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罪の重さ

 そして隼人の忠告通りにその日の昼過ぎ、突然の知らせがもたらされた。生駒は姫様の乳母にそっと呼びだされる。


「ごめんなさい、急に呼びだして。でも、どうやって姫様にお伝えしたらいいか分からなくて。さっき右大臣様から今度の姫との婚儀をお断りするというお文が大納言殿の下に届けられたというの」


 乳母は動揺しておろおろしていた。それはそうだ。乳母を始め、まだ幼い女童まで姫付きの侍女達は今度の御結婚を姫君が大変喜んでおられるのを良く知っていた。誰もが喜び、良い御縁談と思っていて、当の姫君が一番の幸せそうにしていらっしゃる縁談が破談になりかけているとは、とても冷静に姫君に伝える事は出来そうもなかった。

 生駒は隼人に聞かされていたので衝撃こそは少なく済んだが、だからと言ってこのままむざむざあきらめる気にはなれなかった。


「何があったというの? 大納言殿や北の方は何とおっしゃっているの?」


 とにかく詳細が聞きたくて生駒は乳母に話を促した。


「分からないんです。何か姫様を誤解されているようで。御両親お二人とも納得などされていません。右大臣殿は姫様が実は先に中納言殿の御子息がすでに通われていたのではないかと御疑いなのだそうです。もちろん私はそんな事は絶対にないと申しあげたのですが、中納言殿が強く言い張っていて『どうあっても姫との御結婚をと』強く望まれているそうなんです」


「それは中納言殿だけがおっしゃっている事なんでしょう? 右大臣殿が信じたわけではないのでしょう?」


「そのはずなのですけど、右大臣殿も『そういう話の出ている姫との御縁談は好ましく思えない』とおっしゃって、この話はいったん白紙に戻されたいとの事なんです。北の方様など『こういう噂が出てしまったら姫にはもう、良縁の御縁談は無いかもしれない。これでは中納言殿の御子息の大夫を婿にお迎えするしかないでしょう』とおっしゃって、大納言殿も深くお悩みの御様子で……私もたった今大納言殿の御前でお話を伺ったばかりなの。こんなことどうやって姫様にお伝えすればいいのか」


 確かにこれは姫君にお伝えするにはあまりなお話だ。他の姫君なら身に覚えの無い濡れ衣を着せられて誤解され、破談に追い込まれたなどと知ったら世をはかなんで嘆かれるばかりかもしれない。

 けれど生駒は姫様の前向きな性格や、御心の強さをよく知っていた。決して嘆かれてご自分を失うようなことは無いはず。むしろこれは周りの侍女達の動揺を抑える事の方が大切そうだ。


「待って。もちろんこんな大事なお話は、大納言殿自ら姫様にお話しがあるはずよね?」


「ええ、夕刻にはお話に伺うとおっしゃっていました。その前に姫様にどこまでお話ししようかと」


「姫様には事情があってお話が白紙になった事だけ伝えればいいわ。今の話だと中納言殿が強く言い張って右大臣殿は誤解なさっているだけみたい。大納言殿が右大臣殿とお話しされれば誤解が解けるかもしれないわ」


「……右大臣殿ほどの御身分の方が、お文でお断りされたことを覆されたりなさるでしょうか? 表向きの事など私には分かりませんけど、高貴な方々の駆け引きがあってのことなら、大納言殿にはどうする事も出来ないのでは」


 生駒が知る中ではこの乳母は本来とても有能な人だ。今突然のことで動揺しているが、邸の雰囲気から周りの状況を理解する力はとてもいい人だった。「誤解」などと言うのはただの方便でしかない事に察しがついているようだ。けれどもこのまま噂を認めてしまっては、姫の名誉は傷つけられたまま。そんな中でへりくだって大夫を婿君に迎えても、姫は立場の弱いままで幸せな御結婚になるとは思えない。そんな結婚をしても大納言殿もおそらくは中納言殿の思うままに抱きこまれてしまうだろう。


