伝言
翌朝夜の明ける前に、鳶丸は娘を追って都を旅立っていった。最後まで隠れ家に一人残される生駒を気づかっていたが、
「大丈夫だ。生駒には私がついている」
と言う隼人の言葉に安心したような顔で、隼人に幾度も礼を述べた。
「鳶丸の方こそ大丈夫かしら?」生駒はそう言ったが、
「その心配はいらないだろうが、鳶丸には娘の故郷ではなく、筑紫に行くように言っておいた」
「筑紫に?」
「いくらなんでも飢饉に見舞われるような国では苦しいだろう。筑紫は豊かな国だし、都からも遠い。それに忠清殿の知り人が、筑紫の国司の従者を務めているそうだ。表立った事は出来ないが、それなりに気を使ってくれるだろう。向こうに行けば後は鳶丸ならきっと何とかする」
「そうね。鳶丸の事だものね」
「お前こそ一人で大丈夫か? いくら俺が通うと言っても邸暮らしが長かったお前だ。下男も下女もいないのは不便だろう」
「女一人の事ですもの。なんとかなるわ。これ以上誰も私達の事で巻き込めないもの」
「女一人だからこそ不安だろう。なるべく多く通うよ」
「無理しなくてもいいわ。舎人の仕事もあるでしょう?」
「……多く、通いたいんだ」
そう言う隼人の言葉に、生駒は昨夜得た安心感に心が温まった。隼人は少将の出仕の支度に間にあうようにそのまま出て行った。
味わった甘い感情と安心感が、自分を変えた事を生駒は知った。自分の中で隼人の存在が一晩のうちに大きくなっていた。
もう、隼人を危険にさらしたくはない。けれど生駒にとっての仇は、隼人の仇でもある。追うなと言っても無理だろう。それは生駒も同じだった。
隼人もあの男を追ってばかりはいられないはず。生駒は髪をくくりつけ、壺装束に着替えた。市女笠を被ると、そっと家を出て行く。
生駒は中納言の邸の前に来た。いくらなんでも自分がこの邸に近づこうとは、中納言も役人も考えないだろうと思ったのだ。まずは邸の東門の前で様子をうかがっていると、立派な男車が多くの従者をしたがえて出て行った。夜明けの事なので、中納言が朝の出仕に出かけるのだろう。「朝廷」と言う言葉の通り、公務は朝の夜明けた時から日が天高く上るまでに行われる事が多いのだ。
しばらくしたところで今度は西門に回ってみた。頻繁に使用人達が忙しげに門をくぐっていく。時折物売りが訪れたり、幼い童がお使いに出たりしていた。
生駒はまた東門の方に向かおうとして、ふと、自分達が隼人に助け出された、あの「男達の通い路」を思い出した。あの塀はまだ崩れたままなのかしら?
行ってみると塀は相変わらず人がようやく一人通れる程度に崩れたままになっていた。生駒は感慨にふけっていたが、やがて人の足音が中から聞こえてきた。市女笠で顔は隠れているとはいえ、女一人がこんな所に居るのは不自然だ。生駒は慌てて物陰に身を隠した。
すると中から従者が崩れた隙間から身をくぐらせて出てきた。
従者の顔に生駒は見覚えがあった。確か大夫殿に付き添っている従者だったはず。名は……兼光と呼ばれていた。以前この男とお方様が面談中にお方様の御気分が悪くなり、この者は邸から追い出された事があった。ここは男女の秘密の通い路。でもこんな昼間からここを使わなければならないと言うのは、引っかかる。生駒は兼光の後をつけて行った。
兼光は人通りの多い道をどんどん進んでいく。生駒と同じような壺装束に市女笠姿の女も多く行きかうので、あまり気取られる心配はなさそうだが、それでも生駒は用心深く兼光の後をつけて行った。兼光はやがて市へとたどり着いた。何事か見せ物が行われているらしく、人だかりの出来ているところがある。兼光はそこで足を止めたが見せ物の方に興味は無いらしく、人だかりをきょろきょろと見まわしていた。
「兼光様」
生駒の前の方で声がすると、兼光は生駒のすぐ前に出て行った。生駒は見物人たちと同じ方向を向いて、耳だけ済ませる。
「頭に伝えろ。今宵、寅の時の前に大納言邸の西門近くで待つと。決して裏切るなと言え」
ひそひそと小声で話してはいるが、そこにはただ事ではない殺気のような物が感じられた。
「伝えておきます」
そう言って立ち去ろうとする男がこちらを向くと、その男の顔は確かにあの盗賊達の一味の顔だった。男は市女笠をかぶった生駒に気づくことなく、その場を去っていく。生駒はその男をよほどつけようかと思ったが、深追いして斬られかけた隼人の事を思い出した。舎人の隼人でさえ一人で行動すれば危険なのだ。生駒は思い直した。
兼光の方は元来た道の方へと去っていく。おそらく邸に戻るのだろう。
お方様に何らかの因縁のある兼光。それがあの盗賊の頭に伝言を伝えていた。しかも場所は大納言邸。明らかに大納言殿に良からぬ事が起りつつあるのは間違いなさそうだ。
あの男が今夜大納言邸に出向いていく。放っておけばあの御家族が危ない。
仇を打ちたい。その気持ちももちろん強いのだが、やはりあの御家族を危険にさらしたくない思いが、今の生駒にはより強くあった。あの男を倒すのは、やはり私の役目。隼人を危険に巻き込みたくない。大納言殿達を危険にさらすわけにもいかない。生駒は市の雑踏の中、考えに耽りながら帰り道を急ぐ。
