真実
東の対に戻る途中で人の気配がないことを確認すると、そっと庭に降りた。池にかけられた朱塗りの橋を渡ると、さらに庭の奥に入っていき、大きな桜の木の下に出る。これは姫君が幼い日に登って叱られた桜だった。そろそろつぼみが膨らみ始め、梅が終わり春の日差しがより強くなるのを待ちわびている様子だ。その木の下でさらに奥にある木々の暗闇に向かって生駒は、
「鳶丸」
と、小声で声をかけた。すると鳶丸が暗闇から音もなく現れる。
「例の邸よ。様子を探って来て頂戴」
生駒がそう言うと鳶丸は何も言わずに頷いて、暗闇の中に姿を消す。そして門の方からひそひそと何か話す声が聞こえた。鳶丸が門番に何か言ってこっそり門を開けさせているのだろう。僅かに戸のきしむ音がして、すぐに止んだ。庭は再び静まり返り、生駒はそっと橋を渡って、東の対へと戻っていく。
あれから鳶丸との関わりも変わってしまった。鳶丸も大納言に拾われた口で、生駒のように表立った口実で邸に近づけない時は、その名の通り身軽に飛び上がったり、舞い降りたりできるほどに身の軽い、鳶丸が探りを入れに行っていた。生駒が大納言の裏の仕事に関わったと知ると、鳶丸はとても悲しそうな顔をした。
「心配しないで。これは私が自分で決めた事なの。お前の足を引っ張らないよう努めるわ」
生駒はそう言ったのだが、鳶丸は、
「生駒様を前の従者様のような目には遭わせません。私が全力でお守りします」
そう真剣に誓ったのだ。生駒は言葉がなくて、ただ、頷いただけだった。それからは二人で協力し合いながら、大納言の裏の仕事を手伝っている。
自分の曹司に入りしばらく待っていると、ほとほとと遣り戸を叩く音がした。僅かに戸を引くと戸口に鳶丸の文が置かれている。開くと、
「やはりかなりの金品が集まっていました。頃合いでしょう。またあの、盗賊の一味らしい、怪しい男が邸の様子をうかがっていました。後をつけましたが撒かれました。急いだ方がよろしいかと」
と書かれていた。あの人殺しの盗賊達が、同じ邸を狙っている。生駒は自分の中にある紅い火を感じ取った。
あの男の居場所を突き止めたくて、偵察している男がいることを知ると、鳶丸に後をつけさせてはいるのだが、いつも上手く撒かれてしまうようだ。
「先に手を出させないわ。そして、いつかあいつを追い詰めてやるわ」
生駒はそう呟きながら、文に火をつけた。そして自分の中にある火を見るような思いで、鳶丸の文を燃やす火を見つめていた。
その夜姫は突然目を覚ました。いや、突然ではないかもしれない。また子鬼の夢を見たのだ。
今度は子鬼はこう告げた。
「お姫さんはなんとなく気がついてるよね? 生駒と父上が秘かに逢い引きしているって」
……やっぱり。そんな気はしていたわ。母上の事を思うと、考えたくなかったけれど。
でも邸の女房をそういう使い方をするのはよくあること。生駒だって断ることはできる。父上の無理強いではないはずだし、二人がそうする必要があるのなら仕方がないこと。
それなのにどうしてこんなに悲しくなるのかしら。それに気になる事もある。
「気になるなら行動してみればいいのさ。大丈夫。今夜は誰にも見とがめられないよ」
今夜なら大丈夫。そんな気がする。月もかくれているし、皆ぐっすりと眠りこんでいる。そしてそういう夜に限って生駒は父上に呼ばれているみたい。
決して不自然と言う訳ではないのに、何か二人が逢う時は後ろ暗げな影が付きまとっているわ。
そう思いながら目覚めた姫は、衣擦れのする袿や上着を脱ぎ捨て、人目を忍んでそっと御帳台(寝台)を抜けだした。
本当に不思議な事に、人の多いはずのこの邸で、姫は寝殿の父君のとことにたどり着くまで、誰ひとりとも出会う事はなかった。さっきまで庭を美しく照らしていただあろう月でさえも、雲の中に隠れてしまい、邸は僅かな灯りを残して、ほとんど真っ暗になっていった。姫はまるで闇夜を縫うような気持で、子鬼の後ろをついていく。
