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桜花の君

 あの騒ぎの後も姫のもとには少将から細やかにお見舞いの文が幾度も届いていた。さすがに文には生駒達の事を書くことはできないので、姫の御心を心配する言葉や、気を引き立てようとする季節の話、宮中での七夕がいかに美しかったか、管弦のお遊びの演奏がどれほど楽しげだったか、相撲の節会で一人、驚くほど力に長けたものがいた事など、面白おかしく書いては、姫の御心を御慰めになっていた。


 文にはっきりとは書けないものの、隼人が文を持ってくるたびにそれとなく伝えることづけを乳母は姫に伝えてくれた。大納言殿の事までは知らずとも、乳母も今度の件はどうやら生駒が罪をかぶったらしいと見当は付いているようだった。


 この乳母もお方様に仕えこの姫の乳母となった人なので、この邸にはもう長く暮らしている。主人たちの様子から、高貴な方々特有の自分達には知れない事情が色々ある事は感覚的に理解できるようになっていた。そういう時は侍女の理屈など通用はしない。正しい事もそうでない事も高貴な身の方々には、様々な事情でいくらでも入れ替わることを乳母は知っていた。こういう時、乳母は何よりも自分がこの目で見て来た人柄を判断の基準にしていた。そういう事ができないと多くの侍女たちを従え、本当に自分の主人を守る事は出来ないからだ。


 乳母は生駒のこの邸の主人たちへの誠意を信じた。主人たちもまぎれもなく生駒に信頼を寄せている。それはこれだけの騒ぎが起った今でも変わりは無いようだ。むしろ罪をかぶって口を閉じた生駒の身を案じているのが分かった。そこで隼人が文使いに訪れた時に、


「この邸の御主人方は、皆生駒達の身を案じています。あなたは生駒の行方を御存じでしょうか?」と聞いてみた。


 隼人もこの乳母の言葉を信用したのだろう。生駒達は無事で自分がかくまっていることを乳母に告げた。乳母は姫に生駒達の無事を告げ、それ以来隼人から少将の手紙を受け取るたびに様子を尋ね、姫にそれとなくお知らせするようになった。


 そういう邸の空気は乳母だけでなく誰もが感じ取っていた。だからこれほどの騒ぎとなっても侍女たちはこの話を口にせずにいるのだ。侍女や下男下女たちの方が、生駒や鳶丸の事はよく知っていた。多くの人が働く場なので二人をよく思う人もいれば、不満を持っている人ももちろんいた。


 でも高貴な方々の事情など自分達には分かる事ではないので、余計な事は口にしたくない。もっと言えば巻き込まれたくないというのが多くの人の本音だった。乳母と姫様や、大納言殿とお方様が生駒達の事をそれとなく知らされているらしいとは気がついても、誰もそれに関わろうとはしなかったので、表面上邸は穏やかさを保っていたのだ。



「姫様、こんなお文が廂の簾に挿してあったのですけど」


 姫の所へ女童がそう言って小さく折りたたまれた文を持ってきた。開いてみると、


「白露の君


 君を想いて、春の日遅し。私の心はこの文を書いた時から変わっていません。いつも姫の御心を案じています。

 あなたの大切にしていた侍女が、あなたを襲った盗賊に狙われています。詳しくはここには書けませんので、今夜、姫の御前を人払いしていただけないでしょうか。使いはいつもの者ではありませんが、八葉はちようの車で伺いますから、すぐにわかるでしょう。御門を開けるようにお手配を願います。では、今夜に」


 と書かれている。


 白楽天の君が、こんな風に人目を避けるように姫に文を贈ったことなどないので、姫は少し気にはなったが、御手は君の字と同じ。そして白楽天の詩。この言葉が姫と君との間でとても大切にされている事は、他の誰も知らないはず。


「門番に伝えて。今夜、東門に八葉の車が止まったらお通しするようにと」


 姫はそう、御前に居る女房に伝えさせた。



 その夜、姫からの知らせの通り、八葉の模様が描かれた車が、大納言邸の東の門を訪れた。門番は言いつけどおりに門を開ける。車は直接東の対の廂に付けられ、忍びやかに車の主と、もう一つの人影が姫の御前へと向かって行った。姫の御前は文で頼んだあった通りに人払いがされて、他に人の気配はなかった。その人影は静かに御簾の手前に座った。


