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代わり

 兼光は真底失望していた。やはり大夫殿は「我が君」とは違う。「我が君」はどんな手を使おうとも御自分の目的を果たされるだけの執念をお持ちになっていた。それがあったからこそ、高い御位を手に入れるにふさわしい力をもたらしたし、勢いもおありになった。大夫殿にはそれがない。勝ち上がりたいという執念も、手に入れようとする執着心も足りない。


 やはり「我が君」はもうどこにもいらっしゃらないのだ。この世のどこにも。


 そう思った瞬間、兼光は身の内にどうしようもない絶望が広がっていくのを感じた。

 美しかった「我が君」。凛々しかった「我が君」。お強かった「我が君」。

 そうだ。「我が君」は永遠に失われていたのだ。「あの女」と「大納言」によって、永久に私の所に戻られぬ御人になってしまわれた。あの二人さえいなかったら。


 憎い。あの二人が。兼光は我が身が怒りで熱く震えて行くのを感じていた。



 生駒と隼人が無事に隠れ家の家にたどり着くと、鳶丸が二人を迎え、家に夏の夜風を通して手足を洗う水の支度をしてくれた。彼はこの家に来てからも、以前邸に居た時のように下男の仕事を買って出てくれていた。家の外へも用事があれば普通に出歩いた。鳶丸は役人たちに顔を知られているので生駒が心配すると、


「なあに。普通にしている方がいいんですよ。この辺の場末の者たちは俺の顔など知りはしません。普通にしていればこんな田舎者の男など、皆同じ風采の者がゴロゴロいるんです。誰も俺を役人に突きだす必要がある者とは思いません。知った顔に会いに行かなければ大丈夫です。むしろ俺のような男が家にこもってじっとしている方が怪しまれます」


 と言って、生駒をまるで自分の主人のように何かと世話を焼いてくれるのだった。


「ごめんなさいね。鳶丸の親しくしていた御厨子所みずしどころの下女には会えなかったわ。東の対にほんの一時居ただけだから」


 鳶丸は邸の御厨子所で炊事をしていた下女と良い仲であった事は誰もが知っていた。おそらく彼女の消息が気になっていたはず。突然邸から未練を残して姿を消さなければならなかったのは、生駒だけではなかったのだ。


「かまいません。これでいいんです。俺は後ろ暗い事をやってきた男だし、長く続けちゃいけなかった。あいつもまだ若いしちょうど潮時だったんです。たいして器量よしでもないが気立てのいい娘だから、すぐに通う男ができるでしょう。心配していません」


 そう言って、鳶丸は二人の前から下がってしまった。


「あなたも、あの方にお会いしたかったか?」隼人が生駒を見透かしたように尋ねた。


「いいえ。会えばご迷惑をかけるだけだもの」


「そうか」


「隼人こそ何故私を姫に会わせてくれたの? 姫の代わりなら他の女房にさせても良かったのに」


「姫君はあなたを心配しておられた。あなたも罪滅ぼしをしたかったはず。ああするのが一番いいと思ったんだ。少しは気が晴れたか?」


「ええ」


「なら良かった。俺は右大臣邸に戻る。忠成殿(少将)にご報告しないと」


「姫様からご報告の文が行ったはずだけど?」


「自分の口で報告したいんだ。今夜はもうここへは来れない」


「熱心なのね。主人の手足になるばかりでなく、私の罪滅ぼしにまで奔走して。従順な人」


 生駒は引っ掛る言い方をした。


「生駒。あの方を思い出しているだろう」隼人は生駒を睨んだ。


「たしかに俺はお前を囲う様にここに連れてきた。お前は選びようがなかった。子供の時のようにな。それをお前が納得していない事は分かっている。正直に言えばそれでも俺はお前を自分の手の内に欲しかった」


