。この邸には美しい絵巻物も沢山ございますのに」
「だってわたくし、絵を見るより物語を読む方が好きなんですもの。それに本当は和歌より漢詩が好きなの。ハキハキしているし和歌より物語に近い気がするの。それにせっかく覚えた和歌だって全部を詠み聞かせては、はしたないって言うじゃない。短い歌のほんの欠片しか口にできないなんて」
「それが良い女君と言うものですわ」
「女君なんてつまらないわ。この頃は舞すら舞わせてもらえないじゃない」
立つことが禁じられるのだから、舞を舞う事も良いとは言えない。舞をお好みの父上のために許可をいただけた時に僅かに許されるのみだ。もともとが活発な姫君だけにその苦しみは相当なものだろうとは、生駒にも察せられた。
「けれど姫様。このままではその物語も、漢詩の詩集も、いずれ乳母か古参の女房に取り上げられてしまいますよ。そんなに固い文字ばかり書いておられれば、いつかは勘づかれましょう」
「そんな! 外の世界どころか、庭にも出れず、舞も舞えず、この上最後の楽しみまで奪われたら、私はどうやって生きていけばいいの?」
姫は顔色を変えて嘆いた。生駒にしてみれば外の世界など知らない方が良いと思えたが、姫にとっては広い世界はただ、憧れの広がる世界でしかないようだ。ほとんど邸の内か、牛車に乗って僅かに寺などにお参りに行くより他に、外を見ることなど無いのだから。
生駒にとっては邸の中の方がずっと平和で美しい世界だった。外は広く、美しくもあるが、残酷で、人は皆空々しく薄情で、捨て子や孤児、遺体が多数転がる世界だ。そして人さらいや人殺しが素知らぬ顔で人々の中に入り混じっているのだ。
正直、生駒も幼いころは自分の身の不運を嘆く時もあった。特に母を殺されたあの日のことが悪夢となって現れる夜など、幾度となく飛び起きた。この邸のように子供を求めるところがなければ、自分はこのような目に合わずに済んだのではないかと考えもした。
しかし、使いを言いつかって一歩邸の外に出ると、世の中は想像以上に厳しかった。自分のようにさらわれた子が邸でこき使われていることなど、ごく普通の事だった。悪党にとって子供は金品と同様のもので、狙った獲物以外の命は芥子粒よりも軽いのだ。世の中には貧しさから子を失う親や、親に捨てられる子、親を殺されて売られる子など、掃いて捨てるほどもいた。生駒のように身元が知れない子供が大切に扱われることなど、ごくまれな事だったのだ。
それに比べれば安全な邸の中で何の不安もなく、穏やかな人々の中で暮らす事はとても素晴らしい事に思えた。姫にはそういう人生だけを歩んでいただきたいと思っている。
ただし自分は別だ。自分には憎しみと言う感情が住み着いてしまっている。外の世界にどんな恐怖と凄惨さが隠れているか知ってしまっているから。それがどうしても許せないから。
「大丈夫です。生駒が上手く隠しておきましょう。ですから姫様はかな文字を早く上達なさってください。ですが姫様、御心の中では自分に嘘をつく事はありません。御心は御自分の思うままでいらしてください」と言っておいた。
そうすると姫は本当に嬉しそうな顔でほほ笑まれる。生駒はここに来たあの日からずっと昔の自分は忘れたふりをして生きなければならなかったので、心の自由の大切さを知っていた。姫もそれを理解しているのだと思うと、共感と親しみを覚えてしまうのだ。
それに実は姫の乳母は薄々姫の愚行に気付いているようだった。いくら生駒が姫の行動を言い繕っても、姫を我が子以上に生まれた時から育てた乳母はごまかしきれるものではない。何より乳母は姫のことを案じている。姫に厳しく小言を言うのも愛情からで、生駒が心から姫を慕っていることも乳母には分かっているのだ。
だから乳母は生駒の献身に免じて、姫が生駒に甘えることを許している。そして自分が憎まれ役となって、姫の健やかな成長を助けている。生駒もそれが分かるので、わざと姫に乳母の心を伝えずにいるのだ。
