パンはパンでも食べられないパンは?
「わかった! フライパン――と見せかけて残飯ですね、魔王様!! 高慢で傲慢で我が儘な魔王様は残りがお嫌いですもの!」
「コッペパンだ馬鹿者め。我が輩がソレを嫌っていると忘れたのかこの肉便器が」
「ひでぶぅっ!」
見下したように笑う魔王様は、懐にちゃっかり隠し持っていたフライパンで、私の脳天を遠慮なく叩き割った。私はへにゃりとその場――魔王様の執務室で、痛みを耐えるようにゴロゴロと床を転がり回る。
魔王様は多分どう考えても、私が答えられないと高を括っていたのだろう。だからこそフライパンを見えないようバレないよう――準備していらっしゃったのだ。その証拠に今し方言った言葉と、今魔王様が美味しそうに頬張ってらっしゃるコッペパンに矛盾が生じている。ていうか魔王様の好物はコッペパンだ。魔王城にいる使用人全員が知っている事実。私は酷い仕打ちに半ベソをかきながら、未だ魔王様の執務室を転がり回っていた。
――そんな転がり回る私の背を、見計らったかのようにタイミングバッチリで踏み付ける魔王様。潰れたカエルのような声をあげた私は、文字通り一歩も動けず固まった。かの歴代魔王よりも最強と謳われるドS魔王様だ、そりゃ抵抗したって敵うはずがない。しかも今、魔王様は私を踏み付けると同時に魔力を流されているのだから。身体に浸透――いや、浸食してくる魔力の、なんて重々しいことだろう。
ギブアップ! と叫ぶ私をことごとく無視する様子からして、昨日カミングアウトしてしまった悪戯が余程お怒りに触れてしまったらしい。まったくもう、これだから心の狭い人はいやよね。あいたたたた、心なしか踏み付けられていらっしゃる力が強まった気がするぞ。
「ふん。芋虫風情が先ほどの問題をアッサリ解いてしまうとはな。我が輩の予想ではこの問題で二時間ほど貴様をいたぶれると思ったのだが。目測を誤った」
「魔王様の中で私どんだけ大馬鹿なんですか!」
「ふむ。そうだな、しいて言えば……クルクル草以下か」
「生き物ですらない!!」
その事に衝撃を受ける私に、魔王様は尚も愉快そうに見下して笑う。いや、踏みけられていて誰もが見惚れる麗しい顔は伺えないのだけど、気配でわかる。伊達に長年魔王様のお側で世話してない。そして予想が正しければ、今にもその私の背に全体重を――――。
と、思ったのだが。魔王様は「そういえば」と呟きながら、私の背からそのスラリとした足を退けて下さった。……なんと、私まで目測を誤ってしまうとは。明日の魔王天気は流血時々言葉責めか。あ、これじゃ毎日だ。
「きゃわーっ! ごめんなさい魔王様ー! 心の中でめたくそに悪口言って本当にごめんなさぁぁああああい!!」
「ふはは、我が輩はまだなにもしてないぞ? 少し剣の具合を確かめようとしただけだ」
とか言いつつ、その瞳は私から離れずロックオンがされたまま。ホント怖いです、隠し事もできない。その事に私は少しだけ嘆息した。
――魔王様の自室同様汚ならしい執務室の中。私は、魔王様がなにかを探しているのを黙って見つめていた。私の仕事は、魔王様に着いて回る専属メイドだ。本来ならばこの事故現場同様の有様をしている部屋を片付けるべきなのだが、いくら片付けても数分で汚くなるばかりか、魔王様が「ここにおいたアレはどこだ!」と癇癪をおこすのだ。毎回癇癪をおこされては、こちらも命が足りない。暗黙の了解として、決して触れないでいようと宰相様と誓いあったのだ。それに、これ以上汚くなる事はないようだし……問題はそこまでない。
「――む。あったあった」
魔王様は、どうやらやっと掘り当てた――時計を嬉しそうに眺め、無邪気に笑った。私よりも何百倍生きてらっしゃる魔王様にこの比喩はあまりよろしくないのだが、こういう一面を見ると……本当に子供っぽいなと思う。容姿も頭も超一流なのに。いつもそうしていれば可愛いのになんて残念な人だろうか。
失礼な事を性懲りもなく考える私だったが、現在念願の物を手にして喜びに溢れる魔王様は気付かない。ほう、と安堵の溜め息を漏らす私だった。
――が、しかし。
「ふむ。しまったな……あと十分で客が来る」
