襲来
「大納言殿の邸を襲う? 正気か?」中納言が驚いて声を上げる。
「正気にございます。そうすればあの邸にも隙が出来ましょう」
兼光は淡々と説明した。
「こうなったら多少の荒っぽい手段を使う方が早い。あの邸には何か後ろ暗いところがある。特に下男の鳶丸とか申す者は、幾度か盗賊達の後を付け回していた事があります。だが役人に踏み込ませても今は右大臣殿の後ろ盾もある。また、空振りに終わることでしょう。しかし夜盗に不意をつかれれば何かボロを出すはず。さらに姫君もこちらの邸にさらってしまえばよい」
「姫君をさらう? そんなことをしてはこちらがばれてしまう」
「何を言っているのです。あなた様は検非違使の別当でいらっしゃる。堂々と邸に出向いて盗賊を捕えながら姫君を保護した事にすればよいのです。今の大納言殿からあの姫君を奪えば、大納言殿はなすすべもありません。あなたが大納言殿の地位を取って代わられればよいのです」
「しかし、殿上人の邸を襲うというのは……。今まで邸が襲われようとも三位より上の位の邸が襲われる事は無かった。だから他の高貴な方々も自分の身に害が及ばないと踏んで、恐れながらも盗賊達の動きにも目を瞑っていたのだ。これが自分達殿上人にまで害が及ぶとなれば話は違うだろう。検非違使庁の職務怠慢が問われる」
「ですが、盗賊達をこのままどうするおつもりですか? なりを潜めてから随分経っています。彼らもそろそろしびれを切らしている。それにこれからは死人や疫病が増える季節です。彼らも薬などが手に入れられるように、蓄えを欲している。放っておけばこちらが狙われますぞ」
都の夏は決してすごしやすくはない。身分のない貧しい人々に暑さは身体を弱らせ、食べ物は痛み、病や疫病がすぐに蔓延する。死人が増えるとそこからまた疫病が起り、都の洛外などひどいありさまとなるのだ。
その上高貴な方々も都の暑さは耐えがたく、邸の戸締りもどうしても緩みがちだ。夜盗、強盗、盗人の類には、ちょうど狙い時とも言えるのだった。
「夏場、ああいう者たちにじっとしていろというのは無理な話です。同じ襲わせるなら受領の邸などより、直接大納言を狙って、大納言殿は遠国にでも追いやってしまわれればよい。姫の身を預かり、あなたが取って代わられればよいと言っているのです」
「だが、失敗すれば私は破滅だ」
「何もしなくても盗賊達に殺されますよ。迷う事など無いはずですが」
中納言は、兼光が蜘蛛のように思えた。自分はその糸に巻きつかれてしまっている。もはや自分で動くことも、逃げる事も出来ない。その糸に人形のように操られるか、そのまま餌食になるより他に選ぶ事ができなくなっていた。
「姫様、少将殿からのお文です」
生駒がいつものように白楽天の君からの文を姫に手渡した。
「ありがとう。ちょっとお返りの文を書くのに手間がかかりそうだから、しばらく隼人と話でもしてらっしゃい」姫は生駒にそう促すが、
「いいえ。こちらでお待ちしています。私の事はお気にせずにゆっくりお書き下さい」
そう言って姫の近くに控えていた。
「そうしっかりと見据えられていたら書きにくいわ。なあに? 隼人と喧嘩でもしているの?」
「その御心配は御無用ですわ。姫様達の御蔭で毎日のように文使い殿とは顔を合わせておりますから」
「でも、文の受け渡しをしているだけでしょう? 夜もほとんど曹司に下がる事は無いし」
「それで充分なのでございます。なにしろ私は姫様のおっしゃる通り、恋文の名人でございますから。ほら、そのあたりの文字は、少し固く見えますよ。もう少し力を抜いて、ほんの少しかすらせるくらいがよろしいでしょう」
「まあ嫌だ。恋文を覗いて筆跡を指導するなんて」思わず姫が笑われた。
「そうおっしゃらずに、名人の言う事は聞いておいた方がよろしいですよ」
生駒もそういいながら笑っている。
実際、生駒は隼人と長い時間会う事を避けていた。もちろん、北の方に姫の事を頼まれているので、姫のお傍から離れないようにしているせいでもあるが、今、隼人と逢うのは彼をいつも以上に傷つけてしまうような気がしたのだ。
