惨劇過激な逃走劇
時が流れるというのは、早いもの。
――時間にして、三時間と三十四分。なんの時間なのか、ですか? もちろん私レフティが、完全にパルクールをマスターした時間でございます。今や私は、トムと遊び半分の危険な鬼ごっこが出来るほど、成長していたり。やはり私はすでに覚えていたのだ。日常で。
トムは「一旦休憩だ」と疲れたように言いながら、近くの塀に腰掛けた。
「っかあー! 疲れた! レフティ、参ったよ。お前才能あるなー」
「いえいえ。私はほぼ毎日、死と隣り合わせな仕事でしたから……多分鍛えられたんじゃないかなぁと」
「……あれ? おいレフティ、お前使用人とか言ってなかったか」
「はい! ちなみに一時間に二回は命を落としそうになります」
「そんなデンジャラスな日々を送る使用人がどこにいるんだよ!」
もちろんここに! ……と、私はハッと我に返り訂正し直した。
「じょ、冗談……です?」
「俺に聞くな。しっかし、惜しいなぁ」
「あはは……そう言っていただけると、私も無駄な拷問を受けてきたわけじゃないんだなって思えます」
「……だからどんな使用人生活だったんだ……」
同情の色が伺える表情をして、トムはそう言った。私は苦笑いを返す。
――この数時間で、私とトムは幾分か仲がよくなった。どうやら彼は私の一個上でありながら、すでに彼女という存在がいるらしい。いや、本当は普通なのかもしれませんが。……いろんな意味で切ない。しかしまぁ、そんなトムの彼女はどうやら魔族だそうで、しかもあのベッフェ神殿にいるという。
もしかしたら魔王様が会ってるかも知れないなぁ、なんて思う私。……そして、なにもちょろまかしてない事を祈るばかりだ。仲良くなったあとで敵になるなんて、どんだけ最低な奴なんだ。本当にそれだけは勘弁したい。
トムに「魔族と人間の恋なんて素敵ですねー」と言ったら、彼ははにかみながらも「尻に敷かれっぱなしだけどな」なんて、すこぶる幸せそうに言っていた。それを羨ましく――少し妬ましく思いながらも、私は心底応援したくなる。
どうやらトムからアタックし続け、念願の恋人同士になれたらしい。今年でもう四年なんだとか。……本当に、羨ましい。同族じゃなくても一緒にいて問題立場だというのが、とても。
「――ん? なぁレフティ、あれお前の主人じゃね?」
「え? ああ、本当で、す……ね…………?」
……遠くから、笑顔で走って来る魔王様。しかし、その後ろからついて来る人に――私は絶句した。
「魔王様ー! こぉんなところで何をしているのですじゃー!! はよう城へ戻り仕事をこなしなされーっ!!」
「ふはははは! まったく盲点――忘れていた! まさか神殿に口うるさい偏屈ジジイがおったとは!!」
「またそのような口の悪い……! 今日会ったが百年目! 魔王様、お覚悟なされよっ!!」
その――魔王様を追いかけ回す、白髪のおじい様。あの方はかつて魔王城で宰相を勤めていた、現宰相様の実の祖父。シクソン・ヴォロテニア様……その人だった。
ここを目指して来る魔王様とシクソン様を見つめながら、私は記憶を思い返す。たしかシクソン様が現宰相様にその場を譲ったのは……六年前だったか。つまり会うのは六年ぶり。去り際、荷がおりたかのような満面の笑みと――そして城は大丈夫だろうかという不安そうな表情が、今でも印象的な方である。
現に、シクソン様が去ったあとの魔王城は、しばらく大混乱だった。仕事中にいきなりいなくなるわ(私を拷問するため)、気付いたら城が半壊するわ(私が逃げたため)、そこらかしこに罠等のトラップを仕掛けるわ(余興で私や現宰相様をハメるため)、本当に地獄のような日々だった。
いったい何度使用人や兵士達の中で暴動が起きただろう? 「シクソン様を呼び戻せ!」とか、「魔王様を変えろ」とか。まぁ、今やそんな事をおっしゃられた方達は……城にいないのだが。自ら消えたわけではない。気付いたら消えてました。
――しかしまさか、ベッフェ神殿にてシクソン様が働いていたとは。まったく思わなかった事に、私は素直に驚く。現宰相様ですやら、「祖父が何処へ行ったのかさっぱりでして」と呟いておられたのに。
いや、うん。
まさか……とは思いますが。
……魔王様がシクソン様に、“ベッフェ神殿で働け”なんて言ってたりは……しません、よね。ははは。
そう言えばシクソン様が魔王城を去る前日、魔王が「あのジジイやっと罠に掛かったか」とか呟いていなかっただろうか? 「これで孫に座を譲り城から消えるだろう」等も。私も等々記憶を作ってしまうようになったのだろうか。うん、きっとそうだろう。
……。
そうだといい。
「……おい、レフティ?」
「あ、すいません。ぼーっとしてました。どうかしましたか? トム」
「いや……あの人、魔王なの?」
「はい! ……え?」
やらかしたー!