「それでも、大納言殿は御納得していらっしゃらないのでしょう? それなら私達侍女が動揺して隙を作ってはいけないわ。姫様は潔白なのよ。私達は姫様の名誉のために堂々としていましょう。侍女達が変な噂を信じて隙を作らないように、私達で一言釘を刺しておきましょう。間違っても男君をこの東の対に手引きしたりする者が出ないように目を光らせなくては。そして姫様に縁談の白紙だけをお伝えするの。後は父上、母上様にお任せしましょう。私達が先にあきらめてしまってはいけないわ。姫様と少将様はお互いに想い合われておられるのですから」


 話し合っているうちに乳母もだいぶ落ち着いてきたようだ。何よりこの人は生駒にとっても長い間姫を共に守ってきた、気心の知れた人。姫の信頼も厚いが、生駒も彼女には深い信頼を寄せていた。何より彼女は他の女房のまとめ役を長年務めている。動揺を鎮めるのは彼女しかできない。


「信頼しているのは私も同じよ。生駒さん、あなたが本当に姫様想いなのは、ようく、分かっているわ。そのあなたが冷静でいてくれて助かったわ。二人で皆を説得しましょう」


 乳母はそう言ってくれた。


 そこで二人は女房達を落ち着かせる方法を話し合った。まず姫様に一言ご報告申し上げて、侍女たちにもその場でしっかりとくぎを刺す。動揺している侍女にはある程度の事情を聞かせて、自分達は姫様の名誉をお守りすることに専念することを約束させる。そんなことを決めて二人で姫の御前に戻り、御縁談が白紙になったことをお伝えした。


 姫はやはり大変驚かれて「どういう事なの?」と尋ねてきましたが、詳しい事は大納言殿から直接お聞きになった方がいいと言うと、姫も納得された。こんな突然で一方的な出来事。高貴な大人の方々の事情が、何か絡んでいるだろうと姫にも察しがついようだ。

 御心の内はともかく、表面上は侍女達の前で取り乱されることもなく、落ち着いて父上の大納言殿が訪れるのを御待ちになっていらっしゃった。


 大納言殿が姫様とご対面になると、生駒達は御遠慮して御前から下がり御簾の外に出た。それでも御簾の近くに控えていると、お二人の声が漏れ聞こえてくる。


「私の力が足りないばかりに、姫を不名誉な目に合わせてしまった。親として情けないばかりだ」大納言殿の苦しげな声が聞こえる。


「少将殿との事は、もう、難しいのでしょうか?」姫の声も不安で震えがちのようだ。


「はっきり言えば分からない。あちらでも少将殿が姫との結婚を強く望まれているし、右大臣もその気持ちをむげにはしたくないとおっしゃっている。だが中納言殿があまりにも強気のようだ。右大臣は人の心の分からぬ人ではないから、出来るだけお願いしてみるが」


「ごめんなさい。わたくし、少将殿以外の方と結婚は考えられませんわ。でも、お父様のお立場もお苦しそうに見えるわ。いっそわたくし、結婚なんてしなくていいわ。このままお父様とお母様がいらして下されば十分よ」


「姫は嬉しい、健気な事を言ってくれるね。だがそうもいくまい。この先の長い人生、私や母上の亡きあとに一体どなたがお前の御世話をして下さるというのか。私は誰よりも姫には幸せになって頂きたいのだが」


「では、わたくしは中納言殿の御子息の大夫と結婚しなくてはならないの?」


 姫が思わず聞き返した。


「いや。このようなやり方をなさる中納言殿に姫の身をお預けするような真似は私にはできない。大丈夫だ。姫に嫌な御結婚を無理強いするようなことは決してしないから。ただ、少将殿の事は右大臣殿の御心次第。私の力がどこまで及ぶか分からないが、あの方の親心に訴えてみようと思う。あちらも同じ人の親でおられるのだからね」


 そういうと大納言殿は御簾から出ていらっしゃった。その御顔の色は大変悪く、お疲れが色濃く表れていらっしゃる。生駒は今夜は大納言殿にお逢いして、御心を慰めなければならないと思っていた。その時、


