鏡箱の文
何故あんなことを隼人に言ってしまったのか。生駒はぼんやりと考え込んでいた。
外は真夏の日差しが照りつけ、大路などは陽炎が立っているようだ。身を隠している生駒は家の周りの簾をぐるりと物忌みの様に下ろし、几帳は奥に押しやって風を通していた。
おかげで日差しはさえぎられるが、それでも通る風はわずかで、暑さのせいもあってたちまち頭がぼんやりし、心は物思いにふけってしまう。
隼人に「守られてほしい」と言われた時、実は生駒は自分でも驚くほどに安堵していた。
生駒はこれまで何かを守ることで生き抜いてきた。自分が売られた時に口をつぐむことで隼人を守り、我が身を守ること。大納言殿の秘密を守ること。そして姫様の身をお守りすること。仲間達を守ること……。生駒はそれが自分の生き方で、そうやって生きるように生まれついてしまっていると思っていた。
中納言の邸に連れて行かれた時、大納言一家を守り、守り抜いた名誉を胸に死罪でも何でも命を終える事が出来れば、自分の人生は満足だと思っていた。あの男に復讐を遂げられなかった事だけは心残りだが、自分らしく生き抜く事が出来たと思えるなら、良い最後だと思ったのだ。
けれど生駒は隼人に救い出された。それによって生駒や鳶丸の言葉から余計な疑いを大納言殿に持たれずに済んだ。鳶丸の命も安全だ。生駒もやはり生きながらえることができる喜びを感じた。でも同時に大きな恐怖にも見舞われてしまう。
生駒にとって大納言殿とその御一家に心を寄せる事は、大きな苦悩でもあったが、大きな喜びももたらした。いつの間にかあの御一家と共に辛苦を味わう事が生駒の魂の一部となってしまっていた。魂を失うのなら人生を終えるのも仕方のない事。いっそその方が楽だと生駒は心のどこかで逃げようとしていたのだ。
生駒は魂を失ってしまった。他に生駒がすがれるものは、隼人の愛と復讐しかなかった。
隼人の愛を受け入れるという事は、大納言殿への未練の火をたとえ徐々にであろうとも消し去っていくということだ。もとに戻れない所に来てしまった以上、大納言殿への想いはすでに愛とは呼べない。未練がましい自分の心と向き合わなければならないのだ。
隼人は以前言っていた。生駒の心は昔の幼い日のままだと。生駒の臆病な心を隼人は知った上で愛を示している。それでも生駒はそれを受け入れる勇気が持てずにいた。
愛される想いを受け入れた事のない生駒は、隼人に惹かれ始めているだけに、その愛によって自分が変わってしまう事に脅えていた。守ってもらえることに安堵する、新たな自分が心の中に居ることに気づいてしまったから。そしてその恐怖から逃れるように、復讐を口実に上げた。自分の中に変わりなくある物は、もうそれしかないのだ。
運命の火に巻かれて生きてきた生駒は、自ら火を灯す方法を見つけられずにいるのだった。
「かなり、色々と盗まれていますね。特に姫様のお道具類は根こそぎ持って行かれました」
白露の君の乳母は肩を落としてそういった。この二日間、大納言の邸は誰もが落ち着かない気持ちのまま過ごしていた。
盗賊達は役人に気がついて逃げざまに、東の対にあった姫君や侍女たちの上質の道具や、香炉、絵巻物にいたるまで盗めるものはすべて盗んでいった。
生駒が実は盗賊の女頭で、この邸を根城にし、下男の鳶丸を使って他の邸を荒らしていた話は、即座に邸中の使用人たちに広がった。でも、この邸で生駒が大納言一家に大変信頼されていた事を誰もが知っているので、影でコソコソと話はあっても、主人たちに気を使って決して主人たちの前でその話をする事はなかった。
何より大納言殿のご家族の誰もがとてもお心を痛めているのがよく伝わって、その話題を持ち出すどころか、生駒や鳶丸の名前を口にする事さえ憚られるほどだったのだ。
捕えられた生駒と鳶丸が忽然と姿を消した知らせも、誰もがすぐに耳にしたが、心の内では「さすが、大納言御一家を騙し続けただけの事はあって、逃げおおす手口も見事なもの」と思ったりしたが、邸の中で口にする者はいない。
それよりもすっかり荒らされてしまった庭を直したり、東の対を片付けたりする事に誰もが懸命になっていた。黙って考えていると心が宙に浮いてしまい、皆、とても普通にしているのが苦しくなってしまうので、当座、目の前の仕事があった方が心は落ち着く事ができるのだ。黙々と誰もが片付けや掃除にいそしんでいた。
「ですが、お道具類はご婚儀に合わせて新調することになっていますし、前より立派なものが揃うはずですから、ここしばらくの間だけ女房達の御道具で御辛抱なさってください。本当に、ほんの少しの間の御不便ですから」
乳母はそう言って姫君を元気づけようとした。もちろん姫の御気分がすぐれないのはお道具が盗まれたせいでない事は分かっているが、他に御慰めのしようもないのだ。
