誤魔化し
「あなたの御恨みはきっと私があなたに代わって晴らします。たとえ何年かかろうとも。ですからあなたは普通の女房に戻ってください。あなたはこの邸の宝であるあの姫君のもっとも近しい女房になられたほどの人だ。この邸の方々からの信頼も厚いのでしょう。これ以上危険を冒す必要はありません」
隼人の言葉は生駒の胸に染みた。てっきり隼人には検非違使達の邪魔をするなと咎められる物と思っていたのだ。けれど隼人も同じあの男に人生を狂わされた被害者。さらに彼は自分の私怨のみならず、同じ目に遭った仲間や、生駒の心も理解したうえでの復讐に動いていた。生駒は自分の復讐心を理解する人間に初めて出会ったのだ。でも、
「あなたの御心配とご忠告はもっともなのでしょう。そのお気持には感謝いたします。けれど、私はあの男を追う事を止めることなど出来ません。あまりにも長い間、私は復讐を人生の目標に掲げて生きてきました。もう、その心を消し去ることなど出来ないのです」
「私が代わってその御心を晴らすと言っているのですが」
隼人はなおもそう言ったが、
「違うのです。誰かが晴らして下されるものではないのです。この心は……この、心の中で消えることなく燃える紅い火は、誰にも、どうすることもできないものなのです。これは自分自身で消す以外、誰にも消す事の出来ぬ炎なのです」
生駒はこの心の火を、自分でも消す事ができないかもしれないと思っていた。たとえ復讐を遂げたとしても、この火は燃え続けるかもしれない。けれど、どうしてもあの男を追う事は止めることができると思えなかった。それをやめてしまった時、自分の中の何かがおかしくなるような気がした。
「これほど言っても駄目なのですか」とうとう隼人も諦めたような口調になった。
「ええ。何を言われても、何をされても無理ですわ。私のことを侍女達にお話になってもかまわないわ。おしゃべりな弁の君に話してもかまわない。たとえこの邸にいられなくなっても、私はあきらめることはありません。飢えて死ぬとしても、そのぎりぎりまであの男を追い続けることでしょう」
こうして隼人と話をするうちに、生駒は自分の中に何かに脅える心を持っている事に気がつきはじめていた。けれどそれには目を瞑り、
「私の心は変わりません。説得はされませんわ。諦めて今夜はもう、お帰り下さい」
と言った。隼人も仕方なさそうに立ち上がり、
「女の部屋で出て行けと言われて、居座る訳にもいきませんね。分かりました、今夜は帰りましょう。御安心ください。あなたの事は誰にも言いませんよ。ただ、私はあなたをお止したいと思っている。それだけは覚えておいて下さい」
そう言って生駒の曹司を後にして帰っていった。
それからしばらくは平穏な日々が続いた。姫の婚儀も来月にきまり、東の対も御夫婦で過ごされやすいように修繕されることになった。姫は一時、寝殿と北の対を結ぶように立てられている、細殿にお住まいを移された。
あの夜からほとぼりを冷まそうと言うのか、人殺しの盗賊達は、すっかりなりを潜めて、何の動きもなかった。もちろん生駒達も、姫君が大納言殿の近くにお住まいになっている時でもあるので、やはり余計な動きは控えなければならない。しかも季節は桜の宴が盛んにおこなわれる頃となり、どちらの邸でも昼夜かまわず僅かな時期に咲き誇る桜をめでようと、人々は頻繁に邸を行きかうので、夜の闇にまぎれて動く事が難しい時期でもあった。
おかげで白露の君も、心の中にお悩みを抱えているとはいえ、今は穏やかに過ごす事が出来た。白楽天の君と文を交わし、父上と近い所にお住まいなので、久しぶりに父上から琵琶の稽古をつけていただいたりしていた。
「先日は少将殿に琵琶をお聞かせしていたようだね。成程姫の琵琶は随分上達されたようだ。特にはっきりとした力強さなどは、良く表現できるようになられていた。琵琶はわが家系では代々伝えられる魂の込められるべき音色。御結婚前に姫にも我が家の秘伝の音色をお伝えしておきましょう」
大納言殿がそうおっしゃって、姫にひたすら琵琶の御指導をされるようになった。
姫は日に日に御上達され、音の強弱や、ほんの僅かな間の取り具合などがずっと御上手になられたので、聞いている生駒たちなどはこれがこの家に伝わる御秘伝の音色かと感激していたのだが、
「いや、まだそこまで入っていない。確かに姫の琵琶は大変上達されたが、音の深みと言う物には辿り着いていないのだ。だが、姫はまだまだお若い。この先心豊かにお育ちになる内に、本当の音色と言う物に気付かれて行くだろう。それでも私は形だけでも姫にお伝えしておきたいと思っているのだ」大納言殿はそうおっしゃって、
「いずれ、姫にも分かる日が来る。本当の音色が」
と言って、姫君に繰り返しお稽古をさせていた。
姫の方はと言えば、
