十五夜
八千代の方の女房が、姫君からの先触れを知らせてきた。
「姫君様が殿をお連れになってこちらにいらっしゃるそうです」
「まあ。少将殿はいかがなさったのかしら?」
女房とそう言いあっているうちに白露の君と大納言殿が八千代の方の前にいらっしゃった。
「こんばんは。良い月ですこと。母上はご機嫌いかがですか?」
「突然のお越しですね、殿まで連れて。人妻となられた方がやすやすと親のもとを訪れるようでは、少し、お子様じみていらっしゃいませんか? もっとしっかりなさいませんと。少将殿はどうなされたのです?」
八千代の方はついつい、母親らしく心配が先に立つようだ。
「そう、お小言をおっしゃいますな。少将殿は右大臣殿が御風邪を召してお見舞いに行っていらっしゃる。こちらを訪れるのは少し遅くなるそうなのだ」
大納言が姫をかばって説明した。
「まあ。季節の変わり目。秋風が身体に障られたのでしょう。わたくしからもお見舞いの文を届けますわ。姫も少将殿がいらしたらよろしく伝えてね」
「分かっておりますわ、母上。それでせっかくの十五夜ですから少将殿がいらしたら、月を愛でながら管弦のお遊びでもと思っているのですけど、しばらく時間がありそうですから、わたくしの琵琶を御父上とお母上にお聞かせしようと思いまして」
そう言う姫の手には、すでに琵琶が抱えられている。
「少将殿に御披露する前の試演と言う訳ですね? よろしいでしょう。わたくし達で姫の御上達具合を確かめて差し上げましょう」
八千代の方がそう、おどけるように言うと、大納言も、
「姫、我々は少将殿のように、あなたの笑顔に誤魔化されず、しっかりと琵琶の音を聞き届けますよ。心して演奏なさい」と笑いながらいった。
「まあ、厳しい聴衆が揃った場で、緊張しそうですわ」
姫もそう言ってクスクス笑っていたが、やがて手にした琵琶を優雅に奏ではじめた。美しい月夜に琵琶の音は冴え冴えと響き渡り、とてもよい風情だ。周りにいる侍女たちなども美しい音色に聞き入っていた。
これまでのお稽古の甲斐があって、姫の演奏は一層心染み入る物になっていた。大納言殿もあんな風に言っていたにもかかわらず、姫の御上達ぶりに満足しているようだった。月も眺めずにその音色に聞き入っている。母上の八千代の方などは、我が娘ながらこれまで聞いた琵琶の音の中でも一番美しいとまで思っていた。
曲の佳境に入ったところで、姫の弾く音が少しばかりそれまでより弱く、遅めになった。かと思ったら、一瞬間が空いてその直後に強く、短い音が弾かれ、そしてもとの旋律に戻る。その一瞬琵琶の音は華やぎ、もとの旋律に戻っても確かな余韻があった。八千代の方はハッとした。そして遠い昔を思い出していた。
姫の演奏が終わると父の大納言は感慨深そうにおっしゃった。
「姫。とうとうその音を手にしましたか。そうです。私があなたにお伝えしたかったのはその音色なのです。それこそ我が一族に伝えたれた音色。素晴らしかった……」
大納言は姫を褒め称えているが、八千代の方はまだ心が過去に戻ったままだった。この音色。この琵琶の弾き方は以前聞いた、あの音色。
「殿。今の音色は」
「そうですよ。これは亡き私の母と私、そして亡くなった幼い姫がたどたどしくもこの部分だけはしっかりとお弾きになった、あの音色です。私達の血筋の持つ、独特の表現です」
そう。以前、八千代の方はこの音色を大納言殿に聞かせてもらい、その後まだ幼かった小さな最初の姫君から、そこだけは父親そっくりに弾くのを聞かされた、あの音色だった。
「この弾き方だと、どうしても他の部分より目立ってしまって、わたくし、なかなかすんなりと弾く事が出来ませんでしたの。それまでの美しく落ち着いた音色と違っているんですもの。けれどこの弾き方の時に、とても心を込める事が出来る事がこのところ分かってきましたの」
姫は嬉しそうにそう言っていたのだが、見ると、母上の目から涙がこぼれ落ちていた。