姫の方でもそれは分かっているので、乳母の心遣いに感謝して、
「大丈夫よ。たまにお道具が変わるのも、気分が変わっていいものだわ」
とほほ笑まれたが、その笑顔がとても痛々しくて、皆、姫君のお顔を真っ直ぐには見られずにいた。
「あの、鏡箱も盗まれてしまったのね」
それでも姫がポツリと言った。
「あの御鏡は姫様のお気に入りの品でございましたものね。お母様から譲られた大切なお品。少し古いけれどそれだけに風情のある大変良い御品でした。それを想うと残念ですね」
姫は乳母の言葉に黙って頷いた。もちろん大切な鏡を失った事も残念なのだが、姫はあの箱の中に「白楽天の君」から初めていただいた文をしまってあったのだ。他に文は沢山やり取りして、かろうじて残っていた厨子の中の文箱にしまわれているのだが、あの文は姫が少将に最初に好意を持った文だったので、姫にはとても残念な事と思われた。
「でも、あなた達侍女の品も随分盗まれてしまったのよね。わたくしは幸い新しい御道具が出来あがるけれど、皆はもっと不便な思いをしているでしょう。近々前よりも良い品を用意させましょう。それまで皆で分け合ったり貸しあったりして、気持ちよく上手に過ごして欲しいわ」
こんな時でも周りに気を回せるのは、この姫君の人柄なのだろう。そういう姫のけなげな姿を見てしまうと、姫は生駒を一番のお気に入りにしていただけに、普段口さがないおしゃべりな侍女なども、今度ばかりは口をつぐんでいるのだった。
「こいつらはあんたが金に換えてくれ。俺達が売りに出せば足がつくからな」
盗賊の一人がそう言って兼光に盗品の姫や侍女たちの道具類を見せていた。
「あんたらがグズグズしているから、お宝を売りさばくにも一苦労だ。この辺の品はあの姫が使っていた道具らしいから物もいいだろう。しっかり値を吊り上げてさばいてくれよ」
盗賊は脅すような声色で言った。
「何を言う。お前達こそ肝心の姫を邸の外に連れ出す機会を作れなかったではないか」
兼光は苛立ちながら道具を見ていた。
「あれだけの邸だ。それなりに抵抗は激しかった。それにまずかったことに右大臣の息子の少将が門前に来ていて、その従者達まで相手にしなけりゃならなかったんだ。とんだ見当違いだ。その辺はあんた達の方で確認しておくべきじゃないのか? 俺達が本当に丸まる捕まって公の場で裁かれたら、あんたらだって困るはずだからな」
盗賊の男は不満そうに言い返した。
「とにかく今度の件はお頭だって不満そうだった。でかい邸を狙う時はそっちもそれなりの手配をしてもらわないと。じゃなきゃ俺達は勝手にやらせてもらう。俺たちだってその方が面倒が少ないんだ。今度みたいなこと、もうごめんだと頭も言っているからな」
やはり所詮は盗賊。こちらの言う事などそうそうは聞かぬか。兼光は何か他に姫をさらう策は無いものかと考えを巡らせていた。すると、道具類の中の鏡箱を開いた男が、
「おお、この鏡は物が良さそうだ。これはしっかり値をつけてもらうぞ。箱の蒔絵もいい。なんだ? この紙切れは。文か?」
そう言って男が小さく折りたたまれた文を、ぽいと放り投げた。兼光は何故かそれが気になり、拾って広げてみた。そこには「白楽天」の詩の一部に、何者かが姫に寄せる思いが書かれていた。
鏡の質から見ても、この文は姫君が受取った物に違いないだろう。若い姫君がこうして他の文とは別に取ってあるという事は、これはおそらく少将からの文。しかも、何か特別な意味のある文なのだろうと兼光は考えた。
「これが少将殿の手(筆跡)か。これは使えるかもしれん」
そう言って、兼光はその文を懐にしまった。
「やはり、あの姫を手に入れるのは難しい。もう、こんな事は辞めないか? 私はどうしてもあの姫にこだわって手に入れようとは思わなくなってきた」
中納言の息子の大夫はうんざりした顔でそう言った。
「何と言う御気の弱さです。たかだか姫君一人手に入れるだけの事に、こうも簡単にお諦めになるとは」
「それは私だって、あの姫の評判が良くなるほどに悔しいとは思うさ。だが、はっきり言ってもう面倒になってきた。あの姫にこだわらなくても、姫などこの世には沢山いるのだから」
大夫はむっつりとすねた顔でそう言っていた。やはりこの君は「我が君」とは違っていらっしゃる。所詮は宮仕えの侍女のの血が混じっているだけあって、「我が君」が持っていらしたような位への執着心が足りない。それでもこの男には半分とはいえ「我が君」の血が流れている。この男に八千代の方の姫の子を産ませなければ、「我が君」の心を果たす事ができないのだ。
兼光は苛立ちながらも辛抱強く大夫に持ちかけた。
「大丈夫です。若君は何としてでもあの姫を手に入れて下さい。私に良い手段があるのです。私の言うとおりにして下さい」
兼光はそう言って、大夫に耳打ちをした。