「私はあなたに助けられたわ」


「お前の意思にかかわらずな。だからお前があの人を忘れずにいるのは仕方がない。しかも俺はお前を手にするのにあの人と同じやり方をしている」


「隼人は他に手立てがなかったじゃない」


「そうだ。だから俺はあえてお前を囲っている。自分でも卑怯だと思う。だが、俺を挑発するのは止めてくれ」


 隼人は生駒に詰め寄った。


「こんな時、あの人はためらわずにお前に手を伸ばしたのか? お前が挑発すればお前を奪うようにしたのか?」


「大納言殿はお優しかったわ」


「今はその名を口にしないでくれ。分かっている。お前はそうやって愛を知った女だ。そしてお前は北の方の代わりになる事も厭わずにあの人を愛したんだろう。だが俺にそれはできない。あの人がためらわなかったのは、お前自身を愛したのではなかったからだ」


「やめて!」生駒がさえぎった。


「そんな事言わないで」


 隼人は我に返ったようにうなだれる。


「すまない。俺はお前のような愛し方はできない。あの人の代わりにはなりたくないんだ」


 そんな事は無い。私も隼人に惹かれ始めている。そう口にできたらどんなにいいかと生駒は思ったが、隼人の言うとおり今夜は久しぶりにあの邸に戻ったせいで、大納言殿との思い出が生々しく思いだされてしまう。心のどこかで大納言殿の代わりを求めてしまっているからこそ、隼人を挑発していた事に気づいてしまった。


「不器用ですまない。だが分かって欲しい。俺は俺のやり方でしか、お前を愛せないんだ」


 突き放せない。傷つけたくない。そう思いながらもこんなに隼人を傷つけている。不器用なのは自分の方。苦しげな隼人の顔に、生駒も胸がつぶれる思いだ。


「隼人は卑怯でも、不器用でもないわ。心から感謝しているのよ」


 言葉にすれば、今はこんなことしか言えなかった。


「感謝、か」隼人の口調にも、苦いものがあった。


「もう行くよ。また、姫君の知らせを持ってくる」


 隼人はそう言って戸口に向かった。


「あるいは、あの男の知らせを持ってな」


 隼人はそっと戸を開けて出て行った。あの男の知らせ。今、二人の心を確実につなげる物はあの男への復讐。この目標を掲げる時、二人の間には何も隔てる物がなかった。

 そして復讐が成し遂げられたあと、二人の関係がどうなるのかを、生駒は考えたくはなかった。


 隼人が戸を出ると、そこに鳶丸が控えていた。


「夜も遅くですがお一人で大丈夫ですか? せめて大路まで御一緒いたしましょうか?」


「いや、大丈夫だ。それより生駒の傍にいてやってくれ」


「かしこまりました」


「お前は邸を離れた生駒の心がよく分かるのだろうな。本当はあの邸の女にに未練があるのだろう?」


 隼人が気遣わしげな、それでいてどことなく羨ましげな口調で聞いた。


「隼人様の御心も分かるつもりでございます。女を一人幸せにする事は、実はそんなに簡単なことではないのでしょう。私もあのような女でも、自分のためにこれ以上、苦しめたくはありませんから」


「お前の想いはきっと伝わっているさ。今頃無事を祈ってくれているだろう」


「私もあの女の幸せを祈っています。隼人様のように」


「その女の様子も見て置こう。ここに来た時は知らせる」


「いえ、私は結構です。それより出来たら、その女に慰めの言葉の一つもかけてやって下さいませんか? 失礼なお願いとは思いますが」


「そんな事は無い。お前の気持ちを必ず伝えよう」


「いいえ、それは結構でございます。罪人のことなど忘れた方が良いのです。あなたのように御身分のある方に声をかけていただければ、あのような女にはそれだけで喜びなのでございます。あの女が喜んでさえくれれば、私はそれで十分です」


 鳶丸はそう言って深々と頭を下げた。自分はそんな大層な男ではない。今の鳶丸の心の足元にも及ばないかも知れない。隼人はそう思いながら、少将のもとへと足を急がせた。






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