それでも賢い姫は乳母の愛情を理解できていることを承知しているからなのだが。
活発で侍女や北の方を困らせていた姫も、生駒や本人の努力の甲斐あって、時とともにおとなしやかな姫君になっていった。侍女達はようやく姫君も幼さが抜けて来て落ち着かれたと喜んでいたが、生駒は以前の活発な姫様の方が明るい瞳をしていたと思い、あまり喜べないことだと思っていた。その頃から姫君はようやく大納言に御出世された父上によそよそしくなり、母上にはお声をかける機会が少なくなっていたのだ。
決してご両親を疎むとか、お嫌いになった訳ではないようなのだが、何か御両親に壁を作ろうとしていらっしゃるように生駒は感じていた。でも、姫様は生駒にも誰にも御相談されるご様子がないのでこれは他人が立ち入ってはいけない事なのだろうと思い、姫様の御心深くまで分け入るようなことはしない事にしていた。生駒自身があの日の出来事を封印してきたように。
ある夜、姫君が切羽詰まったようにこっそり生駒に告げた。
「生駒、お願い。出来る事なら今夜お父様に使者を使わせないで。誰にも、なんの伝言もさせないで欲しいの」
「そのような、無理な事は出来ませんよ。御父上様には大切なお仕事がたくさんあるのですから」
「でも嫌なの。今夜は嫌。お父様に言っても通じないの。どうしよう」
「一体今夜、何があるというのです?」
そう聞くと姫はきゅっと口を結んで黙りこんでしまう。
「何もご心配な事はありませんよ。ちょっと、生駒が御父上の所に行ってみましょう。御伝言はございますか?」
「……今宵は胸が騒ぐので、お父様もつつがなくお過ごし下さいと」
「かしこまりました」
生駒は姫の御様子に違和感を持ったので、姫の御伝言を口実に大納言殿の所へ御様子をうかがいに行くことにした。この頃姫君のお暮しになっているのは東の対で、大納言様と北の方様がお暮しになっている寝殿とは少し離れていたので、結構歩かなくてはいけない。
ようやく東の対の建物を抜け、渡殿を月明かりの下で歩いていくと、渡殿の途中で人影が二人何やら話している気配があった。こんなところだから誰かの逢い引きに出くわしたのかと思い、生駒は足を止め、じっと気配をうかがっていた。
「では、今夜は大炊御門の邸を狙うのだな?」
「さようです。例の盗賊達が狙う前に」
「あの家はこのところ羽振りも良く、朝廷への献上も華々しくなっている。この辺で潰しておく方が安心だ。モノはいつものように三条の別邸に置くように。人売りもどきの盗賊にやられぬうちに、こちらの手にしておくのだ。もちろん奴等の動きもつかんでおけ。決して我が邸に賊が襲ったりできぬように。隙を作るでないぞ」
「かしこまりました。おおせのとおりに」
このお声はまぎれもなくこの邸の主、大納言様のもの。この会話はどういう事だろう? そう言えば私は人買いの男に買われ、この邸に売られたのだ。大納言様は子供をかどわかして人売りをする盗賊の存在を知っておられる。
生駒は呆然とも、愕然ともしてしまい、その場に立ち尽くしていた。使いの男が去ると、大納言様は生駒の方に何気なさそうに振り向いた。そして大変驚かれているのが、暗くて表情が見えない中でも感じ取れた。少し生駒の方に足を進めると、
「生駒であったか。今の話を聞いたのだな?」
生駒は返事が出来なかった。今まで必死で生きて来たのに、ここでついに自分の命も終わるのかと絶望的な気持ちにしかなれなかった。
隼人。あの子は今、生きているかしら? もし生きていれば彼は自分の口さえつぐんでいれば生き延びられるわ。同じ秘密を持っていた私がこの世から消えるのだから。
そう思いながら生駒はただ、逃げるでもなく、脅えるでもなく、観念したようにそこに立ち尽くしていた。