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それぞれの夜

「大納言殿を捕えられなかったのですか?」


 中納言が邸に戻ると兼光は不快そうな表情を隠しもせずにそういった。不遜な奴。と中納言は思うがそれを彼の前で口にする事は出来ない。彼には奇妙な威圧感があるのだ。


「盗賊達はさぞや苛立つことでしょうな」


 兼光がまるで他人事のように言った。疲れているので口論を望まなかった中納言ではあったが、その言い方が引っ掛って、つい声を荒げてしまう。


「あのような者達のこと、何故私が気にしなければならないのだ。苛立つなら苛立たせておけばよい。兼光、お前こそ奴等に勝手な事を言わせるでない」


 しかし兼光はそっけなく、


「あの者たちは中納言殿に仕えている訳ではありませんぞ。別に私の下に集っているのでもない。彼らは夜盗でしかありません。誰かが何かを言って、控えるという者ではないのです」


 と、淡々とした表情で答えた。


「だがこれでは私が奴等に利用されているではないか。何故、この私が大納言殿に責任を問われるような目に遭わなくてはならないのだ。表沙汰になどしなくても今回の事は恐らく人の口に上り、噂される事であろう。こんな事がまた起ろうものなら検非違使庁の面目が保てぬ」


「では、あの者たちにそう言ってごらんになりますか?」


 兼光は冷ややかにそういった。中納言の顔色が変わる。


「そんなことをすれば盗賊たちは真っ先にこの邸を狙い定めることでしょうな。それでなくともあの者たちは人を殺すのに容赦がない。しかも検非違使庁の動きを今ではすっかり知っている。あの者たちを敵に回せば、一番困るのは誰よりもあなた様なのではありませんか?」


 中納言は一言も返す言葉がなかった。ただ、その顔に冷や汗を浮かべるばかりだ。


「我々はすでに後戻り出来ぬ所に来ているのです。ここにきてお心弱りなことをおっしゃろうとも、私にはどうする事も出来ません」


「そなた……! それが主人にたいする物言いと思っているのか」


 それでも中納言はこの従者に威厳を示そうと、兼光を睨みつけた。


「そんなことおっしゃっても無駄です。これはあなた様が御望みになったこと。私ではない。私はあなた様の御望みを叶えようとして差し上げたまでです。このまま三位どまりでは終わりたくないと望まれたのは他でもない、あなた様です」


 兼光にそう言われてしまうと、中納言の目が動揺で揺れる。思わず兼光から目をそらしてしまった。兼光は中納言にそっと近づいた。


「迷われる事は無い。盗賊達もあなたを利用しているが、あなただって盗賊達を利用しておられるのだ。弱気になられる事はありません。ここまで手を染めた以上は、どこまでも染まり抜いてしまえばよいのです」


 兼光はまるで幼児をなだめるかのように中納言に寄り添い、そう囁きく。中納言は心の底で脅えながらも、兼光の言葉から逃れられなくなっていた。


「大丈夫です。この兼光がいる限り、中納言家は必ず栄えます。私は御子息の大夫殿を栄えさせるためなら、どんなことも厭いはしませんから」


 兼光はそう言って、冷やかな笑みを浮かべた。



 大納言は八千代の方のいる北の対にお越しになると、動揺する八千代の方を落ち着かせようと御帳台の中に入った。


「ここにも役人たちが乗りこんでまいりました。一体どうしてこのような嫌疑をかけられたりしたのでしょう?」


「大丈夫だ。嫌疑は晴れた。あなたが邸に人を入れるなと言って、祈祷をさせなかったおかげだ。役人は皆出て行ったよ。御心配召されずに、ゆっくり休むがよい」


 大納言がそういうと八千代の方は安心したようにほほ笑んた。


「ありがとうございます。姫を守りたい一心の事でしたのに。そのようにおっしゃっていただけるとわたくしも嬉しいですわ。わたくしはいつもあなたにご迷惑をかけてばかりですから」


「何故、そう御自分をいつも卑下なさるのです。あなたは姫を立派にお守りしている。今度は私の名誉までも守って下さったではありませんか。あなたはこの邸の北の方として十分に役目を果たしておられる。もっと堂々として下さっていてよいのです」