あれから大納言とも逢っていない。大納言も今は北の方と心を合わせて、姫君を守ることに精いっぱいの努力を惜しまずにいる様子だ。
生駒は北の方とお話しした時のみじめさを、心の中から追い払えずにいた。
初めから勝ち目も、勝とうという気持ちもなかった。それでも家族のように愛され、信頼されながらも、女の部分を利用されたような気持はぬぐいさる事が出来なかった。
召し使われる身といえど、人間の女。感情もあれば心もある。家族同様に扱われながら、きちんと割りきれなかった自分が悪いとはいえ、必要以上に頼ってこられた大納言殿の御心や、その事に気付きながらも我が子のように育てて下さったにもかかわらず、やはり女房だからと目をそらし続けた北の方のお気の弱さ、それでいながら妹のように姫を慕う気持ちを使って、姫の身を守って欲しいとおっしゃるずるさに、生駒はやるせなさを感じずにはいられない。
それでも生駒はこの邸で命を長らえ、愛情を持って育てられ、幸せな時を過ごし、人を愛することを知り、仇を追いかける機会まで与えられた。その感謝は何にも勝るものだ。この心がある限り、生駒はこの家族を慕わしく思わずにはいられないだろう。けれど家族以上に大切に思うほどに、自分は所詮ただ召し使われるだけの身なのだと思うと、分かっていたつもりなのにみじめでどうしようもない思いがよぎるのだ。
こんな思いのまま隼人に逢ってこの心を埋め合わせようとすれば、後ろ暗い気持ちが先立って、なんだか一層隼人を傷つけてしまいそうだ。だから今は、姫を守ることだけに心を寄せていたいと生駒は思っていたのだ。
そしてとうとう姫のご婚儀の日取りが八月にきまった。今は六月の末だが、これから六月祓へに始まって宮中では次々と行事が執り行われ、公達の公務が忙しくなる。それが終わって落ち着いた頃にご婚儀をと言う事で、日を選ぶうちに八月まで良い日取りが無かったのだ。
「まだ暑い内のご婚儀になりますね」生駒がそういうと、
「待ち遠しいわ。まだひと月以上もあるなんて。私にとっては一年待たされる織り姫の様な心境よ」と、姫は少しがっかりされた御様子だ。
「あら。何年でも御待ちになるとおっしゃっていたのに」と乳母がからかうと、
「あの時はあの時。今はみんなが祝福してくれるのだもの。父上も母上もこれで安心なさるわ」
「そうですとも。今が一番楽しい時です。御調度などを新しくされる時間も十分にありますから、きっと立派なものが揃いますよ。楽しみですこと」
と、乳母も自分の事のように喜んでいた。
ところがその数日後、夜も遅くに生駒が使っている女童が、
「隼人さんがいらっしゃって、生駒様を呼んで欲しいと言ってます」
と伝えてきた。何事だろうかと生駒が行ってみると隼人は、
「検非違使達の様子がおかしい。この辺をまったく見廻る気配もない。近衛府も同様だ。このあたりに怪しい気配はないか?」
「今の所は……そういえばやけに邸の外が静まり返っているわね。人の気配どころか、犬の鳴き声一つしないなんて」
「用心した方がいい。門番には言って聞かせたが。姫君の様子は?」
「いつも通りよ。もうすぐお休みになられる所。今夜も私、姫様のお近くで休むつもりだし」
生駒がそう言っている時、突然庭が騒がしくなった。以前役人が押しかけて来た時などとは比べ物にならない騒ぎだ。悲鳴と怒号が飛び交っていまる。
「一体何?」
生駒がそう言ううちに、薪を片手に、もう一方に太刀を持った、顔を隠した男達が現れた。人殺しの盗賊団だ。あれよと言う間に警護の侍や、下男たちが賊に立ち向かっていった。
その中に生駒はあの、仇の男を見つけた。思わず飛び出そうとしたが、
「馬鹿! その格好では危ない。お前は姫の所に戻れ。姫君をお守りするんだ!」と、早とに怒鳴られた。
言われると確かにいくら夏で薄着とはいえ、袴に幾枚か衣を重ねた装束ではまともに動く事は出来ない。
「奴は俺が追う。いいから姫君を守れ」
どんなに悔しくても隼人の言う通りだ。生駒は姫のもとへと急いだ。