「……は? えええっ! 今それをおっしゃりますか!?」
「いやはや、うっかりしていた。……まぁしかし客と言えど、来るのはアイリーンだ。片付けなどという無駄な労力を使うのは損だな」
「ちょ! アイリーン様がお越しになられるなら……!!」
「なにをしてる、片付けはいらんと言っているだろう。茶も不要だ。我が輩はあの雌狐が嫌いなのだ、茶など出したら確実に長居を――」
――その時。
控え目なノックの音と共に、扉の向こうから「魔王様、アイリーン様がお越しになられました」と、宰相様の声が。この世の終わりに愕然とする私。
なにせアイリーン様は、潔癖症とは言わずともそれなりの綺麗好きなのだ。過去、それで私がどれだけアイリーン様にねちっこく嫌味を言われたか――魔王の専属メイドである女が片付けの一つも出来ないとは、等。ああ、また嫌味を言われてしまうのだろうか。
――アイリーン・グリウデボルト。彼女は魔族の女性の中でも、ぴか一と言われるほどの剣豪でいらっしゃる。それに加え家柄も良く、頭脳明晰、容姿端麗。魔王様と並べばそれはそれはお似合いな彼女は……魔王様の、許婚様なのだ。
チクリとした痛みを胸に抱えながら、私は諦めの思いを抱く。魔族の世界では、強い女性こそが魔王の嫁になるに値するという決まりがあるのだ。だから、女性魔族で一番強いアイリーン様こそが、魔王様の隣りに立つ事を許されている。
到底、敵わない。家柄も頭も容姿も普通の私では。家柄に関しては、私なんかクルクル草以下どころじゃないほど。本来ならば、魔王様のお側で働けるような存在ではない。……“特別になりたい”だなんて、夢のまた夢、だ。
一人、その現実に打ちのめされていた。そんな私の後ろで――魔王様が私を見つめていただなんて、私にはわからなかった。だから魔王様の気持ちや、今なにと葛藤していたのかなんて……私に知るよしはない。
「――まったく。我が輩の肉便器は、本当に世話の焼ける」
その言葉に私が気付いたのは、部屋が綺麗になったあとだった。
「ああ、魔王陛下……ご機嫌麗しゅう。アイリーンは陛下に会える今日をとても楽しみにしておりました」
「挨拶は無用。用件は」
いったいどういうことだろう、と瞳をパチクリする私。しかし、魔王様に聞きたくても今はアイリーン様とお話しになられているので、それはできなかった。……が、少し経って理解する。
……そうか、魔法だ。扉が開くか開かないかのあの一瞬で、魔王様は多分魔法をお使いになられたのである。だがしかし魔王様は――魔法を嫌っていらっしゃる。魔王にあるまじき発言ではあるものの、事実魔王様はたしかに魔法を毛嫌いされてらっしゃるのだ。なのにも関わらず、今こうして魔法をお使いになられた。
それは多分……いや、もしかしなくとも。私のために、なのだろう。その事実に――私は心が温まった。
「――そんな冷たいことをおっしゃらないで? 未来の旦那様」
「……ふん。貴様が我が輩の妻になるなど、まだ決まってはいないだろう。許婚殿」
「あら、でも実際私より強い女はいらっしゃらなくてよ? ――そうよね、レフティ」
話をふられたことに驚く私は、ビクリと肩を揺らしながらも――必死に肯定の意を示した。それに魔王様は顔を歪める。あ、これアイリーン様が帰ったらお仕置だ。
「……とにかくだ。我が輩が妃を必要とするのは、まだ数年後の話。その数年の内に貴様を超える女が現れないとは言い切れん。そうだな? レフティ」
今度は魔王様に話をふられる。最後の、私の名前を呼ぶ時……心なしか語尾を強くなされたような気がする。だが、アイリーン様の視線に負けた私はその首を横に振った。
ああ、宰相様。そんな顔面蒼白で私を見ないでください。わかってます、このあと私にひどい仕打ちが待っているのは……。でもどうしようもなくないですか、コレ!? 女という種族は最強と謳われる魔王様よりも、時には怖いものなのです! 恋慕を寄せている時ならば、とくに。
「ふん。まぁいい。それで、“現”許婚殿。今日はどのようなご用件出来たのか、まだお伺いしてないが?」
