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兼光

 大納言は右大臣の邸に行くと、丁寧な対応で寝殿の南の廂の間に通された。けれど右大臣からの言葉は残念ながら芳しい物とは言えなかった。


「たしかにお話をうかがう限り、そちらの姫君に非がある訳ではなさそうです。息子の少将も根も葉もない事と思っているいるらしく、姫君との結婚の意思は持ち続けているようだ」


「でしたら、縁談を取りやめる必要はございませんでしょう?」


 大納言はすがるような気持で右大臣におっしゃったが、右大臣は浮かない表情で、


「そうは言ってもあまりにも噂が広がり過ぎた。あれよと言う間に殿上人のみならず、四位、五位の者たちにまで広がったらしい。これは少し間をおいてほとぼりを冷ます必要があろう」


「ほとぼりが冷めれば、我が姫と少将殿の婚儀、間違いなく行われるのですか?」


「それはその時の状況次第だ」


 右大臣の自信なさげな言い方に、大納言は苛立ちを隠せずにいる。


「それでは困ります。当然婚儀には我が姫の一生がかかっているのです。右大臣殿も人の親であらせられるのですから、こちらの気持ちは分かって頂けるはずですが」


 右大臣はこめかみに指を当て、軽くため息をつくと、


「もちろんそれは分かります。いや、分かるからこそ慎重になるのです。あなたもご存じのとおり私も少将の姉を帝の女御に差し上げています。幸い帝からの深い御寵愛を受ける事が出来て、私もさしたる人間ではありませんが帝の御心使いなどもあって、今では右大臣と言う重職を務めさせていただいている。長男もこの春無事に参議にまでなる事が出来た。だが帝には他の女御様に皇子が誕生した。我が娘は親の宿世すくせのつたなさのせいか、お生まれになるのは姫皇子ばかり。帝のご期待に添えているとは言い難いのだ」


「こちらの女御様が、帝から大変ご寵愛を受けていらっしゃるのは皆知っています。大変素晴らしい女御様を御入内なされて、羨ましい限りです」


「だが、国母こくもではいらっしゃらない。帝の御心にすがっている我が一族が、帝に不名誉になるようなことは極力避けなければならない。正直、感心しない噂の立った姫との縁談は、私はあまり良い気持ちでは受け難い」


「ですからそれは、根も葉もない噂だと!」


「そのようだ。しかも少将はそちらの姫との婚儀を強く望んでいる。それでなければ残念ながらこのお話は断っていた所だ。私も人の親。大納言殿の親心は痛いほどよく分かる。だが、人の親だからこそ、我が娘や息子たちの立場も大切なのだ。今、我が一族に傷をつけたくはない」


 右大臣は大納言から視線をそらしたまま、淡々とこうおっしゃった。右大臣自身はこの話を無かった物にしたいという本音が透けて見えるいい方だ。でも大納言もここで引っ込むわけにはいかない。


「我が姫は濡れ衣を着せられ、大変傷つき、周りからも傷ついた姫として見られてしまっています。これが貴族の娘にとってどれほど苦しい立場に追いやられるかは、右大臣殿も分かっていらっしゃる筈。ここで姫がこの御縁談を断られては、姫には良縁と呼べる縁は二度とないかもしれません」


「姫君は中納言殿の御子息の大夫から求婚されているではないか」


「その中納言殿が噂を流された事は、誰もがご存じの事ではないですか。その中納言殿の御子息と我が姫を縁づけよとあなたはおっしゃるか。あなたは御自分の娘の女御様のために、我が姫に犠牲になれとおっしゃるのか!」


 大納言は恥も体裁もなく叫ばれた。自分の姫には何の罪もないというのに、こんなことで中納言の策略に落され、輝かしい生涯を狂わされようとしているというのに、右大臣はその中納言の息子を姫の婿に通わせろというのだ。


「我が子が可愛い。その親心は私とて同じなのですよ。私はあなたの姫よりも自分の子供たちが可愛い。御理解願いたいですな。それにこれはこちらからの破談ではない。しばらくほとぼりを冷ます時間を置くべきだと言っているのです。ここは素直に受け取って、時を見て中納言殿の御子息を婿に迎えるべきでしょう。その時はこちらも出来るだけの後ろ盾をさせていただきます」


「そういう事ではない……そういう事ではないのだ。それでは姫の名誉は守られぬ」


 大納言は悔しさに拳を握りしめる。中納言の子息を婿に迎えれば、やはりあの噂は本当だったのだ。だから大納言は大夫を婿に迎えたのだろうと人々は思う事だろう。それでは姫に何の非もなかったと証明できなくなる。大納言にそれは耐えられそうになかった。


「右大臣殿。あなたも恐れられているのか? 中納言殿に逆らった者の邸は、すべて皆殺しの盗賊に襲われるという話を」


「それこそただの噂でしょう。だが、実際に邸が襲われている以上、そういう事は避けたいというのも人の情と言う物ではありませんか」


 右大臣はご不快な様子をあらわになさった。


「お帰り下さい。でなければこの縁談はたった今こちらから破談にさせていただきます。それこそそれでは姫君には立つ瀬がなくなることでしょう。あなたに親心が御有りなら、ここは黙って引いていただきたい」