 大納言はそういうが八千代の方は目を伏せながら


「いいえ。わたくしはあなたのご負担になってばかりいますから。せめて少しでも御負担を減らせるのなら」という。


「そんな事は無いのだ。何故あなたはそうなのです? 昔のことなどもう気にする必要はないのです」


「気にしてなどいませんわ。わたくしはただ、あなたに感謝をしているだけ」


 八千代の方はそういったが、その御顔には申し訳なさげな影が浮かんでいた。大納言はその影を振り払いたいと思うが、最初の姫君が亡くなってからと言うもの、八千代の方からその影が消える事はなかった。


「感謝などどうでもよいのです。あなたは私をただ、愛してさえくだされば」


 大納言殿はそう言うが、


「愛しておりますわ。そして、私のような者への情けに、感謝もせずにはいられませんの」


 八千代の方がそう言うと、大納言殿はいつも八千代の方の御心に伸ばした手を振り払われたような心地がする。それをやめさせたくて自分は心から八千代の方を望んで結ばれたのだと伝えたいと思うのだが、その話をするとどうしても八千代の方は忌まわしい記憶にさいなまれてしまうらしい。


 伝えたい心がありながら、八千代の方の心の傷の深さに、大納言殿はその手を伸ばすことがためらわれてしまう。この御夫婦はそうやって長い月日を過ごして来てしまった。大納言殿は八千代の方を愛しながらも本当の心の奥に、触れてはいないような気持になっていた。そこに触れるために二人の間を阻む傷に触れることを、二人とも恐れているのだ。


 大納言はそのやるせなさを出世への欲へと変えて行った。愛の伝えようがないのなら、せめてこれ以上八千代の方を苦しめない、平穏な日々を与えたい。そのために良い地位にいることを深く望んだ。それでもどうしようもなくなる時は、生駒にすがりついてしまった。生駒は契約と言っていたが、大納言にとってそれは愛ではないとはいえ、今では妻を傷つけないために必要不可欠なものになっているのだ。


「私も愛しているのですよ。きっとあなたが考える以上に。だが愛は比べるものではないのでしょう。あなたも今は病み上がり、お疲れになってはいけない。今夜はなんの御心配もなく、お休みになられて下さい」


 八千代の方が、この方が私に傷を恐れずに心をもっと開いて下されば。


 大納言もそうは思うのだが、それは若くして心を深く傷つけられたこの方にはあまりに酷な事と思い、その事に触れることなど出来ない。いや、その事に触れることによって再び八千代の方を自分が傷つけた時、それをすべて受け入れるだけの自信も、大納言には無いのだ。




 姫は少将からの文を手に、ぼんやりと物思いにふけっていた。役人たちが乗りこんで来た時、侍女達は動揺し、それでも乳母が身を張って自分の姿を隠してくれた。

 こんな時に生駒がいなかったのは心細かったのだが、その代わり生駒は少将からの文を姫に届けてくれた。しかも少将は姫の身を案じて、邸の門前まで来ているというのだ。

 こういう時に少将が近くにいて下さったのは、姫には何よりの励みになった。姫の方でも駆けつけて下さった少将に心を込めた返事の文を贈る。


 姫が少将からの文を喜び、少将の御心を褒めるので周りの侍女達にも喜びが伝わるのか、さっきまでの動揺が嘘のように、邸にやすらぎの空気が生まれた。


「やはり、白楽天の君は優しい御方だわ。あの方のお心づかいの御蔭で、この対も穏やかでいられたのだわ」


 姫はそう思うと心が温かくなり、少将からの文を何度も読み返していた。


 ただ、姫には気になる事があった。皆、安心して喜んでいる中で、生駒の様子だけが沈んで見えた。沈むというより苦しげで、いくら生駒の方を見ても生駒は姫と真っ直ぐに視線を合わせてはくれない。


「生駒は父上と逢ったのかもしれない」


 そう思うと姫も悩ましい気持ちになる。父上が生駒を呼ぶ以上、生駒はきっとどうすることもできないのだろう。それなのにそのことで生駒が苦しんでいるのなら、生駒はどこまでも自分達親子のために苦しめられていることになる。姫は生駒を責める気になどなれない。むしろどうしたら生駒の心を救えるのかと、悩んでしまうのだ。







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