お見舞い
「生駒、御簾を上げて。物忌みは辞めにするわ。母上のお見舞いに行きます。今すぐ支度を」
姫は凛とした声でそういった。でも乳母は慌てて、
「ですが姫様、北の方様は姫様に物忌みさせるようにと」といいますが、
「乳母、この東の対の主人は誰ですか? わたくしは誰が止めようとも母上の所に参ります。お前は私を主人と認めるなら、黙ってついてきなさい。誰か母上にお知らせしなさい。私がお見舞いにお伺いすると」
そう言って姫は立ち上がる。
「乳母、着替えを。撫子の襲の小袿を着せてちょうだい。童は泔で髪を梳いて。癖がつかないように気をつけて。生駒、前に香を合わせた時、蓬を加えた事があったわね?」
「ええ、荷葉の香に、ほんの少し」
「すぐにあれを合わせてちょうだい。母上のお見舞いにします。あれは心の安らぐ中に、爽やかな匂いがしたわ。きっと母上の御気分にもよろしいはず」
生駒はしばし唖然としていたが、姫のほほ笑まれる姿を見てすぐに、
「かしこまりました」と言って香を合わせ始めた。
さらにすこし火取り(香を衣に焚きしめる道具)にくべると、姫の着る小袿に香を焚きしめる。
姫の着替えが終わると使いの者が戻り、
「北の方様は姫様におとなしくしておられるようにとおっしゃっておられますが」
と、おどおどと声をかけるが、
「かまいません。わたくしが勝手に伺うのです。さあ、ついてらっしゃい」
そう言って姫は顔に扇を広げ、しずしずと歩きはじめられた。
北の対(北の方の住まう所)に入られると北の方に古くから付いている女房が驚きながらも、
「お方様は御気分が悪くていらっしゃるにもかかわらず、御祈祷の僧をお呼びにならないのでございます。どんなご病気とも知れませんのに。典薬のお薬もそれほど効き目がないようなのです。大納言殿はずっと付き添われていますが、私どももどうしたらいいのか」
と、涙ながらに姫に訴えた。
「泣くのはおやめなさい。泣いたって母上は良くならないわ。ここは暗すぎる。今すぐ御簾を上げなさい」姫はぴしゃりと言った。
「ですが、お方様は御気分が」
「長い時間ではないわ。日の光を入れるのです。その屏風もこちらに片付けなさい。几帳はそのままで。……母上。お見舞いにお伺いいたしました」
姫は几帳の内に入られ、大納言のいらっしゃる御帳台のすぐそばに寄ってこられた。
「姫。何故言う事が聞けぬのですか。ここにはもののけがいるやもしれません。あなたは物忌みで慎んでいらっしゃい」
北の方は伏せったままそうおっしゃったが、
「いいえ、母上。わたくしの評判など、言いたいだけ言われているのでしょう? 嘘はお付きにならないで。侍女たちの様子を見れば分かります。もうすでにわたくしは、はしたないと世間に思われています」と、姫は答えた。
「姫。そのような事は私が決して誰にも言わせぬ」大納言はそういいますが、
「父上、人の噂を止めることなど出来ませんわ。わたくしなら大丈夫。何も後ろめたいことなど無いのですもの。ほら、世の人が何を言おうと、外はこんなにも明るく、庭は美しいのですわ。御覧になって」
そう言って姫は几帳を少し寄せて、北の方に寝殿とこの北の対の間の清らかに砂を敷かせた小さな庭をお見せになった。そこには輝かしい春から初夏へと移ろうとする日差しが降り注いでいた。
「お見舞いに香を少しお持ちしましたの。心の落ち着く香りでしょう? ねえ、お母様。わたくしを美しいと思われますか?」
そう言って姫は背筋を伸ばし、にっこりとほほ笑まれた。そのほほ笑みは日に照らされて艶やかに光る黒髪に縁どられて、まるで輝くようだ。
「……美しいわ。とても」
「だったら大丈夫。わたくし、きっと少将様の妻になれるわ。この邸も日差しに負けないほど明るく華やかにしてみせます。ですから母上もお元気になられて」
そう言って姫は北の方をそっと起き上らせると、用意させた甘葛の汁を北の方に薦めた。美しい庭、温かな日差し、心落ち着く香の匂い、甘い飲み物、若さあふれる姫の笑顔。
不思議な事にさっきまで北の対に漂っていた空気が一変し、北の方のお顔の色も良くなっておられた。大納言と北の方は、ただ、姫を見つめている。
「不思議だわ。まるでもののけが憑いていたのが落ちたかのよう」
そう言って北の方は大きく息をついた。
「日の光と落ち着きある心が、災いを振り払ってくれるのでしょう。わたくし、物忌みなんてしませんわ。父上、絵をお取り寄せ下さい。物語もたくさん。母上が良くなられたら琵琶もまた教えて下さいまし。少将殿に歌もたくさんお贈りするわ。それに生駒」
「はい」
「私にもっと香を教えて。手(筆跡)ももっと美しくなりたいわ。あなたの恋文が素晴らしく美しい事は有名よ。わたくしにも教えてね」そう、姫はいたずらっぽく笑った。
「お見舞いで長居をするのはよくないわね。そろそろ失礼しますわ。母上、ゆっくりお休みになってね」
姫は御簾を下ろさせるとそう言って北の対を後にした。帰り道、姫は、
「生駒。わたくしは世の人の噂には負けないわ。わたくしはわたくし。誰よりも華やいでみせる。あなた達侍女も助けてくれるわね?」とおっしゃった。
何と言うお強さ。何と言う気概。誰よりも傷つかれ、誰よりも不安でおられるはずなのに。生駒はまだ、呆然としていた。すると姫は今度は顔を曇らせ、
「あなたはわたくしと父上を、今まで支えてくれていたわ。でも今は、しばらくの間父上と逢わずにいて欲しいの。母上のために。今まで頼りにしておきながら、あなたには辛い思いをさせるわ。こんなことを言うのは心苦しいのだけど、あなたなら分かってくれるわね?」
と、生駒の手を握っておっしゃった。
「違う……違うのです。私は姫や北の方の優しさに甘えていたのです」
そう。甘えていたんだわ。大納言殿の事ばかり見ていて、自分がどれほど素晴らしい人の下に仕えていたのか分かっていなかった。こんなお心を持つ姫君は、きっと何処にもいらっしゃらない。あまりにもおそばにいるのが当たり前になっていて、気付かなかったんだわ。
何故私は今まで気づかなかったのだろう? なぜ大納言殿は気づいて差し上げられなかったのだろう? 生駒に後悔ばかりが浮かんだ。
「いいえ。甘えていたのは私達の方。わたくしはあなたをわたくしと父上から解放したいの。どうしたらあなたに新たな幸せを差し上げられるのかしらね?」
「私はこの上なく幸せです。十分すぎるほどです」
生駒は喘ぐような思いでそういったが、姫は悲しそうに微笑んだまま、東の対に入っていかれた。