 そう言って右大臣は奥へと下がってしまう。大納言は腹の煮えくりかえる思いで右大臣の邸を後にしようとした。

 すると車に乗り込もうとするところで、声をかける者がいた。振り返ると姫の縁談相手、右大臣の次男の少将が息を切らして駆け寄ってきた。


「大納言殿。私は必ず『桜花の君』と、あなたの姫君と結婚します。いや、させていただきたい。私は父の名から離れれば、ただの五位の若造です。それでも、それでもよろしければ、是非姫の婿にしていただきたい。父に勘当されても必ずや出世を果たしてみせます。姫君に御苦労はおかけしません。ですからそれまでお待ちください。決して心変わりなどしませんから」


 大納言は胸が熱くなるのを感じた。この世知辛い世の中でも、若い心はまっすぐで純粋に息づいているのだ。世間の噂に惑わされず、姫を信じているのだ。大納言にはその心が何より嬉しく感じた。


「ありがとう。その言葉は我が姫に伝えよう。姫はきっと待っている。あれはそういう娘だ。あなたの言葉は姫の何よりの励みとなるだろう」


 そう言って大納言は、重い心に一筋の希望の光を感じながら、車に乗り込み邸を後にした。



 一方、その頃大納言の北の方である姫君の母、八千代の方は、中納言家からの使いを待っていた。今度の事はあまりにも姫君が哀れで心配のあまり、中納言殿か、その北の方と御対面をさせてもらえないかと文を贈っていたのだ。けれどもそのどちらからも会ってはいただけないとの返事。北の方は落胆した。すると、


「使者である、私めと少しお話をさせていただけませんでしょうか?」


 と、以外にも文を運んできた従者が言いだした。北の方は藁をもすがる思いでその従者と御簾越しだが話をする事にした。


「私の様な者の話に、耳を傾けて下さり、ありがとうございます。北の方は私の事など覚えておられませんでしょうが、私にとって北の方は大変懐かしい方なのです」


「懐かしい? わたくしと会った事があるのかしら?」


 北の方は怪訝そうに聞き返す。


「ええ。私は何度もあなたをお見かけしております。八千代の方様」


 そう言って従者は顔を上げた。その顔を北の方は確かに見覚えがあった。随分昔に知っていた顔のように思える。


「どなただったかしら……?」


「私の名など知らなくて当然です。だが、私の昔の主人の名なら覚えておいででしょう」


「どなたの事かしら?」


「私の元の主人は、二十年前に亡くなった、当時の内大臣の御子息です。あなたに御求婚をなさった、中宮大夫殿です。私はその従者だった兼光と申します」


 北の方の顔色が変わった。内大臣の子、中宮大夫。北の方の記憶が過去に戻っていく。


 その頃の北の方、八千代の君はちょうど今の白露の君のように裳着を終えたばかりで、御結婚相手を選ばれ始めた所だった。当時の内大臣の子、中宮大夫殿は真っ先に八千代の君に文を贈られ、求婚者の名乗りを上げた方だった。


「我が君は尊い御方の血を引くあなたの婿になることを望んでおられました。あなたは宮様の孫姫に当たられる方。だが、我が君も当時は勢いのある内大臣家の長男で、若くして中宮大夫にまでなっておられた。必ずやこの縁組は叶うものと確信しておられました」


 兼光の言うとおり、八千代の君の父上も母上も、この上ない御相手として中宮大夫を認めていた。けれど八千代の君は大夫に続いて文を贈ってこられた、今の大納言殿のお文に心惹かれてしまった。お優しい人柄の少し素朴な文は、かえって八千代の君の心を惹きつけたのだ。その頃大納言は、まだ、五位の中弁でしかなかったのだが、八千代の方はこの方との文のやり取りを交わし続け、すでに四位で先々の見通しも明るいと言われる中宮大夫を断ったのだった。


「誰よりも気高く、誰よりも知的で、若くして威厳をもっていらっしゃった我が君が、あなたに断られたことをどれほど屈辱に感じていた事か。あなたは知りもしなかったのではありませんか? ついにはあなたに懇願のお文まで書かれたあの方のお気持ちを、あなたは分かっていない。乳兄弟めのとご(同じ乳母の乳で育った子供)だった私はどれほど若君のことを憐れに思ったか」


「しかたありませんわ。わたくしは今の夫と結ばれる宿世すくせに生まれていたのですから」


 北の方は動揺しながらもそう答えた。けれど兼光は、


「では、あなたの姫君の御縁談が断られるのも宿世なのでしょう。いかがです? 大切な我が子の縁談が壊れるお気持ちは。あなたに袖された我が君のお気持ち、少しは御理解いただけたでしょうか?」


 そう言って挑戦的な笑いを北の方に向けていた。


 




乳兄弟は普通の従者よりもずっと主人に近しい存在でした。

兄弟同様。場合によってはそれ以上の深い人間関係が結ばれました。

乳母は自分の子にも主人の御子様を生涯かけて大事にお仕えするように教えながら育てるのです。


乳母の立場はしっかりとしたもので、乳を与えるだけでなく、主人の教育方針を忠実に守りながら、実質上の子育てをします。

その責務は重く、お子様が年ごろを迎えた時の縁談も、乳母の判断は重要に考えられました。

そして良縁がまとまれば、結構な褒美を受ける事ができたそうです。

それだけ責任が重く、そんな乳母に共に育てられた乳兄弟は、主人のお子様を大切に思いながら成長するのです。


その関係の深さから、異性の乳兄弟との恋愛は禁忌とされたほどでした。


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