すると不意に人の話し声が耳に入ってきた。姫はとっさに近くにあった屏風の影に隠れたが、話声はその屏風の向こう側から聞こえてきた。思ったよりも近そうなので、姫は思わず息までつまるような気持で身動き一つ取れなくなってしまう。
「……危険だ。今夜はあやつらと出くわすかもしれない」
低く押し殺してはいますが、大納言殿の声が聞こえた。
「だからこそ、私が行くんですわ。あの男の顔を知っているのは私だけですもの」
この声はやはり低く囁いてはいますが生駒の声。姫には話し方で分かった。
「相手は人を殺すのに何の戸惑いも持たぬやつらだ。そのお前の母の仇の男と出会う前に他の者に殺されるかもしれん」
「大丈夫です。仲間達もいますし、鳶丸もいます。それに無理もいたしませんわ。私が盗賊の連絡役だと知れれば、大納言殿がお困りになりますもの」
「ちがう、違うのだ!」
急に大納言殿の声がはっきりした。取りみだした声だ。
「私はお前を失いたくない。この邸でお前だけが私の真実を知っている。荘園から無理な取り立てをせずに出世を遂げたやり手などど人々は言うが、実態は私は盗賊を操る黒幕にすぎない。盗んだ金品も元は他の方々の荘園から強引に取り立てられたものだ。悪党どもが密輸をした品々だ。それを使って私は朝廷に取り入った。他の者たちとやっている事は変わらない。いや、それ以下だ。だが、それ以外に私は妻子とこの邸を守る方法が分からぬのだ」
「……大納言殿はお優し過ぎるのですわ。お方様や姫様、私たちのことだけではなく、人の位の無い者達の事まで、お気づかいになられている。ですからお苦しいのですわ」
生駒が慰めるような声で、大納言殿に語りかけた。生駒らしい口調だ。
「そうだ。私は苦しい。こんな事は妻にも言えぬ。姫になどもっと言えぬ。私の苦しみを知っているのはお前だけだ。私はあの殺された従者のようにお前を失いたくは無いのだ……」
私には言えない、お母様にも言えない秘密を、二人は共有している。それも私達を守って下さるために。でも父上がこんなことをしているなんて。それに生駒を巻き込んで、さらに生駒にすがられているなんて。姫は混乱しながらも、父上が姫と母上を大切にしていること、それゆえに生駒にすがりついていることを知り、二人の苦しみの上に自分が幸福な生活をしているのだと思うと愕然とした。自分の幸せは何という犠牲の上に成り立っているのだろうと。
「分かって下さいまし。大納言殿がお苦しみのように、私も母を殺した男がいまだに人々を殺めている事が苦しいのです。大納言殿がこの事から手を引けないように、私も復讐を諦めることはできないのです」
生駒がそう言うと、スッと人の立ち上がる気配がした。
「そろそろ時間ですわ。行かなくては。大丈夫です、必ず戻ります。この生駒、大納言殿を苦しませることも、この邸に御迷惑をかけることもいたしません。何より自分の命を粗末になどいたしません。母が守り、この邸の方々に育まれた命ですもの。粗末にはいたしませんわ」
「私はお前にこの仕事を辞めさせたいのだが」
「いつかは辞めますわ。復讐を遂げた時には」
そう言うと生駒は屏風の影から姿を現した。でもその姿は一目では生駒とは分からない。狩衣を来た男姿で、頭には何か布を巻きつけていて、長い髪も見る事は出来なかった。きっとくくっているのだろう。
生駒は姫にまったく気づくことなく、闇の中に姿を消して行った。
続いて大納言殿ものろのろと立ち上がり、その場を後にする。姫だけがそこに取り残されて、呆然と座り込んでいた。
「真実を知って、わたくしは生駒や父上をお助けできるのかしら?」
姫はそう思いながら、暗い気持ちで東の対に戻っていくしかなかった。
「狩衣」とは男性が狩や蹴鞠など野外で活動する時に身につける衣装です。今ならスポーツウエアと言ったところでしょう。
男君は公の場では「束帯」や「衣冠」と呼ばれる装束を、私邸では「直衣」と呼ばれる普段着を着用しました。
女性は俗に十二単と呼ばれる「女房装束」や「小袿」を身に付け、外出時には「壺装束」と呼ばれる市女笠で顔を隠した服装をしました。