「御無理をなさらないで。わたくし、お父様の御判断ならどのような覚悟もいたしますから」


 と、御簾の奥から姫様の御声が追いかけてきた。すると大納言は、


「心配はいらない。私には姫もいる。そして母上もついて下さっているのだから」


 そう、姫に向かってほほ笑まれた。


 お逢いできないわ。大納言殿は今こそ御自分の御家族と心を繋がれて、この問題を解決なされようとしている。どんなに苦しくても姫様と北の方様との絆を深めて、御家族で乗り越えようとなさっておられる。私が入り込む隙間なんてありはしないのだ。

 生駒は自分がただの女房であることをまざまざと思い知らされた。今自分が大納言殿に逢えば、大納言殿と御家族との絆に水を差すことになる。これでは生駒は大納言殿の御家族の邪魔者でしかなかった。


 控えなければ。もう、大納言殿に逢う事は出来ない。私は自分の中の恋心に気付いてしまった。大納言殿にお逢いすれば、私によって大納言殿が慰められることを私は望んでしまう。


 大納言殿に本当に必要なのは御家族の絆だったのだわ。確かにすべての真実を姫君や北の方にお話にはなれないかもしれないけれど、それでも大納言様は私の恋心に逃げるのではなく、何かを背負い続ける苦しみを御家族と共に分かち合う道を探られるべきだった。私が大納言殿のすがりつくような目を愛してしまったから、大納言殿はそこに逃げ込んだ。それを許してしまったのは私だったんだわ。


 姫様が大納言殿や北の方と心の距離を離されたのは、きっと私のせい。私は大納言殿の御家族に絆に無断で入り込んでしまった。大納言殿はどんなに苦しまれても、背負うべきものは背負わなければならなかった。それで姫様や北の方様が傷つかれたとしても、その傷を理解し合う時にこそ絆が生まれたかもしれないのに。生駒は姫が必死に父上にかけた言葉と、それに応えた大納言殿の姿を見て、その事に気がついた。自分の犯した罪の重さを思い知らされた。


 気丈にふるまわれていた姫君だが、生駒や乳母が御前に戻ると気が緩まれたのか、やはり涙をこぼされる。


「ごめんなさい。泣いてどうなるものでもないのだけれど。やっぱり白楽天の君とお逢いできなくなるのかと思うと悲しくて」


「当然でございますわ。それでもあんなふうに御父上に言って差し上げられる姫様は御立派ですわ」


 乳母はそう言って姫を褒め、お慰めした。生駒も同意しながらも、御家族の絆を目の前で見せつけられて、胸の奥がいたんでいるのを感じていた。

 姫は乳母に何か温かい飲み物を用意させて欲しいと頼み、乳母が御前を去ると生駒にそっと囁きかけた。


「こんなことをあなたに頼むのはおかしなことかもしれないけれど、父上をお慰めしてもらえないかしら? 少しでも父上のお気持ちが楽なられるように」


 生駒は今度こそ、血の気が引くような思いがした。自分はどれほどこの姫君を深く傷つけたのかと。


「駄目です。そんなことをおっしゃっては。今こそ、姫様や北の方が大納言殿をお支えする時ですわ。大納言殿もきっと精いっぱい姫様と少将殿のことを助けて下さいます。お諦めにならないでください。私たちだって姫様のお力になれるように御協力いたしますわ。でも、大納言殿の御心を救えるのは御家族だけ。そのような事、二度度口になさらないでください」


 生駒がそういうと、姫は生駒の胸に飛び込んできた。


「生駒……生駒。大好きよ」


 そう言って姫は生駒の胸で涙をこぼされた。生駒はそれを受け入れながら自分の犯した罪に愕然とするばかりだった。


 




貴族の世界は権威の世界。要は見栄を大事にする世界です。

恥をかくことを何よりも恐れますから、スキャンダルは命取り。

特に未婚の姫の醜聞は一族の名誉に関わりました。


縁故による外威関係こそが、一番物を言う世界だったんですね。

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