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その一件以来、道を歩く度に花の香りを嗅いだり縁取られた人間が見えるのか、と私は内心怯えました。しかし、そういう事は全く起きませんでした。そもそもその様な特殊な患者が少ないのか、或いは私の…多分妻から受け継いだ…特殊能力が大した力を持っていないのか、のどちらかだと思います。
次の患者に出会ったのは、約一年後でした。
やはり、同じ病院内で、です。私は、風邪を引いた父の付き添いで来ていました。
花の香りが漂ってきて、私は自分が呼ばれている事に気付きました。
父に、しばらく席を外す事を伝えると、私はその香りを辿って行きました。
前回と違い、その患者は大部屋に横たわっていました。しかし大部屋と言っても、患者は彼ともう一人だけ、あとは空きベッドでした。
彼は年の頃50代くらい、傍らに奥さんらしきご婦人が付き添っていました。綺麗な着物を着て、とても上品そうな女性でした。
彼女の存在に、私は戸惑いました。事情を知らない一般人にどのような説明をすればいいのか、見当もつかなかったのです。しかし目の前の男性は、たしかに、縁取られている。私が救うべき、病人だ。
私達は目が合い、私は軽く会釈をしました。
「……主人の、お知り合いですか?」
「……ええ、まあ」
この時点で、私は明らかに嘘をつきました。
「市役所の方ですか?」
私の様子に多少不信感を持ったであろう夫人が、警戒心を持って尋ねてきました。何故ここで市役所が出てくるのか、私にはさっぱり解りませんでした。今思えば、彼の勤め先だったのかもしれません。
私は、ぎこちない笑みを浮かべながら尋ねました。
「ご主人の、具合の方はいかがですか?」
「……よくありません。免疫不全の合併症を起こしている、とお医者様から説明を受けましたが……何がどうなっているのやら……」
溜息をつきながらご婦人は答えました。不審人物であるはずの私に事情を打ち明けるとは、この人は実は見た目以上に疲れきっているのかもしれない、と思いました。
私は思い切って、申し出ました。
「しばらくの間、席をはずして頂けないでしょうか?」
「……何故ですか?」
彼女の目が見開かれ、眉が吊り上がり、私達の間に一気に緊張感が走りました。
私はゴクっと生唾を飲み込みました。戦場で生死を分ける様な戦いを経験した私でも、こういった分野は全くの未経験でした。全く、先が読めない。
「……ご主人と、お話をしたいと思いまして」
「主人は話の出来る状態ではありません」
彼女は即答しました。その身体は、得体のしれないモノは自分の主人に近づけない、という無言の強い気迫で溢れていました。
「あなたはお医者様なのですか?」
「残念ながら、違います。けれどもこちらの方を救う事は出来ます」
「失礼ですが、何をおっしゃっているのかさっぱり分かりません」
「ほんの5分でいいんです。席をはずしていただけませんか?」
「すみません、それは出来ません。存じ上げない方と病人の主人を、二人きりにする事は出来ません」
キッパリと言い放つ彼女は毅然としており、つい一分前に、私に溜息混じりの弱音を吐いた女性とは思えませんでした。
「……おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」
今度は私が溜息をつく番でした。
覚悟を決めた私は、睨みつけるご婦人になるべく視線を向けない様にして、ベッドの上の男性に近づきました。
私は、自分の出来る事を最大限、精一杯やる。それが、妻との約束なのです。交わした事の無い、しかし破る事の出来ない約束なのです。何故なら妻は、自分の命を投げうって、私の命を救ってくれたのですから。私は絶対、あの戦場では死にたくなかった。死ぬならこの日本で、死にたい。妻はその願いをかなえてくれたのです。裏切ることは、出来ない。
私は病人の耳元に口を寄せると、歌を歌い始めました。例の、私が唯一知っている妻の歌です。
この緊張下において前回の様に力を発揮する事が出来るのか、この歌に想いを込める事が出来るのか、私は不安でした。しかし、その不安は杞憂でした。
歌い始めて10秒も絶たずに、奥さんが凄い剣幕で止めに入ったからです。
「変な事をしないで下さい! 何をなさっているんですか?」
「済みません、邪魔しないでください」
「なんですの、あなたは! やめて下さい! 主人におかしな事をしないで!」
「確かに変ですし、おかしいです。でも私は、ご主人を救おうと…」
「誰か! 誰か来て!! 誰か!」
今までの落ち着いた雰囲気から一変、彼女はヒステリックに大声で叫びました。
私は一瞬呆然としましたが、すぐに我にかえり、慌てて部屋を飛び出しました。やはり彼女は精神的に、相当追い詰められていたらしい。
妻の、「患者の家族は必ずしも協力的とは限らない」の台詞を思い出しました。
相変わらず、花の香りは漂っている。それを嗅ぎながら病室に背を向け、小走りに逃げていく自分が、まるで妻に背を向けて裏切っている様な気分でした。私はとてつもない無力感に包まれました。自分がどうしようもなく、奇妙で得体のしれない人間になってしまった様な気さえ、しました。
次の患者に出会ったのは、それから更に一年後でした。
私は仕事で外回りをしておりました。ビルの電気配線のアフターチェックです。そして、小児専門病院に向かいました。そこで、あの花の香りを嗅いだのです。
その瞬間、私はひどく緊張しました。小児病院であると言う事は、保護者の付き添いがある場合が多い。そうなるとつまり、前回の様に激しい拒絶と門前払いを受ける可能性が高い、と言う事です。
しかも救うべき患者は、子供。病院内を混乱に陥れる結果になっても、前回の様に簡単に引き下がるわけには、いかないだろう。
しかしそうなると、私は職を失うのではないだろうか? だとすると、出なおすべきなのでは?
