説得
男はさっきのように痺れを切らした時とは違い、身体ごと突っ込んで行った生駒を簡単にかわしてしまう。そして生駒が再び体制を立て直そうと振り向いた時、あっけなく生駒の小刀を太刀で弾き飛ばしてしまった。生駒は無手のまま身動き一つできない。
男は獲物をしとめる瞬間の、特有の勝ち誇った目をして振りかぶっていた。もう生駒には何の手立てもない。
せめて、せめて一太刀でも浴びせたかった。傷を負わせて後で隼人がこの男を追い詰めやすいように。大納言殿が無事に逃げおおせるように。こうなる事は覚悟していた。後悔は無い。けれどせめてもう少し役に立って命を終えたかった。
やりきった満足感と、少しの悔しさ。これが自分の選んだ最後の時。この男に襲われたあの夜に奪われなかった命は、自分なりの人生を歩んだ上でこの時までつないできた。たとえこの身は命奪われても魂までは諦めない。決して成仏などするものか。この男の最後と、隼人の行く末を見届けるまでは。
命の危機にある瞬間は時の流れが止まるのだろうか? 本当にほんのわずかの間に、生駒の胸にそんな思いが次々と去来した。そして男の獲物にとどめを差すための残虐な瞳の色を、ただじっと見据えていた。
ところが突然その目の色が変わった。カッと驚いた様に見開かれたかと思うと、見る見るうちに瞳から精気が失われていく。そのまま男の膝が崩れた時、ようやく生駒は気がついた。その胸の真ん中に、見事に矢が刺さっている事に。
男が倒れ、生駒は後ろを振り返った。朝焼けの中、人の姿が浮かび上がっている。たった今、弓を射かけた姿のまま、羽織っている衣が僅かに揺れていた。
その衣は昨夜生駒が選んで身に付けていたものだ。綾で織った絹の、女郎花の襲の袿の衣だった。無造作に羽織っただけの衣の間からは、弓の鍛錬で鍛え上げられた身体が覗いていた。烏帽子すらかぶらず、額からは汗が流れていた。
「隼人!」生駒はようやく声を出す事ができた。
「危なかった。よく、間にあったものだ」
隼人もようやく弓を持った腕を下ろし、深く息をついた。
「どうしてここが……」生駒は唖然としていた。
「どうして? そんなことすぐに分かるじゃないか。お前が約束を破ってまで、強引な真似をする事と言ったら、大納言殿のために決まっている」
生駒はそれを言われたら一言もなかった。自分は明らかに隼人を裏切ってこの場に居るのだから。
「だから俺はお前に約束を破らせない。どんな時も共にいる。お前が大納言殿に心残している時もだ」
「私は隼人を裏切ったのに」
「裏切られた覚えはないぞ? こうして共にこの男を倒したし、お前との約束通り俺がこいつにとどめを刺した。そして今もお前と共にいる。お前の心が誰に向いていようと関係ない。俺はお前とどんな時も共にいる。どうしてもここに来てしまうのがお前であるように、お前に約束させて破らせないのが俺なんだ」
それだけ言ってもらえたら十分だわ。大丈夫。苦悶の表情などしない。幸せな心のまま、私は消える事ができる。生駒は弾かれてしまった小刀に手を伸ばそうとした。けれど隼人が素早く生駒に近づいて、その手を抑えてしまう。
「駄目だ。一人で勝手には逝かせない。俺を生かしたかったらお前も共に生きてくれ」
「無理よ。大納言殿だけじゃない。私が捕まれば仲間達の身も危ないの」
「それは大丈夫だ。ここに役人は来ない。先に検非違使達のところに行って、忠清殿に頼んである。俺はここに侵入した男を射ただけだ。他の何でもないんだ」
生駒は隼人の心に胸が熱くなった。けれど、それでは困る事がある。
「それではここに役人は来ないの? まずいわ。ここに忍び込んだのはこの男だけじゃない。兼光もいるの。きっと御方様が狙われている」
生駒の言葉を聞いて、ハッとしたように大納言が奥の北の対に向かった。するとそれを追うように警護の者たちが姿を表す。大納言が
