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嫌疑

  けれどその夜、生駒は大納言に呼びだされた。邸の主人に呼ばれて出向かない訳にはいかなかった。生駒は顔色の悪かった、少しやつれの見える大納言の表情を思い出してしまう。


「……そういう事ではないわ。姫様のご様子をお話して、ほんの一言お慰めする言葉をかけるだけだわ」


 生駒は曹司の中で、一人、声にしてそういった。自分の心に負けないようにと。

 表着うわぎを着ようと手を伸ばし、気がついた。いつものように香を焚きしめていたのだ。あの、甘さを抑えた涼やかな香を。


「癖よ。つい、癖が出たんだわ」


 そう、期待したわけじゃない。生駒はまた自分に言い聞かせた。


『あなたをわたくしと父上から解放したいの』


 頭の中に昼間の姫の御言葉がよぎりる。手のぬくもりも思い出された。

 鏡を覗くと少し厳しい表情をした、自分の顔が写っている。昼間の穏やかでありながらすがすがしく微笑まれる、若さあふれる姫君の顔が思い出された。比べると今の自分はひどく醜く生駒には思えた。


「こんな顔だもの。今夜は何もないわ」生駒は皮肉な笑みを浮かべて鏡から目をそらす。


 こんな表情の女。どんな殿方だって愛しはしないわ。たとえ隼人だって。大納言殿だって。


 生駒は急に胸が痛んだ。大納言殿が私を愛さない? いいえ、違う。私は大納言殿に愛されたことなど無かった。ただ、あの方は私にすがっておられただけ。どれほど身を重ねようとも私はただの一度も愛されたことなど無い。分かっていたはずの事。


 今までずっと承知していたはずの事が、生駒に急に襲いかかってきた。愛に気づかなければ、隼人さえ私の前に現れなければ、こんな苦しみを味わう事など無かったのに。


 しっかりしなければ。私は女房なのだから。この邸の御家族に、献身を捧げるべき女なのだから。


 生駒はこみあげようとする何かを飲みこみ、奥歯をグッとかみしめた。


「今はただ、姫様のために」


 そうつぶやくと生駒は自分の曹司を後にした。




 生駒が大納言殿の御前に参ると、そこはいつものように人払いがされていた。


「今夜は人払いは御無用にございましょう。北の方の御看病で殿もお疲れと存じますので、酒の用意でもさせましょう」生駒はそういったが大納言は、


「今は人に会いたくない。故に人払いをしたのだ。このままお前はここにいればよい」


「でしたら私も失礼させていただいた方が」


「ならぬ。ここにおれ」大納言は生駒の衣装の裾をつかんだ。


「大納言殿。私は姫付きの女房にございます」生駒はそっとその手を離そうとした。


「生駒。そなたまで私を軽く見るか」大納言は疲れた表情のままそういう。


「滅相もござ……」


「誰もが言うのだ! 幼い時には変わり者の姫と呼ばれた姫君。どんなにうわべを取り繕うが本性は変わらなかった。変わった姫を持つと苦労が絶えぬと。気の毒だ気の毒だと言っておきながら、内裏を少しでも離れようものなら、好き放題言葉が飛び交う。そういうものなのだ。姫や北の方は知っているとは言うが、実際にそれを耳にするのは……」


 大納言殿が、あの、すがるような目で生駒を見つめる。生駒は息をする事さえ忘れてしまう。


「生駒、私は苦しい。苦しいのだ」


 大納言にしがみつかれ、生駒は崩れるように倒れた。今まで頭にあった断りの言葉を、すべて失ってしまった。ただ、頭の中が真っ白になっていた。


「殿、失礼します」


 御簾と几帳の向こうから、大納言付きの女房が声をかけた。生駒は急いで離れる。


「なんだ?」大納言も上ずっていた声を整えながら返事をした。


「大変でございます。検非違使庁の役人が、大納言殿が右大臣殿を呪われているという嫌疑があるとおっしゃって、門を開けるように申しております。開けなければ大納言殿を捕えられるとおっしゃっているのです」