そう思いつつ香りを辿っていくと、入院病棟の廊下に、一人の男の子が立っていました。5,6歳と言った所でしょうか。寝間着姿の深い眼差しの子供で、何もかも見据えた様なその瞳は、何故か妻を彷彿とさせました。全体的にやせぎすで、青白い顔色をしていました。
そして彼は縁取られ、鮮やかに浮かび上がっておりました。その彼の周りで、妻の香りが充満している。
私達は廊下で、しばし無言で対峙しました。
「おじさん、だあれ?」
男の子はぬいぐるみを片手に、静かに聞いてきました。
私は穏やかに答えました。
「君の病気を治しに来たんだ」
「……ふうん……」
「ちょっとの間、おじさんの下手な歌を聞いてくれるかい?」
「いいよ」
その子は、とても落ち着いていました。彼を見ていたら、途中で親が来たらどうしよう、といった不安は消えていました。
私はその場に跪き、微笑みながら彼を引き寄せました。男の子は、ちっとも恐がりませんでした。
私は彼の耳元で、あの歌を、歌いました。胸の中は愛しさで溢れ、恥ずかしさや戸惑いは、全く起きませんでした。
歌い終わり一息つき、私は彼の顔を見ました。彼の顔色は明らかに良く、頬に赤みが差し、目の輝きも違って見えました。
彼は私を見て、言いました。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
自然と私の口からお礼の言葉がついて出ました。私達はどちらかともなく微笑み会いました。
もうこの子は大丈夫、そう確信しました。私は、成功した。
再び、やってのけた。
その時です。
「……おじさん、だあれ?」
男の子の数メートル背後から、子供の声がかかりました。
二人して振り向くと、そこには少し年上の…8,9歳くらいの女の子が、やはり寝間着姿で立っていました。
人に見られた緊張感で体を強張らせていた私は、相手が子供である事を知って、内心ホッとしました。
しかし、それが悪かった。
病人らしく顔色の悪い彼女は、少し驚いたように目を見開いて私を見つめました。
「後ろが光ってるよ?……わかった! おじさん、神様なんでしょう!」
後ろが光ってる?
私は絶句して、慌てて自分の後ろを見ました。もちろん、何も光ってはいません。
再び彼女に視線を戻しましたが、女の子は期待に満ちた瞳で私を見上げていました。私は大変戸惑いました。
小さな子供が不思議な力を持っている、という話は、時々聞く。長い闘病生活を送っている人間が不思議な物を見る、という話も、たまに聞く。
でも一番の問題なのは、この女の子の周りは、何も縁取りがされていない、という事なのです。
縁取りもされておらず、花の香りも、全く、しないのです。しないどころか、私達の空間からはすっかり消えてしまっていた。まるでお役御免と言った様に、です。
私は彼女の顔を見ながら、焦ってきました。
そんな私の焦りを知っている様に、彼女は言葉を畳みかけました。
「神様で、わたしの病気を治しに来てくれたんでしょう?」
「……」
「わたしにもやって! あの子にやったみたいに、お歌を歌って、わたしを治して!」
やっと掴んだ希望の光。そう言っている様に、全開の笑顔の奥には縋りつく様な色があります。
私は断ることなど、出来ませんでした。
例え気休めでも、それがこの子の病気のプラスになる、と信じたかったのです。
「……いいよ、やってあげる」
私は彼女に近づくと、跪き、あの歌を歌いました。しかしその歌は、自分でも戸惑う程、精彩さに欠ける歌でした。あの感覚を取り戻そうとしても、全然上手くいきませんでした。
「違う!」
女の子が、私の歌を遮る様に叫びました。
「そんなお歌じゃない! さっきと全然違う! さっきと同じお歌を歌って! あの子にやったのと同じ事をして!」
「同じお歌だよ」
「違う違う!!」
「本当だよ」
「違う違う!!」
彼女は前屈みになり、体全体で主張しました。この不思議な女の子は、何もかも見通す事が出来るのに、私の患者では無いのです。
私は妻を思い浮かべました。何故だ、美代子。どうしてこの子では、ダメなんだ。何故、治せる病人と治せない病人がいるんだ。どうして目の前のこの子を、救えないんだ。
こんな時、私はどうすればいいんだ?
頼むから、戻ってきておくれ。
花の香りは、してきませんでした。妻の気配も、感じる事は出来ませんでした。
あの優しい彼女が、こうやって人を選別するとは思えない。これには多分、妻もコントロールできない何かの力が働いているんだ。そう思わないと、やっていられませんでした。
「……ごめんね。……出来ないんだ」
声を絞り出して言うと、女の子は私の肩を激しく叩きました。
「嘘つき!! 出来るって言ったのに! 嘘つき!」
目の前の男の子は、辛そうに俯いています。しかしこの場から去る気配がありません。
ひょっとしたらこの子達は、この病棟で仲が良かったのかもしれない。この女の子は、この男の子の姉の様に面倒を見てきたのかもしれない。
そして私は今、そんな二人の仲を裂いてしまったのかもしれない。
「治してよー。お家に帰りたいよー」
女の子は泣きながら、私の肩を叩き続けました。
「おじさんは無理でも、必ず、お医者さまが治して下さるよ?」
「嘘だ! だってずーっとずーっとここにいるもん! ちっとも治らないもん!」
「少しずつ治っているから、ここにいるんだよ」
全く気の利いた事を言えない私の肩を、彼女はずっと叩き続けました。
その様子は、やはり全てを悟って見通しているかのようでした。分かっているからこそ、誰かに悲しみをぶつけずにはいられない。幼い筈の女の子が、とても大人の女性に感じました。
私はずっと、その場に座り続けました。
助ける事の出来ない病人まで、何故引き受けるか。
あの時妻は、なんて言ったのだろう?