「お約束通り、人払いをしていただいてありがとう存じます。今夜は我が君が姫とゆっくりお話したい事があるそうです」


「私の大切にしていた侍女が、狙われているそうですね?」


「そのお話の前に、少し、御簾の中に入れていただきたい」


 そう言って、人影が強引に御簾をかき上げた。


「その侍女って、私の事を言っているのかしら? 大夫殿」


 御簾の中で座っていた女がそう言って顔を上げた。そこには生駒が座っていた。


「お前、盗賊の女頭だな。何故こんなところに? 姫君はどうした?」


 御簾をかき上げた男、兼光が驚いて言った。


「盗賊? そこにいるのは盗賊なのか? 今すぐ検非違使を呼ばなくては」


 大夫がうろたえたように生駒から離れようとした。


「役人を呼んで困るのはどっちかしら? あなた方の方こそ何故、姫君が盗まれた御品の中にあったはずのお文の内容を御存じなの?」


 そう言って生駒は立ち上がった。


「それに姫様の居場所を私が教えると思う? 姫様は私達が御隠ししたわ。この事は大納言殿も、お方様もご存じない。私達は姫君をさらって、この邸から連れ出したの。私達を捕まえようものなら、大夫が何をしようとしたか、ここにいる乳母がすべて右大臣殿にお話しするわよ」


「私、あなたの怪しい御文をここに持っておりますわ。姫様は初めからこの文を疑っていらっしゃいましたから」乳母がそう言って文を広げて見せた。


「何故だ? これほど少将の筆跡にそっくりな文は無いはずなのに」


 兼光は愕然としている。


「ええ。本当によく書かれた文だわ。姫様でなければ気がつかなかったかもしれない」


「何故、姫君は気がつかれた?」


「少将殿らしくない文ですもの。私の事を話すなら、隼人を使わないのは不自然だし、それに少将殿は姫様を『白露の君』と呼ばれた事も、お文に書かれた事もないわ。少将殿は姫様の事をいつも、『桜花の君』とお呼びになるのよ」


「桜花の君……」


「姫様と少将様には他人が入り込めない御心のつながりを持っていらっしゃるの。あなた達には分からないわ」


 生駒は自分の主人だった方を誇るかのように胸を張って言った。横で乳母も頷いている。


「確かに私も人さらい。ここに長居は出来ないわ。でも姫様は帝の御寵愛深い右大臣の女御様のお気に入りの方。しかも右大臣の御子息と婚儀を目前としていらっしゃる。ここに大夫殿が盗まれたはずの文を利用して姫様を騙し、こんなところに潜り込んだことが表に出れば、父上の中納言殿はとても困ったことになるでしょうね」


 兼光は悔しげに唇を噛み、大夫は顔色を変えて冷や汗を流していた。


「私はもともと罪人の身。しかもこの邸には恩があるわ。今更捕まっても後悔はしない。でもあなた方はそうはいかないのでしょう? こんな事が起った以上姫様の警護は一層手厚くなるわ。もう、姫様の事はあきらめるのね。さっさとお帰りになった方が御身のためでしょう」


 生駒がそう言って睨むと、大夫は、


「だから、こんな姫の事はもういいと言ったんだ! 兼光。私はこんなこと、金輪際お断りだ。こんなところ一時も居たくは無い」


 と言って逃げるように廂の車に向かって駆け出した。兼光も生駒を睨みつけながらも大夫の後を追った。二人が乗ると車は慌てて邸を出て行った。


「もう、大丈夫でございますよ。姫様」


 生駒がそう言うと姫君は奥の屏風の陰から姿を現した。


「ありがとう生駒。良く、戻ってくれたわ」姫はそう言ったが、生駒は


「いいえ、姫様。生駒はここにはいられません。今言ったように私は罪人。姫様のお傍にいる事は出来ないのです」と答えた。


「そんな事は無いわ。生駒が罪人だと言うなら、父上は」


 生駒は唇に指を当て、姫を制した。


「大納言殿は立派な方です。私は今でも尊敬申し上げています」


「生駒」


「よく、すぐに少将殿に伝えて下さいました。おかげで隼人が私をここに潜り込ませる事が出来ました。大丈夫。生駒はいつも姫様を見守っております。今まで姫様達を傷つけていた償いを、ようやくさせていただいているのです」


 生駒はそう言って深々と姫に頭を下げた。


「生駒、わたくし達は」


「もう、何もおっしゃらないで。私は行きます。少将殿とお幸せに」


 そう言って生駒は妻戸を開け、部屋を出て行った。その向こうにちらりと隼人の姿が見えた。生駒はもう一度姫に頭を下げると、静かに妻戸を閉じた。


「生駒。あなたは隼人と幸せに暮らしているの?」


 姫は、姿の見えない生駒に問いかけるように、そうつぶやいた。








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