 そういう先から外から騒がしい声が聞こえてきた。どやどやと人が庭に入り込む気配があった。強引に役人たちが門を開けさせたようだ。大納言殿が南の廂に向かい、妻戸を開いてすのこへと出て行った。生駒も後を続いて行く。

 庭には役人が数人と、検非違使の別当を兼任していらっしゃる中納言殿が立っていらっしゃった。


「人の邸の庭に強引に入りこんで、これはいったいどういう事なのだ」


 大納言が中納言に問いかけた。


「大納言殿。あなたに嫌疑がかかっております。北の方の御病気を口実に右大臣殿を呪う御祈祷を行っていると」


「それはどこから出た話なのだ。我が邸で祈祷など行ってはいない」


「だが、北の方が御病気であったのは事実。それを隠れ蓑に禁じられた秘法を使い、右大臣殿を呪っておられたのではありませんか?」


 中納言はすっかり決めつけた口調でいう。今にも大納言を捕えようとするようだ。邸の下男や侍たちが大納言をかばうように立ちはだかった。


「そんなにおっしゃるのなら、この邸で祈祷の護摩を焼いた後があるか、御覧になってその目で確かめるがよい」大納言はそう言って中納言を寝殿に通した。


 中納言と役人は邸中を走り回った。けれども何処にも呪いはおろか、普通に祈祷をした後すらない。


「そんな馬鹿な。どういう事だ? どんな邸でも病人が出れば平癒の祈祷を行うはず」


「祈祷は行わなかったのだ。我が妻は何人たりともこの邸に人を入れるのを拒んだのだ。それでも妻は回復した。それにもかかわらずこのような騒ぎを起こして、中納言殿はこの責任をどう取られるおつもりか。これで我が妻がまた病となった時は、どういい訳なさるおつもりなのだ」


 大納言はそう言って中納言と役人に迫った。それはこの邸の主人として、十分に威厳あるものだった。中納言は言葉を詰まらせる。


「よろしいでしょう。今は我が妻も病みあがり。ここでいつまでも騒いでは欲しくない。姫も御心を痛めるばかりだ。今すぐこの邸から出て行けば、この事は不問としよう。さあ、出て行くのだ」


 大納言がそういうと、中納言と役人たちはすごすごと邸を出て行った。


「生駒、すまなかった。すぐに姫の所に戻ってくれ。私は八千代の所に行く。さぞ、動揺していることだろう」


「かしこまりました。お方様も殿も、落ち着かれますよう」


 生駒は色々な意味でホッとしながら、東の対に向かった。すると庭を突っ切って、隼人が駆けて来るのが目に入った。


「生駒。大納言殿は大丈夫だったのか?」隼人が聞きます。


「隼人。どうしてここに?」


「検非違使の役人が大納言殿を捕えに邸に出向いたと知人が知らせて来た。若君が大変心配なさって、門の外にいるのだ。中に入られるとどんな厄介な事になるとも分からないから、お待ちいただいて俺がお文だけ持ってきた」


「そう。大丈夫。大納言殿の嫌疑は晴れたから。中納言殿達は邸から出られたわ」


「それはさっきすれ違った。だから中に入れてもらえたんだ。姫君はいかがお過ごしか?」


「私も今、姫様の所に向かう所なの」


 生駒がそういうと隼人は訝しげな表情になる。


「ここを通ってか? いままで寝殿にでもいたのか?」


 生駒は寝殿と東の対をつなぐ渡殿の上にいたのだ。


「大納言殿に逢っていたのか」隼人が不機嫌な表情になった。


「姫様のご様子をお伝えに行っただけよ。すぐに役人が乗りこんで」


「この香を焚きしめてか?」


 隼人は生駒の腕をつかみ、無理に広げさせた。


「袴の帯が緩んでいる」


 隼人にそう言われて生駒は腕を払い、両腕を組み合わせた。


「それがどうしたというの? あなたには関係ないわ。私はあなたを恋人にした憶えは無いのだから」


「そうだな。ただ、私は今は文使いに来ている。この文は姫に渡してもらいたい。今、姫の顔を見るのは辛いだろうがな」


 隼人は生駒を睨んだままそういった。







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