隼人を頼らないとすると少将様に頼もうか? 大納言家に危険を知らせ、警備を厚くしてもらって。けれどそれでは我が手で仇を打つことは叶わなくなってしまう。
それとも先に自ら大納言殿の邸に潜り込んでおいて、こっそり誰かに知らせようか? しかしそうなると誰に邸に忍び込む手伝いをしてもらえばいい? 一つ間違えば無関係な人間を巻き込んでしまう。あれこれ考えるうちに隠れ家にしている家にあと少しと言う所に来ていた。
そこで人の話し声に足を止める。家に向かう角の向こうから聞こえるのは、近所に住むらしい人々の声だ。
「……だから、ここに住んでる女は、何か得体が知れないのよ。さほど身分がある方が通っているってわけじゃないのに」
「たまたま、いい物を着ているってだけじゃないのか?」
「それにしてもねえ。邸勤めって雰囲気でもないし、通って来るのは従者らしき男だし。物持ちの娘にしては人の出入りが少なすぎるし」
「詮索好きだねえ」
「あら、最近はそれだけ物騒なのよ。泥棒、物取り、人さらい。誰だって人ごとじゃないわ。モノがなくったって、身ぐるみはいで命取ってでも襲ってくるのが最近の悪党の手口だって聞いてるわ。あまり素性の知れない人間が近くにいたら気味が悪いじゃない」
「かといって何かされたわけじゃないだろう? あんまりかかわらない方がいいぜ。役人なんか俺達には何の役にも立たないしな」
自分の事が怪しまれるようになってきた。ここもすでに安心できる場所ではない。だが、仇を打つ前に都を出ていくつもりもない。もう、私に時間はないのかもしれない。
ここを通らなくては家に入れない。生駒が思い切って姿を見せると、そこにいた男女はコソコソと生駒をうかがいながら去って行った。
これ以上噂がたてば少将様や姫様に迷惑がかかる。すべて一人でやり遂げるのが一番だ。ついに決断の時が来たんだわ。
生駒はそう、胸に決心していた。
「いかがしましたか? 姫様?」
乳母にそう問われて白露の君は我に返った。
「ごめんなさい。ぼうっとしていただけ。少将様からの文ね?」
「はい、お言付けもあって、右大臣様がお風邪を召して少し御気分がよろしくないので、お見舞いに伺ってから来られるそうなので、遅くなるとの事です」
「そう、仕方がないわね。こちらからもお見舞いのお文を差し上げましょう」
「急に朝晩が寒くなりましたからね。姫様もお身体を冷やしたりなさいませんように」
「大丈夫よ。子供じゃないんだから」
姫は苦笑いしながら文を書きはじめた。書きながらも姫は久しぶりに胸騒ぎを感じていた。以前だったらこんな風に心騒ぐ時は子鬼の声が聞こえたものだったが、今はそんな事はない。こんな時には少将にゆっくり話を聞いてもらえば、心が落ち着く事を姫は分かっていた。確かに今の姫にはもう、子鬼の存在はそれほど必要とはしていないようだ。
ただ、今日少将は少し訪れが遅くなると言う。それでも夜には姫のもとに来る筈だ。
早く来てほしい。そう思いながらもこのところ婚儀を済ませたばかりと言う事で、少将もなるべく姫のもとに通えるよう周りにも気を使ってもらっているようなので、そう無理もさせられない。返しの文には「ご心配なく、御ゆるりとお越しください」と書いて、隼人に持たせるように言った。
「生駒は元気そうだったのかしら?」隼人に会っている乳母にそう聞くと、
「ええ、久しぶりにお会いになったとかで、足に羽が生えている様な御様子ですよ。やはり若い人はいいですね」と、乳母も笑っている。
「隼人がそうなら生駒も幸せそうね。良かった。鳶丸も自分の道を見つけたようだし、こうして別れ別れになっていくのは寂しい事だけど、きっと、いい事なのよね」
「そうでございますよ。現世に私どもがいられるのはほんのひと時の事。それならば自分の生きる道を見つけて、誰かと共に歩めるというのは幸せな事です。姫様が少将殿と共に道を歩まれるのと同じですよ」
「そうね」
姫もそう言って同じようには思ったが、ただ、生駒と隼人には共に歩むのに特別な目標の「復讐」が横たわっているのを姫は知ってしまっていた。あの二人に幸せでいて欲しいのと同じ位に、無事でもいて欲しいのだ。少将は隼人が無理をしないように、今まで自分の目の届く所に隼人を置いていたが、姫も生駒がこれまでして来た事を考えると、生駒の身も心配だ。彼女も隼人に負けないほど無理をしてしまいそうだが、姫には生駒を見張るすべはないのだ。だから隼人が生駒と仲睦まじげにしているというのは、姫にとっても安心できる事だった。
「隼人に言っておいて。私は生駒をいつも心配しているって。生駒に無理をさせないように頼んでちょうだい」
「それは隼人も望んでいるでしょうから、きっと生駒も分かっていますよ。そんなご心配よりも、今宵はせっかくの十五夜。少将殿に美しい音色をお聞かせできるように、琵琶のおけいこでもなさいませ」
乳母はそう言って笑っていた。姫も頷いて琵琶を手元に引き寄せると、乳母は隼人に文を持って行った。
姫からのことづけを聞き、隼人も、
「生駒に無理はさせません。仇を打つのは私に任せるようにと再三言ってありますから。それに生駒は身を隠しているのです。危険な目に会う事などありません」
そう言って文を受け取り、少将のもとへと戻っていった。