「北の対に向かえ。門番がすでに殺されている。八千代の身が危ない」と指示した。
生駒と隼人の姿に皆驚いてはいたが、目の前に一人矢を受けて死んだ男の姿があるので、事情は分からずともただ事でない事は伝わったようだ。そのまま北の対に向かっていった。
「俺達も、急ごう」
隼人に言われて生駒も北の対に向かった。
姫が北の対に来てみると誰もかれもが寝入っていると思ったのだが、奥の御帳台の近くに人影がある事に気がついた。どうも男の人のように見える。姫は大納言が起きて来たのかと思った。
「父上?」
そう声をかけてみましたが返事がない。なんだか様子がおかしいようにも思えた。
「父上ではないのですか?」姫は再び声をかけた。その時、
「誰か! 侵入者だ!」
遠く、寝殿の庭の方から大納言の叫ぶ声が聞こえた。目の前にいる人影は大納言ではないようだ。けれど大納言の声に動揺する様子もなく、その人影はそのままそこにたたずんでいる。
「そこにいらっしゃるのはどなたなの? 何をしていらっしゃるの?」
姫はそう言いながら少しづつ人影に近づいた。その時目を覚まされたらしい北の方が御帳台から顔をのぞかせた。
「……兼光! なぜ、こんなところに」
そう言って北の方が息を飲む。それを聞いて姫が北の方に駆けつけようとした。
「母上に何をしようと言うの?」
「姫! 近づいてはなりません!」
北の方がそう言って御帳台から出ようとしたところで、兼光が初めて動いた。北の方が御帳台から滑り落ちるように逃れると、その御帳台に兼光が覆いかぶさった後には、小刀が深々と刺さっていた。振り向いた兼光の顔は、すでに人のものとは思えない、鬼の形相になっていた。
「姫、逃げて!」
そう叫びながら北の方は兼光から離れようとしたが、兼光は北の方の衣の袖をつかんでしまった。
「お母様!」姫が思わず叫んだ。
「お方様!」目を覚ました女房もその様子を見て驚きの声を上げていた。
それでも兼光は動じることなく北の方に刃を向けようとした。そこに、
「八千代!」と叫びながら大納言と警護の者たちが飛び込んできた。
「大納言。生きているのか。あの男はどうした」
「盗賊の頭なら俺が射殺した。もう、お前を守る味方はいない。北の方をお離ししろ」
後に生駒と共に続いた隼人が兼光に呼びかけた。
「役に立たぬやつだったな。こうなったら八千代殿だけ我が君のもとにお連れしよう。もう私は現世で夢など見ない。我が君のいらっしゃる次の世こそが私の生きる世であったのだ。この方さえ共にお連れすれば、大納言の命など手土産に要らぬであろう。お前達は現世で這いまわって生きるがよい。私はこの方を我が君に捧げ、我が君のために次世で生きる」
兼光の眼はすでに常人のものではない。どうやって北の方を兼光から離すか。隼人は矢をかまえた。
「北の方をお離ししろ。ここにはまだ役人が来る事は無い。今ならお前のした事は内密にする事ができる。このままでは中納言殿や、大夫殿もただでは済まなくなる。お前も従者のはしくれであるなら、自分の主人の御立場を汚すような真似をするな。人としてこれほど恥ずべき事は無いぞ。自分をこれ以上、いやしめるような真似をするべきではないだろう」
隼人は矢を構えたままそう言う。
「今すぐお離ししなければ、お前に矢を射かける。私の腕は殆んど的を外す事は無い。確実にお前だけを射殺す事ができるぞ。さあ、早くその手を離せ」
「私の主人はただ一人。お亡くなりになった我が君だけだ。他の誰がどうなろうと私はかまわない。もとより私は死にに来た。止めても無駄だ」
兼光はそう言って北の方に刃を向けた。
「お母様!」姫は自分でも意識すらしないうちに、北の方に向かって身を躍らせていた。




