白露
こうして生駒はこの、中納言の邸に女童として仕える事となった。北の方のお気に入りの童となり、北の方の愛情に育まれるように日々成長していった。
生駒が北の方のお傍に仕えるようになると、北の方はとても御心安らかに過ごされるようになった。邸の大人たちは北の方の明るいほほ笑みに、
「何という変わられようだろう」
と口をそろえていたが、生駒には北の方の穏やかな姿しかほとんど印象がないほどだ。
北の方は生駒を可愛がり、甘やかし、自ら筆跡の手習いなどを指導したり、『古今集』を読んで聞かせては生駒がそれを空で案じられるようになると、我が子同然に褒め称え、喜んだ。いくら中納言殿が目をかけている女童とはいえ、度が過ぎると北の方の乳母など古くからの女房達が北の方をお諌めしても、北の方はまるで気に留めぬようだった。
生駒は香りに敏感な少女だった。花の香り、香の香りはもちろん、北の方の体臭や炭に火をおこす時の匂い、庭の草木の匂いに、壺に挿した草花が枯れかけたり、積まれた草紙にしおりがわりに挟まれた草の葉が、香っていることにまですぐに気がついた。
そこで北の方は香合わせが得意な女房の何人かに、生駒に香の合わせを教えさせた。生駒はたちまち一通りの合わせ方を覚えてしまい、自分でも好みの香りを工夫するようにまでなっていた。そして北の方は生駒の合わせた香を、何よりも好んで使われた。
これで生駒が生意気盛りの少女にありがちな、女主人の甘やかしを笠に着て自分の分別をわきまえず、物の道理に反するような態度やそぶりを見せるような子供であったなら、他の人々の反感を買っていたのかもしれないが、この本来無口で大人しい少女は、孤児の身でここに雇われたのは、自分の命を救って頂いたも同然なのだと言う事を、ことのほか理解していた。
生駒は少しでも北の方の愛情に応えられるようにと、懸命にお仕えした。北の方が言うお言葉は一言一句も聞き間違えたりしないように気をつけ、北の方がどんな時に何をしたいのかを覚え、北の方が喜ばれる事はなんだってやった。それでも失敗したり間違えることもあったが、北の方はいつも生駒に優しく接してくれた。
他の人々も生駒の必死さは認めていたが、彼女がこの邸に来る直前に見た、地獄絵図のような光景に脅える心がここで生き抜く決意を強くさせたであろうことに気づく事はなかった。……ただ一人、中納言を除いては。
生駒は邸の主人である「殿」、つまり中納言にも良く仕えるようにした。自分の母は父が訪れた時に一番嬉しそうな顔をしていたからだ。北の方もやはり「殿」がいらっしゃる時は嬉しそうにしていらっしゃる。北の方だけではなく、周りの女房達も嬉しそうにしている。生駒はこの「殿」は、とても立派な方でいらっしゃるんだと思っていた。北の方の一の女房に聞くと、
「そりゃあ、殿は御立派よ。三位の中納言様でいらっしゃるし、きっと近いうちに大納言様になられるって、もっぱらの評判ですからね。前は参議でおられたけどその時から世間の評判はよろしかったんだから。舞を舞われるのがとてもお上手でね……」
一度聞くと同じような答えがどの大人からも返ってきた。そして最後には、
「こんな邸に勤められて運がいいわ。北の方様もこのような方に愛されて幸せだこと」
と、誰もが口をそろえて言っていたのだ。
「姫様。……姫君様。どちらにいらっしゃるのです?」
広大な邸の庭の中、生駒は幼い姫君の姿を探して思いつく限りの場所を探していた。
生駒がこの邸に来て十年以上の時が流れていた。
北の方の寵愛と庇護のもと、生駒は健やかな日々を送っていたが、そうするうちに北の方は念願の御懐妊となり、翌年可愛らしい姫君を儲ける事が出来た。生駒はこの姫君のお付きの女童になり、まるで妹が出来たように大切に、大切に姫君の御世話をして暮らしていた。姫君は名を白露と名付けられ、白露の君は日々、健やかに御成長されていた。
「南の廂の大きな柱の影も探したし、御厨子所の近くにいつも置かれている大きな櫃の中や回りも探したわ。大体の所は探したのに……」
そして思い当たる場所があった。だが、そこだったらもし姫がいた時に騒ぎにならないよう、周りを人払いしなくてはならない。
「もう。ますます頭が上がらなくなるじゃない」
そう言いながら生駒は目立たぬように気をつけながら、厩の方に向かった。
「鳶丸。居るかしら?」
生駒が小声で呼びかけると、牛飼い童と共に牛を牛車の轅にかける道具や、午の馬具の手入れをしていた小柄な男が振り返った。男は童に何やら話しかけ、仕事を任せると生駒の方にやってくる。
「……また、でしょうか?」鳶丸はこっそりと聞く。
「ええ。姫様の姿が見えないの。たぶん中門の影だわ。少し門番を代わって欲しいの。