「琵琶の御稽古があって良かったわ。そうでなければわたくしは父上とどんな顔をして会えばよいのか分からなかったから。でも、後少しのことね。わたくしが白楽天の君と結婚して、右大臣家の方々と繋がりを持ちさえすれば、父上の御立場は安定するのでしょう?」
姫は生駒にこっそりと、そう打ち明けた。
「たしかにそういう事もございますが、大納言殿は本当に心から姫様のお幸せをお望みなのですわ」生駒はそう言った。大納言殿の親心は、姫様にも通じているはずだと思いながら。
「ええ、きっとそうなのでしょう。でもわたくし、早く昔の父上に戻って頂きたいの。朗らかで、舞が御上手で、誰にでもお優しかった父上に」
「大納言殿は今もお優しい方ですよ。どなたにでも」
そう、あの方はお優し過ぎるのだ。姫様にも、北の方様にも、私にさえも。
生駒はふと、心に苦い物を感じた。何故なのかは判らない。大納言殿のお優しさを、何より尊敬しているはずなのに。
「ええ、でも、何かが違うの。何かがね」
そういいながら姫は悲しそうな目をなさっていた。
そうするうちに東の対の増築も終わり、一回り大きくなった対に、姫君はお戻りになった。建物はずっと立派になり、装飾も素晴らしい出来栄えなのだが、姫は寝殿から離れるのが心細くなっていた。
姫は父上と稽古を続けていて分かった。父上は自分の罪に苦しんでいる事が。
わたくしが寝殿から離れれば、きっと生駒と父上はまた会うに違いない。父上は生駒に協力することでこれまでの自分の罪を打ち消そうとされているんだわ。だから生駒にすがるような思いを持っていらっしゃる。生駒はそれに感謝しながらも、復讐に心を奪われている……。
感謝。生駒の心は本当にそれだけなのかしら?
生駒にはあれから隼人が頻繁に訪ねてくるようになった。少将殿のお文を携えているので会わない訳にもいかないし、その癖、姫様の御返りのお文は別の使いの子に持ち帰らせて、生駒が会うまで生駒の曹司の前で帰らずに粘っているので、無視することもできなくなっていた。
けれども隼人と騒ぎを起こして、他の使用人たちに変に目をつけられるのも厄介だ。隼人はそれを承知の上で、わざとやっているのだろう。
とうとう根負けして、生駒は隼人を曹司に入れた。
「どうしてこうもしつこい真似をなさるんです? 私の事など放っておいて下さればいいのに」
「放っておいたらあなたは早速あの男の所に行くおつもりでしょう? あの男の根城が桂のあたりにあると、気がつかれたようですから」
生駒は驚いた。以前あの男を見失った所から鳶丸に近くを探り続けてもらって、ようやくあの男らしい人物が桂のあたりから食料を買いにやって来ていることをつかんだからだ。それをもう隼人が知っているなんて。
「あなたのお考えの通りですよ。私はあの鳶丸と言う男をつけていました。弁の君にあなたが鳶丸と言う使用人を、使い勝手良く使っていると聞いて、彼から目を話さないようにしていたんです。私には検非違使の知り人が多いですからね」
「油断のならない方ね。なぜ私の事に察しがよろしいのかしら」
「あなたが私の命を救ったからですよ。ですから私はあなたをお助けしたい。危険な事もさせたくは無いんです」
「それを私は望みませんわ。あなたに邪魔をされては、私は返って救われないのです」
「いいや、違う。私は確かにあなたを救いたいと思っているんです。あなたが考える以上に」
私が考える以上? 何を言っているの? この人は。
「いいですか? あなたはご自分でも認めていらっしゃらないだろうが、あなたの中にあるその炎は憎しみの火だけではない。復讐心はあなたがご自分の本音を誤魔化すための物にすぎないんです、そんな誤魔化しのために御自分の命を粗末になさろうとしている。私はそれが悔しくてならないんです。私はあなたに命と生きる希望を与えられたというのに」
「そんな子供の幼心をいつまでも引きずられても困りますわ。私が一体何を誤魔化しているとおっしゃりたいの?」
生駒も口調が荒くなってしまう。すると隼人の言葉も強くなった。
「では、はっきり申し上げます。あなたは大納言殿への気持ちを誤魔化している。あなたは大納言殿を利用しているのでも、尊敬しているのでもない。あなたはあの方を愛していらっしゃる。それを復讐などと言って誤魔化されているのです」
隼人はそう、生駒の目を見据えて言いった。
当時の貴族の楽器の演奏は、ただのたしなみ以上の意味があったようです。
宮中では頻繁に管弦の宴なども催されましたし、結婚前の姫君には自分をアピールする大切な小道具でした。
各家それぞれに得意な楽器があり、場合によっては他に追随を許さぬような秘伝の技術もあったとか。
そんな秘術はその家系の中でも才能ある者に受け継がれ、代代その家の誇りにもなりました。
貴族たちは雅楽の分野において、技術の伝承者としての側面も持っていたようです。