「……ふふ。相変わらずせっかちでいらっしゃるのね、陛下は」
アイリーン様は、魔王様の頬に手を添えた。払いはしなかったものの、魔王様はそれを鬱陶しそうに顔を背け、横目のままアイリーン様を睨む。それにこれっぽっちも臆した様子を見せないアイリーン様は、妖艶に、かつ嬉しそうに言った。
「先ほど、“数年先まで妃を必要としない”とおっしゃられていましたけど。――どうやら魔王様にとっては誠に残念なことに、あと数ヶ月で必要になった様子ですのよ」
その衝撃的な言葉に私だけでなく、魔王様も、宰相様も驚きの表情を浮かべていた。アイリーン様は悪戯が成功した子供のように、無邪気に笑う。
――魔王様の妃。それは“ある時期”がこない限り、まったく必要としないものなのだ。
そのある時期というのは、アムカ――つまり魔界の事だが、アムカ誕生の記念日だ。別名“ウィルとミーナの再会日”とも呼ばれている。とある昔、まだ魔界アムカが存在していなかった頃……魔族と人間は今より仲がよくなかったという。しかしそんな仲でも、惹かれ合ってしまった男女がいた。魔族の男ウィルと、人間の女ミーナだ。
ウィルとミーナは互いに支え合い、何人たりとも破れね絆――愛を築いていた。しかし魔族と人間という隔たりは、どうしても越えられない。そんな楽ではない恋愛をしていた二人に、とある悲劇がふりかかった。
その頃“魔”の頂点にいた魔王が、己の息子の愚行に気付いてしまったのだ。そう――ウィルは魔王の息子。人間と愛し合いともに生きるなど、昔の世界では考えられなかった。魔王はなんども刺客を送り人間の女を殺そうと試みたが、それでもウィルはミーナを守り続けた。己が傷つこうとも、決してウィルは逃げずに。
ウィルは決意する。どうしても相容れぬというならば、魔族は魔族として生きられるような“世界”を作ろうと。そして同時に、それを妨害する魔王を――父を殺す事を決意する。
しかし、戦いの時……ウィルはどうしても魔王を殺せなかった。仮にも父親だ。魔族を一番に考えている父も、自分を狙う息子に刃を向けれずにいた。……しかし、ウィルはとうとうその刃を父に向けた。
――そして貫いたのは、生涯愛すると誓った……人間の女、ミーナだった。ミーナは戦で家族を失った、だから親子で殺しあいをする二人を見たくなくて、命懸けで止めたのだ。
ウィルは嘆き悲しむ。どんどん消えゆく愛する人の灯を間近で感じながら、ひたすら涙を流した。庇われた魔王も、いかに自分が愚かな事をしていたのだと気付く。ミーナは愛する人と、その父を見ながら……最後に言った。
『いつかきっと、魔族と人間が仲良く暮らせる……平和な時を作ってください。私をそのキッカケとして、どうか、どうか』
そして、ウィルの愛した人は眠るように息を引き取った。ウィルはその亡骸を抱き締めながら、彼女に誓う。
『何百、何千、何万年とかかろうとも……俺は絶対に平和な時を作ると、約束しよう。そしていつの日か平和が訪れた時――生まれ変わった君を、迎えに行く』
そして、ウィルと魔王は――魔族だけの世界を作り上げた。今はまだ人間と距離を置く事しかできないけれど……いつの日か、必ず隔たりのない関係を作るために。ウィルとミーナが、再会を果たせるその日を夢みて。
――これが、アムカ誕生記念の由来だ。しかしただの物語ではなく、これはれっきとした実話。次代魔王となったウィルは、本当に何万年もかけて人間との和解に精力を尽くした。そのおかげで、今やどちらの世界にも普通に暮らしている人間と魔族がいたりする。戦争はなくならないが、それでもだいぶ平和になったこの世界……きっとどこかで、その記念の日に二人が出会える事を祈って、魔族はお祝いをするのだ。
そしてその日に、現魔王は妃とともに代表としてお祈りをしている。だから妃が必要なのだ。……しかし。
「……どういうことだ? 誕生記念が早まるとは」
魔王様は、訝しげにアイリーン様を見た。
……そりゃそうだろう。記念日が早まるだなんて、私にだって信じる事ができない。記念日が行われるのは決って千年ごと――つまり、あと三十年後のはずだった。それが早まるとは、いったい……?