「しかたのない姫君様だな。生駒様も苦労が絶えないですね」
「そうね。でもね、姫様には内緒だけれど、私、姫様のこういう所が大好きなのよ」
「生き生きとしていらっしゃいますからねえ。姫君として閉じ込められておられるのがお気の毒で」
「でもそれが姫様のお幸せなのよ。鳶丸には全く頭が上がらないわ。あなたがいなかったら姫様は今頃とんでもない変わり者として、都中の笑い者になっていたわ。さあ、上手いこと門番を追っ払って頂戴ね」
そう言うと鳶丸は頷いて邸の門の中にさらに建物を取り囲んでいる、中門に向かっていく、そして門番に声をかけると、門番は笑顔でその場を離れて行った。そして周りに人がいないことを確認すると、
「姫君様、出て来てください。そこにおいでですよね? 生駒様がお困りでいらっしゃいますよ」
と、門扉の裏に向かって声をかけた。
「ああ、もう気付かれてしまったわ」
そう言って出てきたのは十歳のまだあどけなさがどこかに残る少女の姿。しかしその姿は単衣にたった一枚上着を羽織り、それもたくしあげられた袴の裾と共に紐でくくり上げられ、あろうことか何もはかない素足のまま、と言う出で立ち。その上どうやって登ったのか、築地塀の上、棟門との狭い隙間にその身を起用に隠していた。そして隙間からするりと抜けると、軽やかに門扉を使って下に降りてくる。生駒はすぐに駆けつけた。
「まあ、今日は御髪までこのように括られて。これではあとがついてしまいます」
「だって、動きずらいんですもの」
「いいから、人に見られない内に、早く戻りませんと」
そう言いながら生駒は姫を引っ張る。引っ張られながら姫は鳶丸にいたずらっぽい笑顔を見せていた。
「あまり生駒様を、困らせないでくださいよ」
そう言いながらも鳶丸も、二人を笑顔で見送っていた。
「突然に御姿を消すのは止めてください。人に見られては困るじゃありませんか」
生駒がさっそく小言を言うが、姫はさえぎって、
「そうだわ。この間抜け出したときは父上の女房の一人に見られていたのね。生駒が私の上着と同じ色の上着で歩いているのを、見間違えたのだと言い繕ってくれたそうね。ありがとう。助かるわ」そう言ってほほ笑んで見せる。
「ごまかしては駄目です。いいですか? 本来、姫様は立ち上がられたり、出歩かれたりしてはいけない御身分です。それなのにこんなことを繰り返すから、せめてわたくし以外の人がいる時は抜け出さないようにと言っているのです」
「でも、他の人に知られない様にしていれば、ほんの少しならかまわないでしょう? こうして生駒もかばってくれるのだし」
「いけません。知られずにいるなどと無理なことです。現に姫は鳶丸に姿を見られたではありませんか。あれが姫様に同情してくれる口の堅い男だから良いようなものの、普通なら大変なことになっていたのですよ」
普通、大きな屋敷に暮らす深層の姫君は、出歩くどころかむやみに立ち上がることもはしたないとされている。そういう姫君は身体を出来るだけ動かさず、人形のようににっこりとほほ笑んでいることを求められているのだ。
「鳶丸が大丈夫だったのですもの。他の人も……」
姫は甘えたような笑顔を生駒に向けた。でも生駒は、
「すでに姫の事は噂になりかけています。門に隠れたり、櫃の中にいたり、そういう事は私が男に逢うためにしたと言う事になっていたのですが、やはり本当は姫様だろうと噂されているのです。このままでは殿やお方様の御評判にも関わります。姫はそれでもよろしいのですか?」と言って、姫を真剣に睨んだ。
「そんな。いつの間に」
「姫様が考えている以上に世間は口うるさい物です。そこをもう少し御理解いただきたいわ。もし姫様の御評判がこれ以上悪くなれば、私はこの邸に居られないかもしれません」
「まさか。だって生駒はこの邸から離れたくないから、結婚さえせずにいるじゃない。それに生駒には他に行くところがないのでしょう?」
姫の目に動揺の影が揺れる。こんなところは世間知らずの、まだまだ幼い姫なのだ。
「他に行く所がなくても主人のためには姿を消さなくてはならないのが、邸に勤める者の宿命なのです。私だって姫と離れたくなどありません。姫ももう少し、大人になって下さらないと」そう言い聞かせる生駒の目にも悲しい物があった。
「分かったわ生駒。ごめんなさい。わたくし、他の何よりも生駒と離れるのが辛いわ。もう勝手に出歩いたりしない。あなたは父上と母上のお気に入りだから、きっと大丈夫なんだと思っていたの。わたくしが愚かだったわ。だから私をかばわないで。何処にも行かないで」
姫の真剣なすがるような表情に、生駒は笑顔で答えた。決してお傍を離れたりしないと。
「さあ、今日はもう少し、御手(筆跡)の習練をしましょうね」