隼人の過去
夕刻、日暮れの前には大納言の邸を訪れた右大臣の御子息、少将殿だったが、大納言殿とのお話が弾んだのか少将殿が姫の住む東の対にいらしたのは、日もとっぷりと暮れて邸中に灯りがともされてからの事だった。少将殿の来訪を告げる使者に立ったのは、隼人だった。生駒は姫の御前の御簾の中、さらに几帳の奥の一番姫に近いところで乳母とともに控えている。
隼人は少将のすぐそばに控えており、少将殿は昼間のお文のお礼などを姫君に申し上げていた。
「ようやく御評判のあなたの琵琶を聞かせていただける機会がやってきましたね」
少将殿は楽しげにそう言う。
「姫君様も少将殿にお聞かせすることを大変楽しみにしておられました」
直接お声をかけられない姫に代わって、生駒がそう言った。
「私も楽しみでしたよ。お文ではいつも素直で、率直で、明るいあなたが、どんな音を聞かせてくれるのだろうと思うと、心躍る気がいたします」
「きっと、少将殿の思っておられる通りの音のはず、と、姫が申しております」
「私もそう思っております。ですが、やはり人の御心と言うものはその時々によって違うもの。これまで文で互いの心を確かめあってきた私たちです。今宵、余計な御挨拶は無用でしょう。きっと文よりも率直な、今のあなたの御心を映した琵琶の音を、私にお聞かせ下さい」
少将は姫の御挨拶の言葉も聞かずにそうおっしゃるので、生駒は、
「ですけれど姫君様も御挨拶を」と言いかけたが、姫が横で首を振られた。
「姫君も分かって下さっていますよ。御声も聞かせていただけないなら、私も早く姫の御心を聞かせていただきたいですね。それともこのまま御簾の中まで姫君の御意向をお伺いに参りましょうか?」
と少将殿もおどけられるので生駒も降参してしまい、乳母もため息をつきながら姫君に琵琶を差しだした。
春の宵、姫君のしっかりとした、力強い琵琶の音が邸に響き渡る。しばらくはその音に耳を傾けていた少将殿が、やがて御自分の笛を取りだし、その琵琶の音に合わせて演奏し始めた。
皆がそれに聞き入っている中、生駒は女童から文を手渡された。すると気配を察したかのように隼人がこちらをちらりと見て、また、少将の方に視線を戻す。生駒がこっそりとその文を開いてみると、
「帰り際、曹司に立ち寄ります」
とだけ書かれていた。立ち寄ってよいかと尋ねるのではなく、問答無用で押し掛けるような書き方にむっとはするが、「侍女に話す」などと脅迫めいたことを言っているのだから、当然強気でいるのだ。
それに生駒の方でも、彼が何故、検非違使と行動を共にしているのか、気になった。癪ではあるけれど、隼人と会って話してみたい気持ちは確かにある。隼人もそれを分かっていて強気でいるのだろう。仕方なく生駒は女童に、
「承知しました、と伝えて」と言って隼人の所に行かせた。
少将殿と姫君の御挨拶が済み、生駒が御前を下がって自分の曹司に戻ると、やはり隼人が曹司の格子の前で待っていた。
「少将殿と一緒に戻らなくても良いのですか?」
ずうずうしいやり方に不機嫌さを隠しもせずに生駒は尋ねた。
「少しばかり時間をもらいました。私にはこの程度の融通は利くのですよ」
「いいでしょう。私もあなたには聞きたい事があります。とにかく入って下さい。ただし几帳は立てさせていただきます」
「結構ですが、私は几帳越しでもあなたの表情ぐらいは読み取れますよ」
隼人はそういいながら曹司の中に入った。
「女の部屋の中に通したのですから、こちらから先に聞かせていただきます。あなたは少将殿の従者で、舎人を務めていると言っていました。そのあなたが何故、あの時検非違使の役人と共にいたのですか?」
「それは私がもともと検非違使別当の邸にいたからです。以前あなたは私の過去を無理に話さなくてもよいとおっしゃって下さったが、今日は全てを話さなければなりませんか?」
質問に、質問で返されてしまったが、生駒はただ短く、
「ええ」と答えた。
「分かりました、お話しましょう。私は人買いの下であなたと別れた後、検非違使別当の邸に連れていかれました。私はあの時本当に物のついでにさらわれただけだったので、すぐに売れる先の宛てもないからと、その邸に連れられたようでした。別当は今は中納言になっていますが、彼はあの盗賊達と繋がりがあったんです」
「繋がりって、あの盗賊達が、盗賊を召し取るはずの検非違使の役人と通じていたって言うの?」
生駒はあっけに取られた。
「それほど驚くようなことでもあるまい。あなたもこの邸に連れられた揚句、ああいう事をしている。ここの大納言殿も何かしら後ろ暗いところはあるのでしょう? それなりの地位を保っている所は、大抵何かしらの事情を抱えているものです。検非違使の役人が守らなくてはならないのは、あくまでも帝に近い高貴な方々の安全。あの盗賊達をそういう方々から遠ざけておくことさえできれば、手段は何でもいいんです」
「では、あなたも役人たちに使われていたの? 盗賊達の言いなりになって」