「お母様?」
「……ごめんなさい、素晴らしい音色だわ。そして懐かしい。殿、わたくし、やっと分かりました。殿のおっしゃっていた事は真実だったのですね」
そう言って八千代の方は涙を袖で拭われる。
「そうです。亡くなった私達の最初の宝物だった姫君。あの姫はあんなに幼くてもこの音色を理解していた。あれは私の娘だからです。私は何度も申し上げましたよね? あの姫は真実、私達の子だと。あの音色を持っているのは紛れもなく私の血を引いているからだと。あなたはどうしてもそれを信じて下さらなかった。いや、信じるふりばかりして、心から私の言葉を受け入れて下さらなかった。私があなたに伝えていた言葉はすべて真実です。私はあなたの傷を愛したのではない。まぎれもなくあなたと、我が子を愛したのです。どんなにあなたが信じ切って下さらなくても」
「わたくし、わたくしは……」
拭った筈の涙が再び北の方の目からあふれた。大納言は愛おしそうに北の方に寄り添っていた。そして姫に向かって、
「よく、よく今宵、その音を聞かせて下さった」
と、感謝の想いを込めた目を向けられた。
「わたくしは、何も」
「ええ、そうですね。何も特別な事ではありません。私達は家族なのですよ。幼い姫がいらした昔も、このように立派な優しい娘が私達を助けてくれる今も」
そう言って大納言は姫君をお傍に呼び寄せると、幼子のようにその頭をなでられた。北の方は姫君の手を握られてほほ笑まれる。
「美しい姫。わたくしの宝物。あなたのような姫はこの世のどこにもいませんわ。幸せに……幸せになってね。この世のどの姫君よりも、帝の中宮様にも負けないほど」
「お母様ったら。そんな事言ったらバチが当たりますわ。でもわたくしは幸せですわ。父上と母上の娘に生まれて、少将様の妻にもなれて。誰よりも幸せですわ」
「わたくしは、本当につまらない事に心煩わしていたのですね。こんなにも素晴らしい夫と娘を持っていたのに」
と、北の方は言ったが、大納言は、
「それはあなたのお心がお優しいからです。私を真剣に想って下さっていたからこそなのでしょう。あなたもずっと苦しかったはず。私を信じられなかったのはあなたばかりの罪ではない。あなたを信じさせる事が出来なかった私にも罪はあるのでしょう。だが今宵その罪は消えてしまった。私達の愛する姫の手によって。あなたは私にこんなにも素晴らしい姫を与えて下さったのです。感謝しています」
「殿……」北の方は言葉にならないようだ。
姫はつと、立ち上がられた。
「なんだかわたくしは、お邪魔のようですわね? そろそろ戻りますわ。父上も母上も、今宵はごゆっくり月を愛でてお過ごしください」
「姫、ありがとう」北の方がそうおっしゃると、
「わたくし、琵琶を聞いていただいただけですわ。またわたくしの琵琶を聞きたくなったら、いつでも東の対においで下さいね。喜んでお聞かせします」
「あなたも今宵は少将殿と楽しく月を愛でて下さいね」
北の方はそうほほ笑まれた。すると姫は、
「あら、わたくし、月を愛でる暇なんてないかもしれません。せっかく少将様がいらっしゃるんですもの。少将様のお姿を目にするだけで精いっぱい。有明の月も見ていられないかもしれないわ」
と、いたずらっぽくおっしゃって、「ごきげんよう、父上、母上」と言うと東の対へと戻って行った。
帰る途中女童に持たせた琵琶を見ながら姫は、
「もしかして、これも子鬼が私に教えてくれた事なのかしら? あの音色も、父上と母上の御心も」と思った。
「子鬼。あなたは今でもこの琵琶の中に宿っているのかしら?」
姫がそんな風に考えていると、久しぶりに子鬼の声がうっすらと頭に響いた。
「違うよお姫さん。オイラはお姫さんの心に住んでいるんだよ」
……ああ、そうだったわ。私は自分の心を見つめていたのだったわね。
姫はもう、姿を見る事のない子鬼に、心の中でそう返事をしていた。