アイリーン様は笑みを深くする。焦れた魔王様は急かすように睨むが、それでもアイリーン様は怯まなかった。そこに、宰相が口を挟む。
「まさかとは思いますが……生まれ変わったウィル様とミーナ様が?」
「ふふ――察しがいいわね、シックス」
その言葉に、私はハッとした。
魔族は――時々、前世の記憶を受け継いだまま生まれ落ちる時がある。もし本当にあの伝説の魔王ウィル様が生まれ変わったとして……そして、ミーナ様を迎えに行ったのだとしたら。なるほど、たしかに誕生記念も早まる理由となるだろう。元は二人の再会を願う祝いごとだ。再会出来たのならば、その時に祝わなければ意味がない。
運命の再会――ロマンチックなその話に、私は胸を熱くした。まさか自分がこうして生きているうちに、そんな幸せな結末を拝める事が出来るだなんて。感動するなというほうが無理な話というものだ。シックス――宰相様も、その瞳に感動を浮かべている。
……しかし、魔王様は違った。
「ふん。有り得んな、誰がそんなものを信じる」
「……うふふ、本当に強情ですのね陛下。でも、いずれわかりますわ。それではこの辺でお暇させていただきますわね」
アイリーン様は、綺麗に一礼をして――宰相様とともにこの場を去って行った。魔法を解いて再び汚くなった執務室に、私と魔王様だけが残される。
……魔王様は、もの憂鬱げに窓を眺めていた。その、いつもと違う表情に――私はどこか不安を感じる。いったいどうしたというのだろうか? まったく魔王様らしくない。いつもだったら、アイリーン様がいなくなった瞬間憤りをすべて私に向けるのに。だがそれもせず、魔王様は未だに窓を眺めていらっしゃる。不気味すぎる。
まさか……あまりにも長いことアイリーン様と話されたせいで、気が触れてしまったのだろうか? 元々気が触れたような性格が当たり前ではあるのだが、これ以上となると――ううむ、手の施しようがない。案外これなら、魔王様はアイリーン様とご結婚なされる前に魔王の座を降りる事になりそうだ。それはそれで、私の平和は訪れるのだけど。
――うんうん、と。私が納得顔で頷いている前で、魔王様は……唐突にうっすらと笑みを広げた。その凄惨な笑みに、私はドキリとする。もちろん、それに甘い比喩はされない。恐怖ゆえの“ドキリ”である。
「……ふはははは! いい事を思い付いたぞ。うむ、やはり我が輩は天才だ」
「ど……どうかなさったんですか……?」
「知りたいか?」
いえ、ぶっちゃけ知りたくありません。そう口に出る前に、魔王様は実力行使でそれを遮った。つまりラリアットを食らった、顔面に。
……痛む鼻を押さえながら、私は危惧した。まさかとは思うが、ウィル様とミーナ様を殺す、なんてことだけはありませんよね? 結婚を早まらせないために証拠湮滅、とか。はははは、シャレにならねぇ。
ビクビクと魔王様の言葉を待つ私。そんな私に、魔王様は――爆弾発言を投下された。
「――今し方、ずっと考えておったのだ。貴様の仕置方法を」
「……え?」
「先ほどはよくも我が輩の意に背き、アイリーンに賛同したな? アレのせいで、我が輩の繊細なガラスのハートは粉々に砕け散った」
……なにを言いやがる、この魔王は。ガラスはガラスでも防弾ガラスのハートのくせに。しかもダイヤモンドで出来たハートだ。
しかし、これはまずい事になった。雲行きがとても怪しい。アイリーン様のあの強烈な話題のおかげで、間違いなくお咎めはなくなったと思っていたのに。さすがダイヤモンド製防弾ガラスのハートの持ち主――どれだけ叩いても、ヒビどころかすり傷さえつけられない。根に持つタイプって本当に怖いわね。
……なんて悠長に考えている暇はない!!
私は訪れようとしているお仕置から逃げるため、颯爽とその場を去った。俗に言うと、ずらかった。これでも魔王様の専属メイド……逃げ足だけなら、誰にも負けない!
――私は後ろから迫り来る、フライパンを持った大魔王から必死に逃げる。ああ、歴代魔王様。私は今日も不幸です。