生駒は隼人にいっぺんに不快感を抱いた。あの男達と共に人を殺し、自分たちの様な立場に追い込まれる人々を増やす手伝いをこの男もしていたのだろうかと思うと、この男に近寄る事さえ、厭わしい。
「いや。私は所詮小童だった。検非違使別当はあの盗賊達を捕えずに自分の味方にしてはいたが、それでも目に余ることをすれば、捕えて体裁を整えることもある。だが、気の荒い連中にはそれが気に入らない。そんな時に私はそいつらの世話をするようにいいつかった。なんてことは無い、あいつらの八つ当たりの相手にされるんです。食事を運んでは殴られ、着替えを運んでは蹴り飛ばされる。そんな日々の繰り返しでした。私は自分の仇の連中に、殴られるためだけにその邸で飼われていたんです」
意外な事を聞かされ、生駒は動揺した。それは真実なのかどうか? けれど隼人の口調には確かに重たい物がある。以前ここで会ったときに過去を語りたがらなかった隼人の表情は、確かに真実の匂いがした。
「あなたなどには分からない世界も、世の中にはあるんですよ。いっそ消えた方が楽だと何度思ったか」
隼人の口調はどこまでも重さがあった。生駒は思い切って几帳を押し退けた。そこには過去の苦悩を語る、あの日と同じ隼人の目があった。それはおそらく「秋が嫌い」と言った時の自分の瞳と同じものなのだろうと生駒は思った。
「それがどうして右大臣の家来の目に留まることになったの? 殴られ役のままでは人の目に留まる機会も無かったでしょうに」
「どんなにひどい環境にも、一つくらいは救いがあるものです。私はあなたの『生きて』と言う言葉を支えにどんな事をしても生きながらえる道を選びました。身体をかばいながら殴られ続けるコツを覚え、役人たちに媚び、へつらうすべを覚えました。そうするうちに役人たちに可愛がられ、同情されるようになり、気の合う者から弓を習う事まで出来ました。私は自分を守るすべになるかもしれぬと、弓の腕を懸命に磨きました。それこそ命懸けでね」
「それが右大臣の御家来の目に留まった……」
「その通りです。もちろん目に留めて頂くためにいつも右大臣のいらっしゃった時には、目立つ工夫はしましたがね。とにかくあの頃の私はあの邸から逃れることしか考えていませんでした」
「そうまでして検非違使達から離れたのに、なぜ、その検非違使と一緒にいたの?」
「あの人は私に弓を教えてくれた人なのです。あの邸には厭わしい記憶しかないし、あの盗賊との繋がりだって許せない。だが、その人と私は個人的にあの盗賊の頭を追っているんです。私は自分の身内を殺され、自分の人生を狂わされ、その人はあの盗賊に母を殺され、父君の所で育ったが、正妻の子ではないために色々苦労したのです。私達はあの男を捕えるために追っているのではありません」
隼人の眼光が鋭くなった。生駒が思わず身震いをするほどだ。
「あの男の命を奪うためね? 役人ではあの男を裁く事ができないから」
「おっしゃる通りです。あの男は常に検非違使の役人たちと共に暗躍し、公然と罪を重ねてきた。それを許せないと思っても、ただやみくもに追うだけではあの男を仕留めることなど出来ないでしょう。今やあの男は中納言の武力でもあり、逆に立場を悪くする弱点でもあります。だが、貴人たちは自分たちの身を守れるのなら、どんな悪党にでも加担する。それが今の世です。それなら私は媚び続けた役人たちとの繋がりを使って、あの男を闇の内に葬り去ろうと思ったのです。幸い私はそれが出来うるところにいるのですから」
生駒は隼人の言葉を聞きづらく感じていた。自分の復讐は完全に私怨だ。何より真っ先に母の血にまみれた姿と、邸を燃やしつくす炎が頭に浮かんでしまう。けれども隼人はもう少し広い視野で持って、あの男を追っているようなのだ。
「あなたのお気持ちは分かります。私は知らぬ間に連れ出され、邸にいた父の最期を知りません。母は幼いころに亡くして顔も知りませんから、自分の身に何が起ったのか実感がないまま時を重ねて行きました。だが、あなたは母上を目の前で殺されている。その男の顔をはっきり知っていて、しかも私の命をその男からかばってくれた。あなたがあの男を憎むのは当然のことなのでしょう」
隼人はそう言って、生駒の思いとは逆に生駒に同情の目を向けた。
「だが、あなたのやり方は危険すぎる。か弱い女の身で男になり済まし、ただやみくもに追うばかりでは返り討に遭うのが関の山。お願いです。私を助けたあなたが、あんな無茶な真似をするのは止めてください」
生駒は隼人にこんな風に懇願されるとは思わず、心が痛んでしまった。
顔が見せられず、声も聞かせられない以上、手紙の筆跡や、楽器の演奏の腕は、姫君の人柄を知る大切な手掛かりでした。
そして召し使っている人達の事もも参考になったでしょう。
優しく、心配りの出来る姫のもとで仕えていれば、使われている人達の表情や態度も良くなっていくでしょうし、その逆もあったでしょう。
主従関係と言えど人間同士の交流です。身近なだけに影響は大きそうです。
人材が物を言うのは今も昔も変わりませんね。




