郷に入れば郷に従え?
魔王様は「さっそく行こうではないか」と、本当に“私が”重たかった腰をあげ、我先に神殿へ向かって歩き出した。私はそれに溜め息を吐きながらついていく。
……大丈夫だろうか、本当に。“ちょっとくすねるだけだ”と、あたかも魔王様はつまみ食いのようなノリで言っているが――心配でならない。本当にちょっとで終わればいいのだが。
「……む? ほう、アレは……」
「? どうかされましたか、魔王様」
「見てみろレフティ。アレが“パルクール”だ」
魔王様の視線の先――そこにあったのは、複雑な形をした白い二件の家だった。人が住むために造られたというよりは、それを練習するために造り上げられたような家で……そこには、三三五五となって指導を受けている、私よりちょっと上くらいの年代の人達がいた。私は、その光景に目を奪われる。
「――すごい」
その人達は、足場が細い塀を身軽に飛び、歩き――また飛び下りながら、空中で綺麗な旋回をして着地をしたり、何もない高い塀をジャンプ一つでよじ登る。壁という壁をちょっとした突起を掴んで登り、かなり距離のある所を恐れもなくジャンプする――エキスパート達がいた。
すごい、としか言えない。魔族でもないただの人間が、ああも身軽に動いている。失敗したらただの大怪我では済まされないというのに、そんな恐れを微塵も感じさせないあの技術。……あんな技術が、本当に存在していたとは。
何故だろう? あの風景が心に染みるのは。ああ――そうか、わかった。
『ふはははは! それそれ、逃げんとこの刀の餌食だぞレフティ!』
『リアル鬼ごっこー!!』
……あれれ、楽しかったはずの思い出なのに悲しい涙が。
「ふむ、やはりいつ見ても素晴らしいな」
「……魔王様ならアレぐらい朝飯前じゃないですか?」
「何を言う、人間がやるからこそ素晴らしいのではないか。魔族に近付こうとした努力の結果――やはりあの光景だけは感服するな」
……!?
ま、魔王様が素直に褒めている……だと!? おかしいなぁ今日晴れてるのに!! 明日は嵐なのだろうか。……いてててててて、耳を引っ張られました。
とにかく。アレが魔王様の言っていたパルクールという、トレーニング方法? らしい。でもたしかにあれならトレーニングになるだろう。なにからなにまで鍛えることが出来る。私はあんな細い足場で飛び回る事はさすがに怖くて出来ないが、塀を登ったり壁をよじ登ったりする事だけなら出来そうだ。細かく言えば身の危険を感じた時。あ、それなら足場が細くても出来るか。さすが魔王パワーです。
そんな感じで、私は呆然とそれを眺めていた。そしたらそれに気付いたのか、リーダーっぽいお兄さんが声を掛けて来る。
「興味あるならやるかい? 別に金は掛からねぇぜ」
「えっ、あっ」
「本当ですか。なら……彼女をちょっと鍛えていただけますか? 僕は魔族なので必要ないのですが、彼女は人間なので覚えたほうが“なにか”あった時安全です」
ぼ、僕ぅ!?
このSっ気溢れる顔と性格と雰囲気をしておいて、僕だと!? しかも“なにかあっても”って……どう考えても、私からしたら魔王様を指しているわけでして。それに覚えたからといって、絶対に安全ではないと言いましょうか。
……それ以前に、なにを勝ってに決めているんですかと問うてやりたい。いや、もちろん拷問が待っているので言えないけれど。
「おー、そんな事ならお安いご用だぜ。ただちーと女の子にはキツいと思うんだが……大丈夫? キミ」
「もちろん彼女なら大丈夫です。一日中魔獣と戯れていても、体力がとても有り余るほど丈夫な方ですから。……そうだな、レフティ?」
“貴様に拒否権など最初からありはしないのだから”、と。……言わずとも聞き取れた、魔王様の黒き心の声。
「……ももももちろん」
「すんげーどもってない? マジ大丈夫なの?」
「ははは、彼女は極度の恥ずかしがり屋ですから」
魔王様は見せかけの優しい笑顔を振りまきながら、見えない所で私の尻の肉を引きちぎる勢いで抓る。うまく演技しろ、とでもいいたいのだろうか。……無理ですからそんな。
害虫のような――いや、害虫にすらなれなさそうな私なんかに、そんな高度な技術を持ち合わせているとでも? ええ、自分をどれだけ卑下にしてでも、私は大声でハッキリと言わせていただきます。努力はするので抓らないでくださーい!!
「では、彼女をお願いいたします」
「おう」
「レフティ、我が――僕はちょっと神殿へ行って来るよ」
ぷぷー! 今“我が輩”って言おうとしましたよ、魔王様ってば! やはり滲み出る俺様気質というものは簡単に誤魔化せるものではないと言ういたたたたたたっ!! ナレーションはさせてください魔王様!
――魔王様は、小声で「“イイ子”にしてるんだぞ?」と。いかにも何かを含んだ笑みを浮かべ……、私に背を向けてこの場を去って行ってしまったのだった。取り残された私。
魔王様に頼まれたお兄さんが言う。
「彼、キミの恋人?」
「……いえ。なんというか……私がお世話をさせていただいてるというか、なんというかですね」
「俺と同じで顔は優男には見えたけどさぁ……なんか、裏ボスって感じしない?」
私はその言葉におおいに頷いた。
「ま、頼まれた事は成し遂げるぜ。ひとまず自己紹介だ。俺はここ“ヘムロック”のチームリーダー、トム・レナード。パルクールっつートレーニング方法を、一から十まで教えてる。成長した教え子は今あそこで、仮の先生をやってるかな。キミは?」
私は一瞬、パーティーにて使われた偽名を使おうか悩んだが……。先ほど魔王様は私の名を呼ばれていたのだし、本名でも問題はないだろう。私は「レフティと申します」と笑顔で言った。
「レフティね。よしレフティ、まず……俺はたしかにリーダーと名乗らせてもらってはいるが、ぶっちゃけ俺も雇われ人だ。だからリーダーではなく、仲間。いいな? だから俺の事は、トムと呼べ」
「トム様ですね。わかりました!」
「はいストップ。様はおかしい、お前は仲間に“様”をつけるのか?」
「えっ。……いや、でも、私」
「郷に入れば郷に従え。つまりだレフティ、ここ“ヘムロック”にいる限りは……俺らのルールに従う。いいか?」
私はしばらく黙り込む。
……郷に入れば郷に従え。すなわちそれは、その土地やその環境に入ったならば、そこでの習慣ややり方に従うのが賢い生き方である、という意味の表現。たしかにその通りだ。まったく意味が無さそうでも、やるのがルール。いつか、意味があったと思うかも知れないのだから。
その言葉が染み込んだ時――私は、しっかりと頷く。
「わかりました、トム」
「おっし。それじゃあ、レフティには俺が直々に教えてやる。残念ながら俺は厳しいぜ?」
「まかせてください。鍛えられた私の精神力、見せてあげます」
――そして私はトムの指導の元、トレーニングを開始するのであった。