私は、魔王様にしばかれると凍り付く。
な、なんでバレたんでしょう……? 私からはまだ、何も言っていなかったはず。しかしオドオドする私にトムは、大声で叫ぶシクソン様を指差した。「待つのですじゃ魔王様ー!」と……天に響き渡るようなシクソン様の声。よかった、シクソン様のせいにできる。ふふふ。
……って私まで性格が悪くなっているではありませんか! なんという事でしょう、魔王様のソレは感染するようなものだったなんて……!! ああ、さようなら純粋な私――でも出来れば帰っておいで。魔王様から飛んできた瓦礫を避けながら、私は神に“元に戻れますように”と祈った。
「――いつまで逃げるおつもりですじゃ、魔王様!」
「ふん。口の煩さは未だ健在のようだな、この隠居ジジイめ!」
「魔王陛下が魔王陛下である限り、この儂に隠居という言葉は存在しませぬ!」
「……ちっ、こんなに元気なら“不況の地”にでもとばせばよかったか」
魔王様とシクソン様の鬼ごっこは、まだまだ続く。今や魔王様達は、パルクールのトレーニングに使っていた建物を使いながら、奇妙な追いかけっこを披露していた。そんな途中で、シクソン様は私にお気付きになられる。
シクソン様は魔王様から視線を外さず、かつ追いかける執拗さを少しも減らさず、私へと声を掛けてきた。
「お久し振りですな、レフティ嬢!」
「お久し振りでございます、シクソン様っ」
「よいお返事です。随分ご成長なさりましたな……っとと! ――いやはや、儂も誠に嬉しい限り!」
器用に魔王様から攻撃を避け、シクソン様はうまく身をこなしていく。やはり、すごい。本当に伊達じゃない。さすが、長いこと魔王様の側で働いていただけのことはある……、私も現宰相様もシクソン様を見習わなければならないな。むしろ、魔王様のお目付け役ということで戻って来てくださらないだろうか。真面目に。
もしかしたら今のうちかもしれないので、私はシクソン様の華麗な身のこなしを必死に頭へインプットしておいた。もちろん希望としては魔王城に戻って来てもらう事なのだが、しかしそう簡単に魔王様が頷くとは思えない……可能性は薄いと言えるでしょう。だから今、なるべく今後役に立てるように――しっかり記録をせねばなるまい。
「ちぃっ! おい、この下僕! つまらん顔で真剣に見るのではなく、さっさとこのクソジジイを取り押さえんか!」
「……またそのような! しかもなんですじゃ、か弱き少女に“下僕”とは! 儂は悲しい……悲しいですぞ魔王様! ああっ、涙が止まりませぬ!!」
「黙れ子泣きジジイ!」
シクソン様と魔王様の戦いは、ヒートアップしていった。このままうまくいけば、きっとシクソン様が魔王様の性格を少しでも調整してくれるでしょう。それを願うばかりだ。
「ぬぅ、こうなったら――! 今は神殿の神官でも、心はまだ魔王陛下の忠実なる家臣……刃を向ける事、お許しくだされ!!」
シクソン様は一度立ち止まり、詠唱し始めた。
そして。
「暗黒なる鎖!!」
キターー!!
唯一あの魔王様を捕らえる事の出来る伝説の上級魔法、その名もダーク・チェーン……まさか再びこの目で拝む事が出来ようとは! しかし忘れちゃならないのが、それを扱って本当に魔王様を捕らえられるのが、シクソン様ただ一人だという事です。宰相様がおやりになったとしても跳ね返されるばかりか、何倍ものお返しが待っている事でしょう。私は魔法が使えないので論外。使えても選択肢には入れておりません。
だから、伝説の中の伝説なのです……この魔法は。まさかそれを身を持って体験出来るとは、まったく思いませんでした。ええ、本当に。自分がその魔法を変わりに受けてしまうなんて、思いませんでしたとも。ハハハ、魔王様に盾にされてしまいました! ちっくしょぉおおおお!!
――魔王様は、鎖でグルグルにされた私を抱えながら、冷笑を返す。
「ほう? 貴様我が輩というものがありながら、異性に縛られるとはな。なかなか勇気のある……」
「いやいやいや! なに自ら進んでやったみたいなお言葉を!?」
「そうか、我が輩を庇ったのか。それは疑って済まなかった。お返しに、城へ帰ったら好きなだけ縛ってやろう」
「明らかに棒読みというかなんというかとにかく誰かお助けー!!」
鎖で縛られたまま魔王様に踏み付けられる私を、シクソン様はもちろん、トムやその仲間達も皆愕然として見つめていた。私はその反応に涙を流す。……あああ、魔王様。このままでは誰も魔王城で働いてくださりません。魔王城へ行ったら人生が終わる、そんな根も葉もない噂が広まってしまいます! いや、あながち嘘ではないのですが。
どうしようもないと、私が落胆をする中――魔王様は踏み付けていた私を、一旦抱き上げてくださった。そして荷物のように担ぎ直し、シクソン様へ向かって一言。
「さらばだ!」
「っうええええ!? 逃げるんですか魔王様!?」
まさかの逃亡。
「んなっ……逃がしませんぞ魔王様ぁぁああああ!」
……そして結局。
私は魔王様に担がれたまま、一日中シクソン様に追いかけ回されてしまったのでした。